嘘だと言ってよ番兵。
実質第一部完、です。次から第二部に入ります。
陣幕の外側の番兵が告げる。
「敵の新手です!その数3万以上!」
俺、石田三成は唖然とした。
立花、小早川、宇喜多、毛利の諸勢に囲まれ、もう徳川家康の命運は尽きた、と思ったその時に突如としてその大軍は現れたのだ。
紋章は丸に葵、徳川秀忠の信州攻略軍だ。こちらも立花宗茂引っ張り出したりしているから歴史通りではないのだが、雨で到着が遅れるのではないのか?
よく見るとかなりの数の六文銭の旗が翻っている。
真田だ。なんで真田があんな数で参軍しているのだ。
現れた軍勢はまず眼前の毛利勢を蹴散らした。ほとんど背後から襲われた形になり、毛利勢はあっという間に崩れて散り散りになって逃げ出した。
それに救われた家康本陣と共同して北から順に立花と当たる。立花は見事な指揮で崩れなかったが、不利と見ると逃げ惑う毛利勢の生き残りを収容すると整然と後退を始めたのだった。
そこを押し込められていた池田輝政や浅野幸長を始め諸隊が襲ったが、そこも見事に防ぎきった。さすが西国無双。
立花が後退した後に、秀忠の部隊は宇喜多に襲いかかった。明石全登は行方不明。
本多政重は忠勝に説得されて降伏、宇喜多秀家はまた川にダイブして泳いで戦場から逃げ切ったのだった。
すでに徳川本陣との激戦で半数以上の兵を失っていた小早川秀秋だったが、
脱出することなく猛然と攻め続けた。しかしそこに大谷吉継との死闘を制して吉継を自害に追い込んだ藤堂高虎の部隊が横槍を入れ、ついに小早川秀秋の命運は尽きたのだった。
秀秋は捕らえられたが気が触れている、との判断で死罪にはならず、戦後池田家に与えられた岡山城に幽閉されてからまもなく死んだそうだ。
みるみるうちに駆逐されていく西軍。俺の眼前に広がるのは地獄だった。
島津はまたいわゆる退き口をやって脱出したようだ。
つまりこの戦場に残っている西軍は俺、石田三成の部隊だけなのだ。
塹壕トーチカ立てこもり作戦が裏目に出た。
戦場で決着がついた後東軍が全てこちらに向かってくるのである。
こっちも損耗して残りはもう1000人ぐらいしかいない。あちらは多分10万近く。
こりゃスパルタでもキツイな、と思った次の瞬間。
数十丁の大鉄砲に狙撃されて俺は消し飛んだ。大鉄砲自体でもズタズタだったようなのだが、
近くの弾薬箱に誘爆して文字通り爆弾のように爆発して俺は吹き飛んだのだった。
戦後石田三成の死を確認するために遣わされた将はこう言ったという。
「こりゃ膾よりひどいや。」
またぶーん、が始まった。
戦後徳川家康は秀忠の手を取り、なんども床に頭を打ち付けて感謝の意を表したという。
徳川秀忠は知勇兼備の将として世に認められ、家康は形ばかり征夷大将軍に就任して
すぐ正統資格者たる秀忠に譲る、という形が取られた。
真田昌幸は隠居領でのんびり暮らし、そしてなぜか早々に隠居した家康とウマがあって浅野長政も交えて将棋や囲碁を楽しむ余生を送ったという。
豊臣秀頼はやはり大阪の陣を起こしたが、なぜか今回は毛利勝永も少領ながら旗本に取り立てられていて参加せず、後藤又兵衛は関ケ原でも黒田長政の命を救ったことで長政の態度も緩和し、結局一時期同僚だった水野勝成に仕官したため大阪の陣には参加しなかった。長宗我部盛親も関ケ原からの脱出に失敗し、捕らえられて八丈島に島流しになったために同じく大阪の陣には行けなかった。後から来た宇喜多秀家と八丈島で血で血を洗う抗争を繰り広げたそうである。
そのため、大坂にえらく小粒な牢人しか集まらなかった。高名な大名らしい大名も集まらず、秀頼は頭を抱えた。牢人が狼藉を働き、統率が取れなかった責任を取る、と言い出して織田信雄も有楽斎も早々に逃げてしまった。
ろくな統率が取れない烏合の衆で数ばかり多い大坂の牢人衆は大阪の陣が始まって包囲されるとあっという間に飢えて逃げ出すものが数限りない有様だった。そこを突かれて城内に突入され、一度の大坂の陣で豊臣家は滅んでしまった。
その際に真田家の指揮を采ったのが真田信繁で、水野勝成麾下で後藤又兵衛が大活躍した、というのは歴史の皮肉だろう。
徳川秀忠は徳川幕府を確立した大将軍として知られるようになり、三傑、というと織田信長、豊臣秀吉、そして徳川秀忠が挙げられるようになった。徳川家康は偉大なる秀忠の先代、父的な扱いだった。あとを継いだ家光は家康を敬愛して父が苦手だったため、家康公を東照大権現として祭り、東照宮を立てたが、民間では秀忠大将軍として広く信仰されたという。
…俺はちょっと頭を抱えた。どうしてこうなった。できることは全部やったのではないか。
それでも徳川家康には勝てないのか。まぁやりきることはやったからなぁ。終わりかな?
……と思ったらまた目が覚めた。まだ終わらないらしい。




