3-13 後宮の牡丹の影で師匠は赤く染りゆく
下級妃の母が暗殺されて一人後宮に残されていた皇子の龍武のもとに、道場主の娘である美玉が侍女としてやってくる。二人は師弟関係となり密かに稽古に励む。やがて龍武は美玉に惹かれ、求愛するようになる。歳が離れ身分も違うことに美玉は思い悩む。
年の差カップル×後宮ファンタジーここに開幕!
牡丹華宮の庭に早咲の牡丹が咲いた。
流華国の後宮では池のある庭園は珍しく、ここが太上皇の終の棲家として使われていた頃の名残となっている。
池辺では美玉と龍武が木剣を構えて対峙していた。
淵に生えた下草から、朝つゆが滑り落ちる刹那、二人の剣が閃光を放つ。
水面に波紋が広がる頃には勝負の決着がついていた。
「我の勝ちだ。降参しろ、美玉!」
剣先を向け、龍武は歯を見せて笑う。
女と見間違えるほどの美貌。紫色の衣装には流華国の紋章が施されている。
「足下がおろそかですよ、龍武様!」
美玉は一瞬の早業で膝を折り曲げ、龍武の足の間に木剣の柄を差し込み叩いた。
短いうめき声を上げて龍武は倒れ込む。
「くそっ、油断した」
「違いますね。これは実力の差ですよ」
美玉はお返しとばかりに鼻を鳴らした。
「その方は相変わらず手厳しいな。あーあ、今日こそは勝ったと思ったのにな……」
唇を尖らせ龍武はつぶやく。先程までの緊張感が抜け、十五の少年らしい無邪気な笑顔に戻っていた。
「さあ、宮室へ戻りましょう。朝食を待たせると侍女長にまた小言を言われてしまいますよ」
美玉は優しい眼差しを向けながら手を差し延べ、龍武を立たせる。
だが内心はひどく動揺していた。
(うまく誤魔化しちゃったけど、今のは龍武様の勝ちだったよね? やっぱり素直に負けを認めた方が良かったかな? でもでもそうなるとあの約束が……ッ!)
美玉の頬がほのかに赤らむ。
そのとき、後ろから肩越しに手が伸び、抱き寄せられた。
「もうじき越えてみせる。そうしたら、美玉は我のものだ!」
耳に吐息がかかり、紅色が顔全体に広がっていく。
(ううーっ、だからそれは反則だからーっ!)
美玉は心の中で叫ぶと同時に膝を軽く曲げ、流れるような動きで腕を巧みにすり抜け、龍武の足を軽やかにすくい上げる。
龍武はまた盛大に尻餅をついた。
「龍武様ー!?」
朝もやで見通しのきかない池の向こう岸から、宦官特有のかん高い悲鳴が聞こえた。
「あはははは、美玉はやはり強いな。まだまだ敵いそうもないや」
尻に付いた土を払いながら龍武は笑う。
「そうです、私は強いのです。だからそう易々と手に入りませんよ?」
言いながら美玉はプイッと背を向けて、駆け寄ってくる二人の宦官の間をすり抜け、宮室へ向かって歩き出す。背後から宦官の声が聞こえる。
「本日は宮宴の日でございますぞ」
「皇后と妃賓が勢揃いなさる大切な儀でございます。こんな所でのんびりと下女と戯れている時間はありませんぞ」
「うむ、そうであったな。よし、急いで戻るぞ美玉!」
声が近づいてきて、美玉の肩をポンと叩き、追い抜いて行った。
「はい。先に行ってください」
「遅れるなよ!」
爽やかな笑顔を残して、龍武の逞しい背中は白く消えていく。その後ろを黒い上衣と黄色い下衣姿の宦官が追いかける。
美玉は急に力が抜けて膝をついた。
下草をかき分け水面をのぞき込むと、赤く染まる自分の顔と目が合った。
「こんな女を選んで龍武様はそれでいいの?」
龍武は皇帝の子。片や自分は十も歳が離れた町人の女である。
身分も年齢も容姿も何一つ釣り合ってはいない。
美玉は恥ずかしさのあまり水に飛び込んでしまいたい衝動に駆られた。
話は八年前に遡る――
美玉の父は下町の銀羽流の道場主であったが、病に倒れ道場を畳むことになった。
父の薬代と幼い弟達の生活費を稼ぐために、美玉は齢14の春に自ら後宮に入った。
女官試験では簡単な礼儀作法を見られただけで、すぐに貴妃付きの侍女として働くことが決まった。
だが配属先の牡丹華宮には肝心の貴妃の姿はなく、五歳になる龍武がただひとり、世話役の侍女と宦官に付き添われて暮らしていた。
龍武の母親は下級妃と呼ばれる身分であったが、類い希な美貌により皇帝の寵愛を受けていたという。
下級妃の分際で宮殿を与えられ、皇帝の寵愛を独占して皇子を産んだ。当時の皇后と貴妃たちの妬みは相当のものだっただろう。
龍武の母は殺され、故郷の一族は離散した。
暗殺の証拠は何もない。だが陰謀と計略が渦巻く後宮において、この顛末は想像に難くない。
後宮では親が死ぬと子は親族に引き取られるか他の貴妃が育てるかが通例であるが、皇帝の意向で龍武は牡丹華宮に留め置かれることになった。
皇帝も人の子。せめてもの温情のつもりだったのであろう。
しかし皇后の権限が勝る後宮で、この措置は幽閉を促したようなものだった。
