大坂城
柴田勝家様を打倒し、織田家の実権を掌握した羽柴秀吉様は諸将の転封を行った。
織田信雄様は降伏した滝川一益様や織田信孝様の旧領である北伊勢を加増され、尾張、伊勢の二カ国を所領とすることになった。ただし伊勢の所領は信雄様が本城としていた松ヶ島から南の南伊勢は蒲生氏郷が近江日野から移ってきて領することになり、伊勢の拠点は安濃津と長島に置かれることになった。蒲生氏郷は松ヶ島城の防御が脆弱と見て早速松坂城の築城を開始した。
その降伏した信孝様だが、史実だと信雄様に引き渡されて処刑され『昔より 主を内海の 野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前』と凄まじい呪いの辞世を残したのだが、秀吉様が
「さるお方と約束してな。命は取らん。悪いこと言わないから志摩に行け。」
と行って志摩の九鬼嘉隆の所に預けられることになった。そこで日焼けしたガチムキの四人組に出会って船乗りとして激しい訓練を積まされてヒーヒー言っている、との噂を聞いた。
池田恒興様は岐阜に加増、転封を打診されたが
「嫌じゃ!岐阜なんて行ったら秀吉殿か三成の機嫌を損ねたら瞬時に落城するではないか!たとえ100万石でも岐阜は断る!」
と主張されたので、交渉の結果なんと播磨姫路で30万石となった。池田恒興様はホクホクで
「元助!輝政!見ろ!あの美しい白鷺城が我らのものだぞ!」
と大喜びだったという。息子が建てるはずだった城を父がゲットしてしまったけどいいのか、これ。
そして賤ヶ岳で多大な武功を挙げた丹羽長秀様には、若狭と近江の領地に加えて柴田勝家様の旧領、越前と加賀を加増して120万石、と打診したのだが。
「嫌じゃ。(秀吉様拒否されまくりだな)そうやって持ち上げておいてわしが病気になったり死んだりしたら全部没収してあげて下げるつもりでしょ!その手には乗らないんだから!第一北ノ庄城丸焼けで作り直しがいくら掛かると思っているの!」
とどうみても病気になりそうもない元気いっぱいな勢いで拒否され、先日あっさり死んでしまった信長様の四男で秀吉様の養子の秀勝様の旧領、丹波と近江長浜が加増となった。秀吉様ってたしかに大大名が死ぬと子供に引き継がせず小さい領地に転封するから丹羽様のこの見識、未来予知でもしたのか、というレベルだ。そして肝心の越前は堀久太郎秀政様に、加賀は最初から前田利家様に全部(+元の能登)となった。
こうして転封を終えた秀吉様はついに新しい本拠、大坂城の建築を始めることにした。
「三成よ、黒田孝高と共に大坂城の縄張りに携われ。」
「はっ、ではお許しをいただけましたら以下の面々も加えていただきたく。」
「うむ、どのようなものだ?」
俺が指定したのは以下の面々。黒田様も築城の名手だからそれは歓迎としてうちの部下からまずバック・ジョー・ダン、多門櫓を作らせまくるのだ。そして馬場信春、防御の弱点に丸馬出を置くポイントなど甲州流の達人に縄張りを見てもらう。そして人質終わって良いはずなのに帰らず居着いちゃった真田信繁。いやお前畿内にいっぱなし、って大河の真田丸か。真田丸をガチで構築してもらうのもあるが先人の知恵をよく勉強して下さい。そしてよそからまず加藤清正。最初から(後で建てる予定の)熊本城を超える扇の勾配の高石垣頑張ってください。秘密の御殿とか作るのも得意だし。福島正則は激しく自己推薦してきたが、台風で駿府城の石垣が崩れた現代のニュースを思い出したので遠慮してもらった。ちなみに彼の城では(こちらもまだないが)安芸亀居城は俺結構好き。後蒲生氏郷様も当然参加。会津若松も松坂も超傑作。最後に羽柴秀長様の所の藤堂高虎様にも参加してもらった!藤堂高虎といえば築城の名手!譲れぬ。
