石田三成、天正壬午に乱入する V
しばらくしてバック・ジョー・ダンが小田原から帰ってきた。
「殿!交渉はうまく行きました。いや最初は氏政殿お怒りで危うく斬られそうになりましたけど、付けていただいた伊賀忍者が素早く刀を受け止めてくれまして、
『私が斬られれば他に潜んでいる伊賀者たちが小田原城を火の海に変えますぞ。まあ伊賀忍者と北条様がお使いの風魔のどちらが優れているか忍術合戦をさせるのも冥土の土産に面白いかも知れませんが。』
と申し上げましたらさすが相模の大大名、話を聞いてくれました。」
「して、松永さん(おもわず本名を言ってしまった。)条件は?」
「殿の言う通り
『捕虜の代金として足軽一人1貫、将は一人10貫、合計5万貫払っていただけたら全員無事にお返しいたす。』
と申した所『小田原城の金蔵全部ひっくり返しても足りぬわ…』と青くなったので
『では氏直様は残念なことに。石田三成は氏直様を丁重に扱っておりますが氏直様の父上が金のために見捨てる、というのでしたら仕方がありますまい。』と申し上げた所
『3万貫だ!3万貫なら払う!どうかそれで頼む!お願いだ!』
と殿が言っていた『ダイビング土下座』をされてきたので、殿が最初からおっしゃっていたとおり3万貫と今後上野沼田領を含めての不戦、で約定を結んできました。この通り北条氏政様の虎印も。」
おお、北条家が本当に重要時しか使わない、と言われる虎印も。これなら間違いあるまい。
「さすが弾正、よく成し遂げられました。」「ウヒヒヒヒ・・・たまりませんなぁ・・・」
と怪しい二人が顔を合わせてほくそ笑んでいると、伝令が来た。
「徳川家康様の伝令に横田尹松様がいらっしゃいました。」
横田尹松様は徳川家康様の使番で武田家に仕えていた時代、あの高天神城が落城した時に生き延びた知勇兼備の将だ。武田家の滅亡後は徳川家に仕えている。
横田様と交渉し、徳川家康様に新府城近くの寺で会うことになった。
会談場所に着くと、広間にはすでに家康殿が着座していた。俺は思わず関ケ原の合戦で敗戦して
囚われた後の数々の面会を思い出して、
「家康様!ご機嫌麗しゅう!」
と思わず三跪九叩頭の礼を取ってしまった。中華皇帝が属国に取らせる礼だ。
「石田殿!いかがなさった!頭を上げてくだされ。」
…そうだった今回は長篠の合戦以来家康様とは結構仲良くさせていただいているのだ。
「ところで石田殿、石田殿はそのままそちらの方を旗頭に甲斐も征服なさるおつもりか?」
とゴローちゃんの方を見る。するとゴローちゃんは
「いえ、家康様。なんのことを仰っているのでしょう。私は確かにその身を隠していましたが、我が名は『仁科』盛信、信濃の仁科の元棟梁であります。信濃の高遠城は懐かしくありますが、甲斐のことなど頓とわかりません。」
「では『武田』盛信に戻るつもりはないと…」
「全くもってそのとおり、私は信濃の仁科です。諏訪の兄のようにはなりたくありませんし。」
「おお。それでは。」
俺が引き取って続けた。
「仁科盛信や馬場信春が旧領の信濃に戻ることをお許しいただけましたら。決して甲斐には兵は向けません。ただ、甲斐の住人で仁科殿に旧交があるものがこちらに来たい、という時はそれを許してくれましたら。」
「おお、それでよいでしょう。信濃は石田様とその後友人方のもの、甲斐はこの徳川家康のもの、ということで。」
徳川家康殿は快諾してくれた。ちなみに後日そのせいで元武田家の猛者が大挙して甲斐から信濃に来て仁科盛信に仕えてしまい、『武田家の赤備えを受け継いだ』井伊の赤備えが史実よりは大分人手が足りなくて寂しいことになってしまったそうだ。依田信蕃も結局そのまま盛信に仕えたし。横田信尹だけは真面目に家康様に仕え続けたけど。
「ひと手間かかり申し訳ないのですが、北条の捕虜を相模に送ることを徳川様にお願いしてよろしいですか。」
「おお、まかせてもらえたら。」
「その御礼といってはなんですが、北条からの身代金の内1万貫を徳川家康様に受け取っていただけましたら。」
「1万貫も!そんな過分なものは…」
「いえぜひ、これからの友誼のためも兼ねて。」
「金のやり取りがあったほうが我ら上杉勢も安心ですな。」
と直江兼続さんも口添えしてくれた。
「ではかたじけなく。北条の捕虜は必ずこの徳川家康が安全に送り届けましょう。」
こうして徳川家康殿との和議が成立した。先の北条氏政との交渉で、こちらが徳川殿と和平を結べた場合は北条と徳川も和議を結ぶ(徳川に手を出したら羽柴家も北条を敵とみなす)とさせていたので、これで北条と徳川の戦も終わりを告げることになった。
会談を終えて寺の軒先で暇を告げた時、徳川家康様は俺の護衛についていた侍に目をつけた。
「そこの、面妖な般若の面を着けた侍よ、お前名前はなんと申す。」
「私は石田三成様の護衛の桃太郎侍、名は松平長七郎と申します。」
「松平…どうかその面をとってはいただけぬか。」
「長七郎、取って良いぞ。」
俺は『松平長七郎』に声をかけた。
「お前は…お前は…我が子信康ではないか!石田殿の監護で切腹したのではなかったのか!?」
そう、松平長七郎の正体は徳川家康の長男、松平信康であった。徳川家の岡崎派と浜松派の争いに巻き込まれ、主導権を握りたい岡崎派の石川数正に担ぎ上げられ謀反となりそうなところを武田に内通したとの名目で切腹になっていたのである。
「なぜ?あの石田殿が言っていた
『これからは切腹の秘中の秘である奥義を信康様に伝えますから、これから生あるものは見てはなりません。』と言われ連れ去られた後か…
『奥義を極めたものの死体を見ることも穢すことになるのでご遺体は私の方で埋葬いたします。』
と石田殿が言っていたのは匿った、ということなのか!」
「父上!」
「信康!」
二人は固く抱き合って涙を流した。
「ところで築山(信康生母)は?」
「母上も近江の寺で元気に暮らしております。」
あのおばさん歴史モノのイメージ通りうるさいんだよなぁ。
「とはいえ私は一度死んだ身、これからも松平長七郎として石田様にお仕えしていこうかと。」
「うむ。そなたが達者でさえあればそれが良かろう!」
こうして親子の感動の再会は終わり、松平長七郎はこれからも俺のそばで仕えてくれることになった。それを遠くから歯ぎしりをしながら石川数正が見ていた、と後で伊賀者が教えてくれた。
「これで万事万々歳ですね!どうかこれからもよろしくお願いします。」
と家康様に別れの挨拶をすると
「ところで三成殿、貴殿、わしの娘の督を嫁にもらってくれないか?」
と。
ええええええええええええええええええええ??




