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3-15 月極万太郎一代記

日本各地に立ち並ぶ「月極駐車場」。それらが全て、日本の不動産業界の覇者、月極不動産の持ち物であることは、諸兄既にご存じだろう。世界のゲッキョクと呼ばれるまでになった月極財閥の創始者、月極万太郎の生涯に今一度光を当ててみたい。彼の不動産王への道は、戦後の横浜でアメリカの進駐軍を相手にジープの駐車の誘導をしてチップを集めることから始まった。これは出世を目指すサラリーマン必携の、日本最大の成り上がり譚である。


 高度経済成長期にも陰りが見え始めた昨今であるが、現在でも尚、日本の世界屈指の経済大国としての地位は盤石のものであることは疑いようがない。

 全国各地に立ち並ぶデパートやマンションなどの高層建築の数々。筆者は、バベルの塔のようなそれらの現代の楼閣を見上げるたび、よくぞ戦後の焼け野原からここまで立ち直ったものだという、この国の底力へ畏敬の念を抱かずにはいられない。

 大迷路のようにビルディングが敷き詰められた今日の日本では、移動するのに自動車は欠かせない。昭和30年代の後半には、カラーテレビ、クーラー、自家用車の新三種の神器が、その頭文字を取って「3C」などと呼ばれて持て囃されていたものだが、自動車が一家に一台あるのは、もはや常識の時代である。時の移り変わりというのは実に早いものだ。自動車が社会に増えれば、当然その駐車場も増える。全国各所の駐車場で、決まり文句のように書かれているのは「月極駐車場」という五つ文字だ。

 これらの月極駐車場は、すべて日本の不動産王、月極不動産の貸し出している土地であることは、この本を読まれている諸賢は既にご存じのことだろう。しかし、日本に誇る月極財閥の始まりが、初代社長・月極万太郎(げっきょくまんたろう)が終戦直後の混乱期に横浜でアメリカ進駐軍のジープの駐車の整備を行い、チップとして小銭を集めるという苦心の日々であったことを知っている人間は、とみに少ない。

 筆者はこの万太郎の十周忌を節目に、今一度日本に誇る偉人、月極万太郎の生涯に光を当て、彼のエネルギッシュな行動の原動力がどこにあるのかを探ってみたい。サンフランシスコ平和条約を締結した名宰相、吉田 茂をして「適材適所は月極に倣え」と言わしめた財界の巨人の人生は、まさに波乱万丈の連続であった。読者の皆様方の中には、思うように出世が進まず、会社で苦しんでいるんでいる方々もいらっしゃることだろう。当書が社会という荒波の中の一筋の標となりて、上を目指すサラリーマンの自己啓発のための書となれば、望外の幸いである。


 万太郎は昭和7年、埼玉県秩父市中村町の農村で父時蔵と母チトの間に生まれた。父の時蔵は十八歳、母のチトは十六歳の時のことである。月極家は埼玉県の豪農であり、その長男であった万太郎は蝶よ花よと可愛がられて育ったという。昭和7年は満州事変の翌年であり、軍靴の足音が彼方から響き始めた夏であった。万太郎は幼い頃から真面目純朴な人柄で、旧家の長男にありがちな増長もなく、集落では万ちゃんと呼ばれ親しまれ、健やかに育った。時蔵とチトは後に二男一女を儲け、月極家は祖父母と合わせて八人という大所帯の家族であった。筆者は、日本の年表と万太郎の生涯を照らし合わせて考える。仮に万太郎が生まれるのがもう一年か二年早ければ、学徒動員の対象になっていたかもしれず、財界の巨魁は異邦の地で若き命を散らしていたかもしれない。そんな可能性を考えるたび、筆者は運命の不思議というものを考えさせられる。いや、真の大人物とは、降りかかる災いを払う天運さえ生まれ持ってくるものかもしれぬ。そう思わせる程に、万太郎の生涯は一歩踏み外せば奈落へと転落するかのような、細い道程であった。

 幼少期の万太郎を知る史料は余りにも少ない。幼い頃の万太郎の姿をこの世に留めているのは、今や当時の尋常小学校のアルバムだけだ。生家も、月極家の家系図も、当時の様子を偲ぶことができるものは、全て昭和20年の秩父空襲の折に炎の中へと消えてしまった。万太郎の幼き頃を伝えるものは、当時を知る者の記憶ばかりである。無論、万太郎の幼少期を見守っていた当時の大人たちは鬼籍に入って久しい。筆者は今も存命の万太郎のご親族の方々にインタビューを試み、貴重な談話を得ることに成功した。特に興味深かったのは、万太郎の八つ齢下の妹、鈴原より子さんの思い出話だ。

 それは、万太郎が父母に連れられて東京の銀座を訪れた折の話だという。その当時、万太郎は五歳。二つ齢の離れた弟の徳次郎を伴った、ささやかな旅行であった。田舎育ちの万太郎の目には、日本一のビル街だった銀座はどのように映っただろうか。松坂屋・松屋・三越などの大手デパートメントが立ち並び、京橋を超えて第一相互館や昭和銀行京橋支店など、ニューヨークのマンハッタンを意識した尖塔造りのビルディングが並ぶ光景は、田舎の牧歌的な光景しかしらない少年にとって、異国の風景にも等しかった筈だ。しかし、意外なことに、その時に万太郎が最も興味を示したのは街並みではなく、街を走る数多の自動車だったという。その日、万太郎は母が幾ら手を引いても道を走る自動車の流れを眺め続け、一向に帰ろうとしなかった。秩父に戻った後も、母のチトに「どうして、ぶつらからずにあんなに沢山の自動車が走ることができるのか」「自動車が疲れた時は、どこで休めばいいのか」なという子どもらしい質問を幾つもぶつけて困らせたという。このエピソードを語ってくれたより子さんは、当然まだ生まれてはいなかった。しかし、母のチトがこの出来事を楽しそうに何度も思い出して語るので、自分で見聞きしたことのようにすっかり覚えてしまったのだという。

