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敵は『石田三成』

ちょうど100話で本編最終話なので、長くなってしまいました。すみません。ここまでお読みいただき本当にありがとうございます。

 物語は俺、石田三成に戻る。フィリピンから東南アジア攻略にある程度目処が立ち、俺は武田盛信(名字は戻した。)にさらにオーストラリア方面に探索を広め、拠点を構築するように命じた後、急ぎ北京へ帰還した。北京の太閤殿下から急ぎの伝令を受けていたのである。


「三成、明が残る兵力を結集して決戦を挑んでくるぞ!」

「殿下、それはどこに。」

「聞いて驚くな。『セキガ原』だ。」

「関ヶ原?」

「うむ。河北省の古くはセキ県と呼ばれた所に明軍、8万が布陣しておる。」

「それでセキガハラ、ですか…」


「おお、三成殿!お待ちしておりました。」


 と声をかけてきたのは徳川内府家康様だ。


「今回は大清皇帝ヌルハチ殿は北京の守りを固めており、我ら日本勢のみで明軍と当たります。」

「して、家康殿、明の将は?」

「明の将はその名も『石田三成』。」

「いしだみつなり~?」


 俺はのけぞるというか転げ落ちた。


「いや、わたしというかおれというかぼくというかここにいるんですが…」

「家康殿も人が悪い。」


 太閤殿下が続けた。


「明の将はな、後趙の石虎の子孫という石龍、斉王田氏の後裔という田福、そして成功、成立、成果の『成氏三兄弟』の五人なのだ。その五人が『石田三成』と呼ばれているというわけだ。五虎将軍のようなものだな。」

「何だ…そういう話ですか…本当に驚きましたよ。」

「うむ。我々はその『石田三成』を倒さねばならん。」

「その呼び方は微妙な気分になりますが、わかりもうした!」


 明軍8万に対してこちらがセキガハラに動員できるのは7万4千であった。太閤殿下はヌルハチ殿とともに北京を窺う明軍を抑えるために参加しておらず、セキガハラの軍勢の総大将は徳川家康様が任じられた。右翼には黒田長政殿、加藤嘉明殿、中央には福島正則殿と加藤清正殿が家康様の前方に展開しており、徳川勢の井伊直政殿と並んでいる。俺は家康様の左翼に布陣した。前に広がる平原の左手に丘が見える。


「あの山、というか丘は?」


 左近に訊ねると


「なんでも松が尾のようにひょろひょろ生えているので、『松尾山』と呼ばれているそうです。」


 と応えた。うーん。松尾山か。今となっては懐かしいな。

 『西』に陣取った明軍は払暁とともに攻め込んできた。


「さすが田福は名族だけあって果敢に攻め込んできますな!」


 と島左近。


「機関銃で斉射しても屍を乗り越えて進んできますな!まるで兵が畑から採れるような果断な戦い方をする。」


 明軍は銃の性能で劣りながらも必死に攻め込み、福島正則、加藤清正隊を押し込み、家康殿の本陣に接しようとしていた。家康様は


「ここに倅がいてくれたらな…お、おったわ。」


 と家康様の本陣の守りを固める松平長七郎ことその正体は松平信康殿をみて、すこし気が軽くなったという。家康隊からは本多忠勝殿、榊原康政殿、水野勝成殿の隊が押し出し、明軍を食い止める!


 俺はふと左手の丘を見上げる。


「行くぞ!選抜して足の早いものは付いてこい!あの『松尾山』を獲る!」


 そして左手の丘を駆け上がる。俺の隊はうろちょろしていた明軍を撃ち倒し、スコップで薙ぎ払い、散弾銃で追い払い、槍を奮ってついに『松尾山』を制圧した!

 

 そこから見える景色は、関ケ原での松尾山城からのものと同じだった。


 田福の陣が家康勢を攻めるのに集中し隊形が伸び切ったのを見極めて


「者ども突撃!敵の横っ腹を食い破るぞ!」

「「「「おう!」」」」


 島左近が、渡辺勘兵衛が、竹中半兵衛様が、土屋昌恒殿が、佐久間盛政殿が、島津家久、豊久殿が一斉に応える!


 そして俺たち石田隊はちょうど松尾山を駆け下りる小早川秀秋隊のように田福隊に襲いかかった。田福隊には大谷吉継のような名将がいなかったのであろう、側面を突かれた田福の軍勢は瞬時に壊乱し、明軍は敗走をはじめた。その様子を見て他の隊も算を乱して逃げ出し、戦いの趨勢に決着はついたのである。こちらに向かって敵中突破をしようとする隊もあったのだが…


「お前たち日本語も話せないくせに人の真似をしているんじゃないよ。捨て奸は島津の専売特許なんだよ、首おいてけ。このさい大将首でなくても許さん!チェスト!チェスト!チェスト!チェストセキガハラ!」


 と立ちはだかった島津豊久と伊集院忠棟の手によって無事全滅させられたのであった。



「『石田三成』を捕らえました!」


 勝利の後、何度聞いても胸に悪い報告が入ってきた。


「『石田三成』の諸君、諸君は最後まで明に忠誠を尽くす立派な将であった。ここにせめて名誉ある死を与える。」


 俺は『石田三成』に語った。流石に日本人でないから切腹を理解してもらうのは難しかったが、彼らに名誉ある死であることを説き(豊久殿などは「日本語話せないのだからそのまま死なせりゃいいではないか。」と言い出す始末だったが。)切腹御免状を彼らに渡した。最後に意地を見せ、見事に切腹した石龍以外は、江戸時代の刑のように形だけ刃を腹に当てたら介錯をする様式ではあったものの、『石田三成』の皆は堂々と刑場で切腹して果てたのであった。


