軍務尚書
第82章
豊臣秀俊様と徳川秀忠様(あれからちょくちょく我が家に鍛錬に来るようになってしまった。)が我が屋敷で鍛錬をされていると(いつの間にか世間では屋敷に『鬼道場石田』などという名前が付いてしまった。)
「面白そうだから混ぜな。」
と言って島津豊久(一番年上なので兄ぃと慕われるようになった)が参加するようになり、豊久と同じ歳の真田信繁と、毛利吉成(勝信)殿のご子息で秀俊様のひとつ年下の勝永殿も秀俊殿に歳が近い縁で一緒に修練に励むようになった。なにこの関が原と大坂の陣が合わさったような魔境。しかも皆メキメキ強くなっているし。
噂を聞きつけて加藤清正殿や福島正則殿、藤堂高虎殿などそうそうたる面々が『力試し』とか言ってやってくるし。180cm超えと体格の大きい高虎殿は豊臣秀俊殿や毛利勝永殿など幼い面々に人気で腕にぶら下がられたが
「皆様体鍛えすぎてて重うござる!」
と本気だか冗談だかわからないことを言われていた。そんな若者が修行に励んでいた
ある日、
「今日は僭越ながらこの仁科盛信が『風林火山』の極意についてお伝え致す。」
と講義をした。皆熱心に聞いていたが、秀忠殿が色々鋭い質問を投げかけた。
「これは秀忠様、そのような事をどこでお学びに?」
と盛信が聞くと
「当家で最近父に重用されている高僧の天海から聞きました。天海は高僧なのですが、どうも仏典よりも戦作法のほうが詳しく、特に鉄砲隊の運用方法等を熱心に教えてくれるのです。」
「なんと。」
「この間は『惟任日向英雄記』なる書物を読ませてくれたのですが、父に見つかり『天海!それは止めておけ!』と制止されたのであまり読むことができなかったのです…」
天海さん、すっかり馴染んでいて元気そうでなによりだった。でも日向守(光秀)の復権は時期尚早だから止めておけ。
そんな時、豊臣秀吉様の側室、茶々様にお子が生まれた。棄、と貴人の習慣にならって名付けられたとされた後、鶴松様と名を変えられた。ちょっと疑問に思うことがあって思案していると、秀吉様は
「三成、なにか思うところがあるのか。」
と声をかけて来たので。
「いえ、貴人の習慣、と言いますが信忠様を奇妙、とつけるような趣味の信長公ならともかく、家康様は竹千代ですし…あまり聞かないと思いまして。」
「わしも今、自分の幼名は『日吉丸』だったことにしているぞ。」
「そこに棄、ですか…殿下は高貴な意味をもたせたようですが…」
「そう、その通りだ。」
と言って秀吉様はちょっと疲れた表情をした。
「子宝の祈祷、と称して淀が念者共と籠もる儀式があってな…その時の子よ。」
「…となりますと…」
「だから棄、じゃ。当然念者共やその際出入りした女房は全て密かに処分した。」
と言って自分の首を掻き切る仕草をした。
「しかし好いた女が産んだ子となると情が移ってな。だから大切にしようと思い、鶴松、とめでたい名に変えたのじゃ。だから鶴松は我が子じゃ。」
「…心中お察し申し上げます。」
「こんな事をぼやけるのはお主だけじゃ。」
「だから生まれてから大坂城内や聚楽第に屋敷を構えるのでなく、あえて離れた淀城を。」
あはは、とちょっと乾いた笑いをして殿下は言った。
「そういうことじゃ。ま、世の中にはわしがついに得た子、にしておいてくれ。時々吐き出したくなってな。しかしこれは他言無用だぞ。もし漏れるようなことがあれば、今度は白装束も着せてやらんぞ。」
と言って腹に刃を当てるようにした。
「ははっ。この事は秘中の秘として。」
「お主なら大丈夫と思うからこそ吐き出せるのだ。少し気が軽くなったわ。佐吉、礼を言う。」
と言って関白殿下は少し寂しそうな後ろ姿で去っていった。
さて、秀吉殿下の威光に従わぬ関東の北条氏政・氏直親子だが、俺は殿下の命を受けて上洛を促すことにした。普通に要請した所予想通りはぐらかされたので、
『さっさと上洛して殿下のご機嫌伺いやがれ。さもないと天正壬午の時の賠償の残り、8872貫を即刻取り立てるぞ。この田舎貧乏大名、と言われたくなければさっさと来なされ。』
と優しい手紙を送った所、すぐに氏政殿と氏規殿が上洛することとなった。お、氏政殿自ら上洛、とはこれ小田原攻め回避できるかも。これで忍城攻めフラグおれたら良いなぁ、と期待する俺。
流石に準備があるのでその数カ月後となり、おれはその饗応役を徳川家康様と共に仰せつかった。家康様は今川家の人質だった時代に北条氏規殿と仲がよく、その後も交際が続いていたので親密だったのだ。
「三成よ、北条左京大夫氏政殿を迎えるにあたってお前が無官では釣り合わんな。官位を与える。」
と秀吉様に呼び出された。おお、ついにこの石田三成、治部少輔に任官され、『あの治部めが』とか『治部め』と憎まれ口を叩かれるよく戦国モノの大河や映画で見る日々が来るのか、と思い、
「はっ治部少輔でございますか?」
と尋ねた所、
「治部か…治部でも悪くないだろうが、信濃、伊賀、豊前3カ国の太守で駿河大納言徳川家康殿の婿には物足りなかろう。同じ従五位下だが、少納言に任じる。字面が強そうだろ。」
…え?治部でないの?少納言?
「しょ、少納言ですか。少納言というと唐名は…?」
「唐名で呼ぶのが流行っておるからの。尚書郎だな。」
「尚書…?軍務尚書?オーベルシュタイン卿?」
「なんじゃその軍務尚書というのは?だが面白いな!それ!」
と官位を考えたら信濃守(同じ従五位下)でも良かったんじゃないかと思ったが後の祭り、どこに行っても『軍務尚書殿』『軍務尚書殿』と呼ばれるようになり、俺もつい
「卿は…」「戦略的価値を考えますと…」
とか目を細めて変な話し方をすることが増えてしまったのであった。さらに主上(天皇陛下)にご挨拶に参上した時には
「そちがあの高名な佐和山に住むという鬼、おべる卿とやらか。」
とお声をかけていただき、それ以来公家の皆様には『おべる卿』『おべる卿』と呼ばれるようになってしまったのである。
おべる卿、だと「ベル」の響きがまるでベルサイユのばらみたいな音の響きでちょっといやん。…そういえばうちにはオスカルじゃないが男勝りの麗人督姫様がいたわ…などと日々を過ごす内に、とりあえずオーベルシュタイン元帥に敬意を表して俺は家で犬を飼い始めることにしたのだった。