 佐藤千夜子の「東京行進曲」が大ヒットを博していた頃合である、ラッシュアワーという言葉や、地下鉄やバスといった公共交通機関が歌謡曲に唄われるまでに認知が高まっていた時節であり、万太郎はまさに自動車時代の寵児であった。

 月極万太郎が不動産業で巨額な富を得る傍ら、自動車趣味に勤しんでいたのは、斯界によく知られた話である。晩年は自宅のガレージに日産シルビアやホンダS600といった戦後の名車から、ダットサン16型や、AMCナッシュ・メトロポリタンのような戦前の高級車まで、沢山の車を大切に保管して、休日には油まみれになって自らの手で整備して乗り回していた。雑誌の表紙を幾度も飾ったその姿を目にした読者も多いことだろう。

 あるいは。万太郎は、本心では不動産業ではなく、自動車製造業で成功を修めたかったのかもしれないと筆者は想像している。万太郎が尊敬する人物を問われて決まって挙げるのは、本田宗一郎と豊田喜一郎だったという。彼らについては説明の必要はないだろう。現在の日本の基幹産業となった自動車製造業に於ける巨魁たちだ。理由を問われると、万太郎はいつもの人の良い笑顔で「車を作ってくれる方がいなければ、駐車場業は成り立ちませんから」と冗談とも本気ともつかぬ口調で答えていたという。それはきっと、自動車製造業の先達へと向けた衒いの無い尊敬なのだろうが、ここに同じ道を歩むことができなかった万太郎の悔悟と嫉妬を挟むのは、余りに邪推というものだろうか。

 

 さて、万太郎の生涯に最初の転機が訪れるのは、父時蔵の死である。戦局の悪化に伴い、四児の父であった時蔵も出征を余儀なくされたのだ。時蔵はビルマ方面15師団の二等兵として配属されたという記録が残っているが、戻ることなく戦死とされた。遺髪の一つも無かったが、当時では別段珍しいことでもない。

 万太郎が生前に残した回顧録などでは、その死ではなく、出征式が幼い心に焼き付いて離れなかったという。軍服で身を固め、肩に赤い襷をかけた父と、天を突かんばかりの紅白の幟。鳴りやまぬ万歳三唱の声。恐ろしくなって、仏壇の横で紅白饅頭を食べていると、真っ青な顔をした父に肩を掴まれ「母さんたちを頼む」と言われたこと。当時の万太郎は十歳で、出征の意味も十分に理解できた筈だ。だが、その事実を現実感を持って受け止めることができず、何か途轍もない凶兆の予感だけがぼんやりと頭を過るばかりだったという。事実、その後の月極家には凶事ばかりが続いた。祖父母の急逝、空襲での焼夷弾の直撃による、実家の全焼。月極一家は、母チトの実家の縁を頼って、一家五人横浜へと居を移すことになった。だが、そこが月極家にとって心地よい新天地とならなかったのは説明するまでもないだろう。程なくして日本は敗戦し、国家占領の橋頭保として、横浜にはアメリカ陸軍最高司令官、ダグラス・マッカーサーが進駐することとなったのだ。

 当時の横浜での月極一家の暮らしぶりは定かではない。万太郎の回顧録では、横浜の米軍駐留地に程近い場所にバラックを立てて暮らしていたとあるが、その詳しい位置は今となっては調べようもない。横浜基地から出入りする長大なアメリカの軍用車の車列は、万太郎に幼い頃に見た銀座の街並み程のカルチャーショックを与えたことだろう。マッカーサーが降伏文書の調印を行った横浜沖の戦艦ミズーリも、けたたましいエンジン音を鳴らして駆け抜ける星条旗を掲げたジープも、万太郎はバラックからじっと眺めていた。

 米兵相手に万太郎が商売を始めたのは、それから程なくしてのことだ。喧しくチューインガムやチョコレートをねだるでもなく、春を鬻ごうとするパンパンでもなく、ただ静かに笑みを浮かべてジープのタイヤの汚れを落とす少年は、米兵には随分と奇異に見えたようだ。殴られたことも一度や二度ではないという。だが、万太郎は駐車の時の合図の手振りを覚え、米兵の会話に耳を傾け片言の英語さえ話せるようになった。万太郎には人並外れて優れた才が幾つもあったが、その根幹にあったのは、観察力と忍耐力、そして相手へと向ける誠意などだと筆者は考えている。

 万太郎は、その名の通り米兵の(よろず)用聞きとして、横浜で名を知られていった。そんな万太郎を、敵国に阿る売国不義の輩と謗る声も数多くあったという。

 だが、万太郎が愛国の義士として評価を高める大きな出来事が起きた。それが、万太郎が阻止した、駐留軍のトミー・ブライト一等兵による、婦女暴行未遂事件である。

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― 新着の感想 ―
[一言] 【タイトル】インパクトはあり、月極万太郎という人物の一生を描く話ということが想像できる。 【あらすじ】「月極駐車場」ネタの、成り上がりもの。異世界での成り上がりから現実世界へ、ということだ…
[一言] 3−15 月極万太郎一代記 タイトル:強そうな名前。彼の人生が描かれるんやね! あらすじ:最高w不動産王月極爆誕!!!絶対読みますw 引き強すぎ。 ひと言感想:サラリーマンのための自己…
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