3-16 I.D.E.A
――金魚の水槽に、絵の具は滴った。
侵蝕される世界、壊れゆく日常。
そして彼女は、震える手で絵筆をとる。
――日常はきっと、真綿で首を絞めるように壊れていくんだろう。
油絵を描きながら、ふとそんなことを思う。驚くほど平凡な、日曜の昼下がりのことだった。
ここ最近、私の町は何かがおかしかった。何が? と訊かれると、上手く説明できない。
例えば、動物の死骸を見かけることが増えた。ある日突然、近所の川の水がヘドロで真っ黒になった。不審者に追いかけられたという噂が出回った。はす向かいの家で自殺があった。
決定的な何かが起こったわけではない。でも間違いなく、ナニカがおかしくなり始めていた。
でも、うちはまだマシな方だった。隣の市では立て続けに殺人が起きているし、沿岸の方ではよく分からない巨大生物の死骸が漂着したと聞く。
外国はもっとひどい。全身がドロドロに溶ける原因不明の感染症が流行してるだとか、カニバリズムを信仰するカルト教団だとか、各地で目撃される謎の飛行物体だとか。とにかく不気味なニュースばかり。
「世も末、かぁ」
気が滅入って仕方ない。絵もさっぱり捗らなかった――やっぱりこの画風は、私には合わないようだ。更に追い打ちをかけるように、青色の絵具が切れた。
「うわっ、最悪……」
ずさんな在庫管理をした自分を呪うが、それで絵の具が補充されるわけでもない。買い足しに出る必要があった。溜息を吐いて、私は仕方なく椅子から立ち上がる。服を着替えて靴を履き、扉を開けて外へ。
どんよりとしたご時世と裏腹に、空は呆れるほど爽やかな秋晴れだった。
◇
画家として、絵の具にはちょっとしたこだわりがある。既製品ではなく、材料を買って自作するのだ。その方が色合いや光沢を描きたいものに合わせて調整できるし、絵の具を手練りする感覚が私は好きだった。当然、材料にもこだわる。
そんなわけで、画材屋を出る頃には日が暮れ始めていた。
茜色に染まり始めた町は、静穏そのものだ。楽しそうに話す買い物帰りの親子が、私と擦れ違う。防災無線から流れる『夕焼け小焼け』のメロディが、ノスタルジックに響く。どこかの家から漂ってくるカレーの匂いに、思わずお腹の虫が鳴る。
違和感なんて一つもない、いつも通りの日常。それが忍び寄る狂気を希釈してくれているような気がして、ほっとする。買い出し自体は気が進まなかったけど、家に籠って絵を描いているより、かえってよかったのかもしれない。
「今夜はうちも、カレーにしようかな」
そんなことを考えながら、私は十字路を右へと曲がって。
――その先で、ソレに出遭ってしまった。
私は初め、こちらに背を向けるソレが変質者ではないかと思った。電柱の下でうずくまる輪郭は太った人間そっくりだったし、衣類を何も着けていなかったからだ。でも、違った。
――歯茎を思わせる、ピンク色の肌。
――出来の悪いデッサンみたいに、左右で明らかに違う肩幅。
――不格好な体を支える、奇形の三本足。
どう見てもソレは、人間じゃなかった。
「ま゛ァ! ま゛ァ!」
あまりの醜悪さに息を呑む私の前で、化け物が甲高い声で鳴いた。どうやら食事中らしく、両手で握り締めた犬か何かの死骸に、嬉々としてむしゃぶりついている。
異常な光景にようやく脳が追いついて、体が動かせるようになる。私は化け物を刺激しないよう、ゆっくりと後ずさろうとして。
くしゃり。
手に持つ買い物袋が、音を立てた。
「あ゛おぉ?」
しまった、と思った時には遅かった。
化け物が振り向く。のっぺりとした顔には鼻と瞼がなく、口元は血と脂で不衛生に汚れていた。
「ひっ!?」
腰が砕けて、その場に尻もちをつく。一刻も早く、この場を離れなきゃ……そんな思いばかりが逸って、手足が上手く動かない。助けを呼ぼうにも、恐怖で喉が引きつってまともに声を出せそうもなかった。
「ぐぇぇぇぷ」
化け物は一度だけ、大きくげっぷをした。それから食べ残しを投げ捨てると、私へ向かって一直線に走ってきた!
「い、いやっ……!」
引き攣った私の喉が、辛うじて悲鳴を絞り出した。
――罰が当たったんだ、きっと。
世界が大変なことになっているのに、私だけがのうのうと暮らしていた罰が。私は、甘んじて死ぬべきだ。
だけど、そんな殊勝な思いは呆気なく生存本能に塗り潰されて。やっぱり逃げようとしたところで、化け物がばっくりと口を開けた。
「あ」
生臭い息が顔に吹きかかる。ああ、やっぱり私はここで死ぬんだな――そう確信した、次の瞬間。
バンッ!