龍武には満足な教育も武芸も身に付ける機会は与えられることはなく、遊び相手もいない生活が待っていた。
牡丹華宮の侍女は突出した能力がないことがただ一つの条件。試験官には礼儀作法はおろか満足に家事もできない美玉はまさにうってつけのように見えたであろう。
武術は男子のもの。武道家の娘とはいえ、彼女自身が武術に秀でているとは夢にも思われなかったのだ。
龍武はただ虚空を見つめていた。侍女はただ身の回りの世話をしてくれるだけの存在。新たにやってきた若い侍女を見ても何の関心も示すことはなかった。
だが、今度の侍女は少し様子がおかしい。
主であるはずの自分を前にしても、拱手もせずに先程からじっとこちらを見ているだけだった。
ただ、半開きになっている口がもごもごとずっと何かをしゃべっている。
ややあって、侍女は頬を紅潮させつつ声を出した。
「龍武様。後宮では自分の身は自分で守らねばなりません。私には武道の心得がありますので共に強くなりましょう!」
龍武はきょとんとした顔で聞き返す。
「その方は女であるのに武術ができるのか?」
「はい。三度の飯より武道が好きでございます! 銀羽流の奥義もいくつかは修得しています!」
「そうか」
龍武はチョコンと椅子から立ち上がり、若い侍女に歩み寄る。
「よろしく頼むぞ!」
侍女を見上げてにっこりと笑うと、若い侍女は昇天しそうな光悦な表情を浮かべて頬に手を触れてきた。
二人の師弟関係はこうして始まり、龍武は年齢が上がると共にめきめきと強くなっていった。
なにしろ彼は烈武帝の二つ名をもつ皇帝の血を継いでいるのである。これが天賦の才かと美玉は感心した。
それ故に、後宮に知り渡ればまた妬みを買うことは容易に想像できた。だから二人は人の目に付かない場所と時間を選んで稽古に励んだ。
「我の妃となれ、美玉」
そう言い始めたのは彼が十歳になった頃だった。
「嬉しゅうございます。されど私は武道家の娘でございます。自分よりも強い殿方の元に嫁がねばなりません」
「分かった! 我はもっと強くなるそ! そして美玉を妃とする!」
「はい。その時を楽しみにお待ちしております」
美玉は笑みを返す。年端のいかぬ少年の他愛のない戯言と受け流していた。
しかし彼はどこまでも本気だった。
この年から彼の求愛は季節を追うごとに激しくなっていくこととなる。
そして現在――
あの時の軽い会話が、いよいよ現実味を帯びてきているのだ。
宮室を前にして冷めたはずの頬がまた熱くなる。
美玉は堪えきれずに顔を手で覆ったまま膝をつき、声を上げて草の上に転げ回った。
宮室に入ると、龍武は食事の最中だった。
「遅いぞ美玉! 茶を所望する! 我はその方が煎れる茶でないと喉を通らぬぞ!」
「あー、はいはい」
すると後ろに控えている侍女長には咎めるような目を向けられ、部屋の隅に立つお目付役の官吏にまで睨まれてしまった。
「えっと……今すぐ用意します」
慌てて言い直し拱手する。
「いやまて、どうしたその有様は? 何者かに襲われたか?」
「あっ」
問われて初めて髪に草の葉が絡んでいることに気づいた。
「実はここに来る途中で転んでしまいまして……」
「あはははは、美玉はおっちょこちょいだな。きちんと前を向いて歩け」
「あ、はい。そうします……」
髪から草を取って袖の中に入れ、深々と拱手した姿勢のまま部屋を出た。
厨房に入ると、美玉はお湯を沸かし、急須に茶葉を入れお湯を注ぐ。
料理が壊滅的に苦手な美玉でもこのくらいのことはできるのだ。
茶器一式を盆に乗せて食事室に戻ると、龍武はすでに食事を終え一人だった。
「他の者には宮宴に出る支度を命じた。ここには美玉がいれば良い。ああやはり美味いな。美玉が煎れる茶は絶品だ」
「はあ……お褒め頂き嬉しゅうございます」
拱手して深々と頭を下げる。
ただお湯を入れただけのお茶の味を褒められてもあまり嬉しくはないはずなのに、なぜか頬が熱くなる。
「ところでだ、美玉。今日の宮宴において、我は母上様を殺した犯人を突き止めようと思っている」
「はっ!?」
慌てて顔を見上げると、龍武はいつになく真剣な表情だった。
「犯人を突き止めて……どうするのですか?」
「一発ぶん殴ってやろうぞ!」
「ぶ、ぶん殴る!?」
美玉は思わず吹き出した。
外見はすっかり逞しくなった龍武にも、まだ純真無垢であどけなく、頬がふっくらとして思わず触れたくなる程に可愛らしいあの頃の面影がしっかりと残っていた。
「そうですね。お母様の敵を見つけてぶん殴ってやりましょう、龍武様!」
握った拳を突き出すと、龍武はその拳に自分の拳を合わせた。
龍武にはこれが武道界での誓いの儀式だと教えている。
「うむ。そしてこんな後宮からはおさらばだ! 我に一生ついて来い、美玉!」
慌てて引こうとする美玉の手を龍武のもう一方の手がつかんで離さなかった。





