九州平定 V
九州平定編の最後です。この後はいよいよ小田原攻めの話になります。
大友義統に死を賜った後、豊臣秀吉殿下は九州の国割を続けた。
「小西行長には肥前と肥後天草を与える。」
「と申しますと?」
行長が尋ねた。
「バテレンは追放する。各所の教会やセミナリヨは解体する。ただし、個々の信教についてはその是非を問わない。」
「バテレン追放ですか。」
「奴らは日本人の子女を牛馬のように慰み者にし、売買していた。また大友親子のように改宗を強制し、寺社を取り壊すものもいる。南蛮人が日本人を売買することを禁止し、大名や領主が住人に改宗するように強制することを固く禁じる。ただ人身売買以外の貿易は良い。」
「個々の信教を認めて下さる、となれば極めて寛大なお心ですな。」
「うむ。そこでだ、京などの教会は破却するが、長崎と天草だけには天主堂の建設を認めようと思うのだ。小西、お前はそこを管轄せよ。」
「おお、なんたる慈悲深さ!」
「長崎を諸外国との貿易の窓口とする。商才に長けたお前ならよき奉行となれよう。」
「はっ。」
「ただし。」
「ただしと申しますと。」
「いくつか留意してもらう点がある。まず長崎を貿易港とし、港湾を整備せよ。それと共に三成の指導を仰いで長崎とその北方の佐世保に大きな造船所と軍港を作るのだ。その費用はキリスト教を信じる諸大名共に負担させるのだ。」
「キリスト教を信じるものに!」
後日、禁教令よりもこの条項により、『あの織田家の金蔵を空っぽにさせた石田三成が『歴史史上最大の空前の企画』などと言い出す作事(工事)に携わせられたらいくら金があってもやっていけないぞ!』と騒ぎになり、キリスト教を棄教した大名が続出したという。
「そしてキリスト教徒が反乱した際に拠点となってはならないので、長崎には居館を設けて住まうようにし、堅固な城を築城することを禁じる。」
「はっ。」
こうして小西行長は肥前の大半(平戸松浦党などは本領を安堵された。)と天草を与えられ、長崎や天草には天主堂が建築された。ただし秀吉の指示通り軍事的な防御施設などは設けられず、小西行長は長崎の南山手に小さいながらも西欧風の宮殿のような居館を建ててそこを居城としたという。今の世でグラバー園がある場所である。
今回の長崎攻めの発端となった大村純忠はすでに亡くなっていたため、嫡男の大村喜前に跡目が認められたが、城主格とはされたものの知行は本家の4454石のみとなり、実質的には小西行長の寄騎とされた。もう一方の原因となった有馬晴信は領地を召し上げられ、日向延岡に転封されたのであった。
こうして豊臣秀吉による九州平定は成功した。ついに関白の威光に従わない勢力は関東の北条氏政・氏直親子と陸奥の伊達政宗だけとなったのである。
俺、石田三成は殿下に聞いてみた。
「そろそろ天守はお許しいただけませんか。」
「おう三成か。天守なら許すぞ。」
「おお、では3層天守を?」
「いや5層でいいぞ。」
「なんと!ついに佐和山に5層天守が…感無量にございます。」
「何を言っておるか。近江は丹羽長秀殿の大津城と秀次の近江八幡で天守は腹いっぱいじゃ。豊前小倉と当家の威光が信濃に届いている事を知らしめるため信濃深志を改め松本に天守じゃ。」
「ああ、三成に過ぎたるものが完成しない…」
「ところでお前島津から人質代わりに来た伊集院忠棟と仲がいいそうだな。」
「はい。冷静で頭が切れる知将でございます。」
「薩摩の差配を任せる、というのはどうだ?」
「殿下のためによく働いてくれると思いますが…この場合は悪しゅうございましょう。」
「なぜに。」
「伊集院は島津兄弟と折り合いが悪く、更に義弘殿のご子息の島津忠恒様とは犬猿の仲でございます。武辺者の大将と知将の参謀の組み合わせ、例えば上杉家の景勝殿と直江兼続や徳川家康殿と本多正信様のようなお互い信頼しあっているような仲でしたら上々でしょうが、この場合ですと。」
「越権とみなされ誅殺されるのは間違いないか。」
「御意。」
「ならば『伊集院を全権として受け入れるか徹底的な検地を受け入れるか?』と島津に聞いてみよう。」
そして島津家はよほど伊集院忠棟が苦手だったようで、あっさりと徹底的な検地を受け入れたのであった。そして『奉公構えするようなら所領の約束反故にしちゃおうかな。ねえどんな気持ち?』と若干脅して伊集院忠棟親子は大隅から小倉に移ってきたのであった。
なお、関白殿下は検地を全国で行うようにしたのだが、広く受け入れさせ、徹底的に把握するためにこんな方策にした。
普通の大名は6公4民(税率6割)や7公3民だが完全な検地を受け入れれば3公7民。
ただし今まで雑所得として非課税にしていた米以外の作物などもすべて検地・税収の対象。
石高ベースで安堵するが、納めるのは米でなく石高から計算した金額で現金。
(どうしても現金化できないときや領主が要請した時は米や作物等も認める)
新田開発は奨励する。申告して開拓した新田・畑は10年間1公9民とする。
ただし隠し田等は絶対に認めない。発覚した時は隠して無い分も含め9公1民。
検地の際に申告すれば当初から正規の耕作地と同じ扱いとし、隠し田として扱わない。
当然度量は全国統一。
要はいままで税収の対象となっていなかった活動も含めて広く課税(商人も全ての収入に対して3割納税とした。)する代わりに税率はずっと下げる、ただし、今まで高い税率のために食べて行けずに隠していた分も課税する。違反したら重課税。
という風に近世的な税制にしてみたのだ。広く浅く。
普通に払う分は減るから、理解さえしてもらえればむしろ受け入れは良かった。逆に受け入れなければ税率90%の地獄が待っているけどね。ヒヒヒ。
こうして日本全国の検地も進んでいったのである。
豊前小倉に領地をもらった俺は、小倉城を改修して天守を築くとともに、筑豊炭田を開発し、八幡に高炉と転炉を築いた。北九州工業団地の始まりだぜ。
「この巨大な建物は何をするものでございますか!」
そんな工事が進む中、小倉にやってきた督姫様が尋ねてきた。妻なのだがなんか様をつけたくなる。もうひとりの妻のうたさんは佐和山で前年に生まれた長男(のちの重家)の子育て中。
「これは良い鉄を作る建物なのですよ!」
「良い鉄…」
「良い鉄を使って蒸気機関というものを作ります!ポッポーーつ!と巨大な音がして煙を吐いてぐわーーーつ!と動くのです。」
「鉄の怪物ですか?」
「そのようなものです。」
「その怪物でいかがなさるのですか?」
「そうですね!鉄の船を作るんですよ!明だけじゃなく天竺でもそのもっと先でも自在に乗り込んで征服できる船です!」
「まあ、なんとたくましい。旦那様、その船で私のために天下を取ってくださいね。」
「天下は殿下のものです!でなきゃ姫の父上のものだ!俺などにはとてもとても。」
「そうおっしゃらずに。男は大志を抱くものですよ。」
と言って督姫様は笑った。…そしてその翌年、督姫様に男児が生まれた。
池田輝政。ごめん。
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