小田原征伐 VI
「これで奥州仕置が先に済んでしまったのだが」
と豊臣秀吉様が続けた。
「さて、本題の関東の仕置だが、北条氏直殿は三成にお預け、北条一族は名跡は氏規殿に継がせて領地は畿内で数千石程度を追って沙汰することにしよう。
今回の小田原攻略では山中城を攻略し、早川口から突入して総構えを打ち破った仙石秀久の功績と、仙石に引き続き総構えに侵入した堀秀政、そして総構え内部で小田原城の堀を埋め、北条の戦意を決定的に喪失させた徳川家康殿の功績が最大であるな。」
『はっ』と諸将は控える。
「その功績をたたえ、徳川家康殿には伊豆、相模、武蔵、上野、下野の五カ国を与える。石高では今の三河・遠江、駿河、甲斐の四カ国より大幅に加増だな。」
「三河から移れと。」
「江戸を首府にするがよかろう。小田原はこの総構えが限界で関東の太守には手狭だ。」
「下総と上総は?」
「堀秀政に与える。病が癒えたから『関八州を与えたかった』を実現したくてな。」
「はっ」
「そもそも家康殿は信濃は領していないから五カ国で大幅な加増であろう…」
「上野の北半分は石田三成殿の隷下の真田昌幸の所領ですが。」
「長男信幸を昌幸から独立させ、正式に家康殿の配下とし、上野は全てを家康殿の領地とする。」
「はっ。」
天正壬午の乱で信濃を取れなかったのもあって家康殿の領地は史実の230万石より少し手狭になった。200万石には行かないのではなかろうか。それでも大領ではあるが、上総大多喜だった本多忠勝殿とかどこになるのだろう。
「仙石秀久は大名復帰、馬場信春が隠居して土屋昌恒に松本を譲るとのことなので土屋が城代だった小諸5万7千石を与える。7千石は京での滞在料じゃ。」
おお、と諸将から感嘆の声が漏れる。
「恐れながら殿下。」
しかし秀久は答える。
「小諸領を賜るは過分な幸せではありますが、改易前の讃岐の諸将に報いたく、讃岐ではいけませんでしょうか?」
「おう、それなら。」
と言って秀吉様はニヤリとする。
「ここにある小判を秀久に与える。」
「では金で許せと?」
「まぁ急くな。この小判は支度金と旅費じゃ。これで讃岐に行き、お前がこれは、と思うもので讃岐を離れるのを納得するものがいれば小諸につれて行くが良い。」
「ありがたき幸せにございます!!!」
仙石秀久は感激して号泣した。
「上野の真田信幸を徳川配下に、小諸を仙石に、となりますと石田三成殿はまんま減封になりますな。今回の功績を考えますと例えば甲斐を武田盛信殿に与えますか?」
「いや、甲斐は浅野長吉(長政)にする。加藤光泰に伊予大洲を与える。」
「されば三河・駿河・遠江のいずれかを?」
「そこには内府、織田信雄殿を加増して移っていただこうと思っておる。」
「三河ですと!」
信雄が絶叫した。
「あんな堅物な三河者がゴロゴロしている所へ尾張を棄てて移れと!殿下、何たる仕打ち!」
「そう言うなら尾張と伊勢は召し上げだな。ただ、浪人されてウロチョロされても困るゆえ、大和宇陀に1万石を与える。」
こうして織田信雄はやっぱり改易された。豊臣秀次に近江八幡の所領に加えて尾張、三河、遠江、等東海諸国が加増され、堀尾吉晴、山内一豊等の諸将に分割された。そして
「三成はさんざん今まで所領増やしているからま、今回はよかろう。」
ということで上野沼田・信濃小諸削減のままとなった。ま、いいか。
「これにて一件落着!奥州を見て回って聚楽第に帰るぞ!」
と秀吉様が号令し、諸将は解散となった。史実では秀吉様は会津まで巡られて帰還されたが、今回はなぜか『頼朝公にならって』と遠く岩手郡の厨川城まで繰り出し、慌てて出迎えた南部利直は大慌てだったという。
さて北条氏直殿の身柄を預かった俺は、秘密科学要塞城佐和山(最近は付近の住人から『魔王城』とか呼ばれているらしい。)へ氏直殿を連れて行った。
「…三成さま、そこにいる皮膚が爛れて不気味な馬と牛はなんなのです?」
とてつもなく不安な顔つきで氏直殿が聞く。
「この馬は馬痘と牛痘という病気にかかっているのです!」
「…その牛痘が私にいかなる関係が?」
「氏直様は痘瘡にかかっていないので、今後かかってしまうと命に関わるのです!」
そう、北条氏直はこの後ほどなくして痘瘡(天然痘)にかかって死ぬのだ。
「…で?」
「ですからこの馬痘、牛痘の膿をですね!」
と言ってフォークのようなものですくって、氏直殿の腕に刺す!
「うぎゃぁあ!」
「こうして『種痘』してあげると痘瘡にかからないのです!歴史的には牛痘なのですが、正体が馬痘ではないかと後の研究で判明したので両方やっておくのです!」
「うぁあ、止めてくだされ!」
「大丈夫ですよー。」「これを乗り切ればきっと良くなりますよー。」「ほら、私達も元気元気」
様子を見に来たい、と言って来ていた、竹中半兵衛様、丹羽長秀様、堀秀政様が楽しそうに言う。
「これで氏直殿も『石田三成改造人間』の仲間入りですねー。」
と半兵衛様。
「そうそう。『石田三成の怪しげな実験被害者の会』に入会おめでとう。」
と長秀様。
こうして北条氏直殿は(咳とかヤバそうな時は抗生剤も投与して『これなら死ぬのも変わらないのでは?』と騒いで被害者の会の面々に慰められたりもした。)無事に天然痘に感染せず、結局石田家の家中で内政担当としていてくれることになったのであった。
法令整備とか超プロフェッショナルなので正直すごく助かった。
「ところで氏規殿に代わって北条家を大名として再興しなくてよかったので?」
と尋ねた所、
「いや今の立場ですと実質天下を切り盛りできますからな!はっはっは!」
とまた病人を脱すると皆妙に元気な状態で語られたのであった。長束正家殿とか堀様が下総に移った関係でついに越前を受け取った丹羽様とかと妙に仲が良い。しまいには
「こら!三成殿!そこの法解釈はXXXXと間違えてますぞ!」
とか怒られるようになってしまった。もう全部氏直殿が奉行やればいいじゃん。イジイジ。
徳川家康殿は江戸に入府し、江戸城に天守を上げるなど江戸城や江戸の町の拡張をはじめた頃、また北条残党を名乗る盗賊や、家康殿が治めきれていない町に蔓延る悪い領主などがあちこちにいた。最近、その様な所に『相模の大和芋問屋のご隠居』を名乗る三人組が現れ、悪を成敗するようになったという。
「小太郎さん、甚内さんやっておしまい!」
「はっ!」
しばらくして悪人どもがたいてい打ち倒されると
「控えい控えい、この虎印が目に入らぬか!ここにおわす方を誰と心得る!」
「先の古河副公方、伊勢黄門様であるぞ!」
…こうして『伊勢黄門』は悪を討ち、諸国を漫遊していくのであった。
ちなみに北条家は本来の名字は伊勢、黄門は中納言の唐名で…この間中納言に任官されていた誰か、かも知れない。




