関白任官
羽柴秀吉様は織田信雄、徳川家康様と和睦した。家康様は次男の秀康様を秀吉様に差し出し、人質とした。実質的には降伏に近い形だ。秀吉様は秀康様を可愛がり、宇喜多秀家殿などと同じ様に猶子とした。
森長可様は長久手の戦いの後、
「俺の命は石田三成様に救われた!だから俺はこれからは自分自身のためでなく石田様のために生きるぜ!」
と言い出し、秀吉様も許したのでいつの間にか俺の寄騎のような立場になられてしまった。良いのか鬼武蔵。
池田恒興殿の方は
「老兵は死なず、消え去るのみ。」
とどこかの元帥みたいなことを言い出して池田輝政殿に家督を譲って姫路城に隠居してしまった。
そんな折、俺は信濃大町で一人の男を待っていた。この間末森城を襲撃して前田利家殿に撃退された越中の主、佐々成政殿である。
「佐々様。」
俺は凍えそうになりながら厳寒の山を降りてきたその男に声をかけた。
「わしの名を知っておるとは…あ、おぬしは石田三成!」
「厳寒のサラサラ越え、まさに日本登山史上に燦然と輝く快挙。」
「何を言い出す、そこをどいてくれ。わしは徳川家康殿に会いに行くのだ。」
「家康殿なら先刻撤兵しましたよ。」
「知っておる、知ってはおるが…」
「佐々様、飛騨の斎藤利治は先刻、謀反を起こした姉小路秀綱を討って完全に飛騨を掌握したそうです。」
「何を言い出すのだ。」
「そして上杉景勝様もできれば魚津城は取り返したいなぁ、と兵を準備されているとか。」
「石田よ…」
「もし佐々様が引き返し、この石碑と旗を途中の槍ヶ岳の頂上に置いてきていただけましたらそれらの者も帰ると思うのですが…」
と『天正12年冬登頂者佐々成政。ここに鑓ヶ岳を制す』と書いた石版と旗を渡した。
「ぬうう。」
「今すぐ出ろとは申しません。どうかこの大町の温泉でお体を休めていただいて。」
「おぬし、聞きしに勝る鬼だな…」
といってもなすすべもなく、大町の温泉に逗留したあと佐々成政様は厳寒のアルプスに戻っていった。そして冬季槍ヶ岳登頂という快挙を成し遂げたのだ。伝説ともされたその偉業は400年後、槍ヶ岳山頂のすぐ下側から佐々成政の名が入った石板が発掘され、状況から山頂から地震などで滑落したもの、と断定された。佐々成政の登頂が歴史的な史実と認められたのである。
ちなみに越中に戻った佐々成政は秀吉様が北陸に遠征する前に頭を丸めて大阪に出頭し、
「人生なにか成し遂げた気がするので所領は秀吉様にお返しいたす。」
と言って御伽衆になったそうである。次は厳寒期の富士山にアタックしてもらいたかったのに、と思ってしまった俺は多分鬼。
北陸が平定されるとほぼ同時期、紀州の根来衆も降伏した。銃の扱いに優れた高名な集団である根来衆は
「銃火器の性能の違いが戦力の決定的差ではないということを教えてやる!」
と息巻いていたのだが、数が揃いつつあるモシン・ナガン(と同カービン)の前にあえなく降伏したのであった。秀吉様お得意の水攻めも炸裂したし。
そして小牧・長久手の戦いの頃から反旗を翻していた四国の長宗我部に対して、羽柴秀長様、黒田孝高様を始めとする軍勢が侵攻し、懐かしの仙石秀政様が大活躍をして讃岐一国を賜った。
「いよ!三成!お前の方が早かったけど俺も讃岐一国10万石もらったぜ!」
と嬉しそうな秀久さんがやってきて祝の宴会を3日続けてドンチャカやった。
そしてついに天正13年(1585年)、羽柴秀吉様は関白になられた。
天下統一が見えてきたのだ。
秀吉様はこの頃から徳川家康様との本格的な和議を考えはじめていた。とは言っても以前から色々調略を試みていたようで、なんと石川数正が家康様の所から逃げ出してきたのである。
うちの長七郎の一件で家内の立場がなくなったようで。まあ自業自得。
「秀吉様にはご機嫌麗しゅう」
石川数正が平伏している。
「徳川家の機密はここにございます。私には信濃を下さるので。」
「何を言うか。」
苦虫を潰すように秀吉様は言った。
「信濃のどこにお主のいどころがあるというのだ。一国全て佐吉の持ち分だぞ。
機密を持ってきてくれたので丁重には扱う。御伽衆として畿内の数千石を与えるから近侍せよ。
嫌なら毛利殿の所に送って鞆の公方様のところで話し相手になってもらっても良いぞ。」
「ははっ」
石川数正は大名にもなれずに仕えることになった。後で聞いた所によると、徳川家では
「石川数正が三河の軍制を持ち出しました!三河流では手の内が筒抜けで危険です!」
「なに、では甲州流にするか。」
「…甲州流だと石田殿のところに…」
「武田と馬場と土屋と依田が…」
「むしろソッチのほうが筒抜けじゃない?」
と大混乱になり、結局『三河流と甲州流と駿河今川流を混ぜて新しい流派を作る!』と崇高だけど大変な目標を掲げることになったそうだ。
というわけで軍制の混乱もあって徳川家では羽柴秀吉に従うのもやむなし、という声が大きくなってきた。その時、家康公がふと思い出した。
「あ、石田三成殿に督を嫁がせる話、これ好機ではないか。」
…そして徳川家康様から『正式に』督姫輿入れの話が来たのである。