何かが破裂したような音が、あたりに反響した。
「お、ぎゃゃあ!?」
化け物が絶叫して、よろよろと後ずさる。その右肩から、緑色の液体が噴き出した。
呆気に取られていると更に二回、立て続けに同じ音が鳴った。その度に化け物は仰け反って、体の別の個所から体液を迸らせる。私が『銃声』という可能性に思い至ったのと同時に四回目の音が鳴って、化け物はその場に崩れ落ちた。
「――目標駆除、完了」
背後から聞こえた声に思わず振り向くと、そこには黒縁眼鏡の男性が立っていた。ワックスで固めた黒髪に、上品なスーツとネクタイ。右手に拳銃を握ってなければ、いかにも敏腕のビジネスマンといった格好だ。
「こちらホーク1。本部、応答願います」
彼は懐に銃をしまいながら、反対の手でインカムに話しかける。
「任務中に異常種1体と遭遇し、駆除しました。取り急ぎ回収班の手配を。17時06分現在のイデア侵蝕値は16.8%。以上」
通信を終えたのだろう。男性はインカムから手を離すと、私の方へと視線を向けた。
「失礼、お怪我はありませんか?」
「は、はい……」
「それはよかった。立てますか?」
言いながら彼は、革手袋を付けた手を差し出す。好意に甘えてその手を掴むと、彼は私の体をそのまま引っ張って起こした。その力が思っていたよりも強く、立ち上がった私は少しよろめいてしまう。
「鹿野茉莉さんですね?」
「へ? そう、ですけど……」
唐突に本名を呼ばれて、思わず尻すぼみに答える。そんな私に彼は「ああ、やっぱり」と納得したように。
「実は貴女にお願いしたいことがありまして」
お時間をいただけないでしょうか、と。
男性は優しく、私に笑いかけた。
◇
――貴女の絵を、見せていただきたいのです。
鷹山と名乗った男性の言葉に、私は拍子抜けした。てっきり、あの化け物について聞かれるのだとばかり思っていたからだ。
そのくらいならと了承して、私は鷹山さんを自宅兼作業場へと招待した。
「ふむ……」
作業場に入るや否や、鷹山さんは絵の鑑賞を始めた――というより、鑑定を始めたように見えた。口と鼻をハンカチで覆い、至近距離で絵の細部を観察している。
「拝見しました。素敵な絵ですね」
「ど、どうも」
一通り見終わったらしい鷹山さんの言葉に、思わず頭を下げる。なんだか、有名な評論家を前にしているような気分だった。
「ところで、少しお聞きしたいのですが――」
そう前置きして、彼はこちらへ振り向いた。
「なぜ画風をお変えに?」
ドクリと、心臓の鼓動が嫌に大きく聞こえた。
「貴女の本来の絵は、こうじゃない。もっと奇抜で現実離れした……それでいて真に迫ったものだったはずだ。ピカソやダリのように」
「な、何を――」
私の言葉を遮るように、鷹山さんは私にタブレット端末を手渡した。そこに表示されていたものを見た瞬間、私の胃がギュッと縮みあがる。
そこに表示されていたのは、三枚の絵だった。
題名『溶ける人』。
題名『食人への賛美』。
題名『空から来たるもの』。
――そのどれもが、今まさに世界で起こっている異常を描いていた。
そしてそれは間違いなく、大学時代の私が描いたものだった。
「う、ぷっ!」
限界だった。辛うじて近くにあったバケツを抱き寄せて、私は嘔吐する。
「……すみません、無遠慮でした」
鷹山さんはそう言って、落ち着くまで私の背中をさすってくれた。
「ごめんなさい、ごめんなさい……っ!」
しゃくりあげながら、私は白状した。
いつからか、私が描いた絵が現実になり始めたこと。それが怖くなって、でも絵の道を諦めきれず画家になったこと。画風を変えて平和な絵を描いても、何も事態はよくならなかったこと。
知っていることを洗いざらい、全部話した。
「そういうことでしたか……重ね重ね、申し訳ありません」
話を聞き終えた鷹山さんは、そんな私に頭を下げた。
「言い訳になりますが、貴女を責める意図はありませんでした……いや。むしろ貴女には、我々に協力してほしいと思っています」
「協力?」
私が聞き返すと、彼は頷いた。
「プラトンのイデア論はご存じですか? 世界にはイデアという不変の真実が存在し、私達が認識する現実はその影に過ぎないという考え方です」
――今、この世界はイデアに侵蝕され始めています。
そう語る鷹山さんの口調は、真剣そのものだった。
「我々の脳はイデアに耐えられない……ちょうど金魚の水槽に、絵の具を混ぜるようなものだ。近い将来、現実という水槽には私達という金魚の死骸が浮かぶでしょう。それを防ぐために、私達の組織は設立されました」
鷹山さんはそう言うと、私に目線を合わせた。どこまでも真っ直ぐな目が、私を射抜いていた。
「我々は楽園機関”ミラビリス”。現実界を守るために、鹿野さん。貴女の力をお借りしたい」