「結構な人手だな。ま、任せる。三国一の城を建ててみよ。」
「ははっ。」
こうして俺たちは大坂城の建設を始めた。本丸は加藤清正・藤堂高虎の指図によってすごい高石垣。うちの凄腕の伊賀忍者でも『これは登っている途中で一泊したくなりますな。』と言っていたぐらいだからすんごいのだ。そして天守は…五層九重なのだが2つ並べて立ててやったよ!ツインタワーだ。それを複雑に折れ曲がった本丸の折れ目ごとに三層櫓を建てて、全部二層の多聞で繋いでやったのだ。ざっと姫路城の十倍はあろうか、という規模だ。
「三成殿…これはすごいというより凄まじい城ですな…」
「蒲生氏郷様にお褒めいただいてなによりです。」
「なぜ天守を二基に?」
「空前絶後の城を作ろうかと…真面目な話をすると将来秀吉様にお世継ぎが生まれたら片方が秀吉様の天守、もう一方をお世継ぎの天守にしようかと。」
「なるほど。」
…ほんとうの意味は将来秀吉様が亡くなった後に徳川家康様が居座って第二の天守を建てるのを阻止するためだ!こんだけ詰まっていたらこれ以上櫓増やせないだろ。
ふははは。
「それとこの広大な『惣構』はすごいですな…」
「ははははは。あの高名な小田原の総構えが4つ入りますからね。」
そう、最初から三の丸の外側に広大な総構えを建設していたのだ。でもって総構えの構造は、稜堡式城郭だ!巨大な五稜郭…というよりギザギザした面が続いているような感じだな。
「これはなんとも複雑怪奇な巨大な都城ですな…明の万里の長城にもまさるかも知れません。」
と言われたので
「これならおそらく墺太利の帝都ヴィーンにも勝ると自負しています。土耳古皇帝軍が二十万居ても退けられましょう。」
と自慢した。ふふふ。
出撃路には武田家おなじみの丸馬出を組み合わせた。総構えは大砲の威力を弱めるために傾斜のゆるい土塁の上に石垣を載せてあり、その上に銃座や砲座などを設けている。
総構えが結構面積を食って大変なことになったので、城下町は主に淀川の北側の現在の梅田の辺りと海側に広がることになった。
「三成に好き勝手やらせると城の金蔵が空っぽになる、と信長公や丹羽長秀殿が言っていたのはつくづく本当にであるな。」
と秀吉様はちょっと呆れ気味だったけど、まあとりあえず(大きいので工事はだいぶ残っているけど大坂城はひとまず形になり、秀吉様が移ってこられたのだった。
後に徳川家康様に秀吉様が
「この城を落とすにはどうすれば良いと思うか?」
と尋ねられた時
「兵糧攻めは?」
「兵を増やし過ぎなければ10年でも籠もれるだけ貯蔵ができるぞ。弾薬もな。」
「力攻めは無理でしょうし…偽りの和議を結んで外郭を破棄させて堀を埋めるというのは?」
「おお、さすが家康殿、わしもそれが正解じゃ、と思っていたのだが…」
「といいますと?」
「総構えがバカでかすぎる上に三成が『ベトン』とやらを使ってやたらに頑丈になっていてな、地下にも穴が張り巡らされていて総構えを取り壊すだけで何年かかるか検討もつかん。費用もいくらかかるか。」
「なんと」
「その上総構えのあちこちに一見わかりにくいじみーーーな見栄えなくせにやたらに頑丈な拠点も作られていてな、一見ただの丘か堤みたいなのだが…特にこの『真田丸』とかいうところは無数にベトンの『トーチカ』とか銃座・砲座があってそこだけでも難攻不落、とか言われててな・・・壊すのも難儀だしとてつもなく面倒でな…」
「落とすことを考えないほうが。」
「どうやらそれが正解らしい。」
というやり取りがなされたそうな。まあ本丸は象徴として比較的クラシックなお城をしているから、やれるならエアボーンして本丸直接急襲して占領、が一番正解な気がする。どうやってこの時代でエアボーンするかは俺は知らぬ。