 ここに明の組織的な抵抗は終焉し、程なくして万暦帝が捕らえられて明は完全に滅亡した。そして天皇陛下が戴冠する諸国の連合は後に『日本帝国』と言われ、中国から日本、東南アジアの他ハワイ・オセアニア諸国とそしてオーストラリアがその版図となったのであった。



 セキガ原の戦いで明軍を壊滅に追い込んだ後、太閤殿下は長坂の古戦場の地に大ハン城、すなわち大坂城を築き、そこを拠点として西方の制圧を清軍とともに進めていった。俺は中国奥地に逃げ込んだ明の残党を清の軍勢と共に追い、ついに中国全土の平定に成功したのであった。その際四川省でジャイアントパンダを発見、捕獲し、つがいを紀州、武蔵、神戸などに送ったのである。実はこれこそが俺が自ら中国奥地を転戦した理由だったりする。パンダ可愛いから良いじゃない。


 なお、中国奥地掃討軍に参加していた佐々成政殿は、吐蕃ちべっととの同盟を結ぶことに成功してから我々と別れ、ヒマラヤ山脈を登頂する日々を送ったという。後の話だが、20世紀になってチョモランマの山頂から『佐々成政』と書かれた石板が発見され、佐々成政のチョモランマ制覇が伝説でないことが証明されたそうだ。


 パンダを日本に送り出し、四川に大規模な保護施設を建設した後、太閤殿下に呼ばれた。殿下は大坂城(中国に建てたほう)から寧波の三江流域に建てた隠居城に移っていた。太閤殿下はいつになく、歳を取られて弱っている様子に見えた。


「三成よ、来てくれたか。」

「はっ。」

「今後のことを伝える。しかと聞け。」

「はっ。」

から全土の平定はなった。唐入りは成功したのじゃ。不逞の輩は討ち果たされ、今後は大清皇帝ヌルハチ殿の軍勢だけでも清の平和を守ることができるようになった。」

「これも太閤殿下の日輪のような御威光の賜であります。」

「うむ。よって徳川家康殿とその軍団は日本に帰す。そして家康殿を征夷大将軍とし、日本国王扱いにする。」

「なんと。」

「まあ聞け。ただし豊臣秀俊を日本の関白とし、武家と民衆の政治は徳川将軍家が、朝廷のことは秀俊が担うものとする。」

「おお、何たる深謀…しかし徳川様を将軍とは。」

「わしはな、秀頼をこの中華、大清帝国の『関白』とできたことで満足なのじゃ。ついにここにたどり着いたのじゃ。」

「…ついに、ですか?」

「清は宦官も禁止としたし、秀頼に付けた者どもが皇帝ヌルハチ殿の部下とともに良い国を作ってくれるだろう。」

「北条氏直殿が法を実効性あるものに整理しましたし、清の皇帝が…何代かは大丈夫かと思いますけど凡君でも立憲君主制に近い状態に持っていけるようにしましたからね…」

「この先しばらくは大丈夫だろ、『乾隆帝』とか名君が続くからな。」

「なぜそれを。」

「いったじゃろ。わしは秀頼を関白にしたかった、と。そのためにわしはあらゆる可能性を追求してきた…しかしどこで介入しても最終的に徳川家康が征夷大将軍になるのじゃ。」

「殿下…殿下は一体?」

「そう、そして分かったのじゃ。徳川家康殿は真に日本に平安をもたらし、日本を守る神、神君なのだと。神のなさり様は、その大筋は動かすことができぬ。」

「殿下…では殿下は一体…」

「だから家康の立場を無理に変えるように動くのではなく、その他の条件を色々変えてみたのだ…例えば秀次を切腹させずにそのまま関白を務めさせる、とかな。しかしわしが死んだ途端に秀次は秀頼を殺したさ。その後はあまりに秀次の無能ぶりに諸侯が家康殿を擁立してやはり家康殿が征夷大将軍になった。」

「なったのですか…」

「そう。そしてわしは数千、数万の可能性の中からお前を見つけた。石田三成の人生を変えるのがもっとも正解に近い、と分かったのだ。そして何度も失敗した後、お前はついに成し遂げた!」

「殿下、殿下はいったいどなたなので?」


 しかし聞こえなかったかのように殿下はそれに応えず、話を続ける。


「そう!ついに秀頼は中華の関白となったのじゃ。浅井の恵まれた体躯とお前の知性を持ってな!『この秀頼』は間違いなく関白として終わりを全うできるのじゃよ!流石に5代もすれば没落して中華から去ることになるが、それはわしの領分じゃない。」

「私の知性って…殿下はご存知だったので。」

「うむ。そこにお前が送ってくれた顕微鏡がある。わしの精虫を見てみるがよい。」


 …と準備されていた顕微鏡を覗く。


「無、無精子症…」

「そうじゃ、近江で秀勝(石松)ができた時はなんともなかったのだが、その後おたふく風邪にかかって寝込んでな…」

「そうだったのですか…しかしなぜ淀の方様が『祈念』するのをお許しに?」

「なんだか分からんが、小谷城を落としたときに見た、茶々の寂しそうな表情が忘れられなくてのう…」


 と笑って殿下は答えた。


「しかして、その様な高みから世を見られている殿下は一体。」

「お前昔言っていただろう。ワシのことをサタン、と。」

「あ。」

「わしはキリスト教のいう神に逆らう『サタン』そのものではない。しかしわしは言ってみればそれに近い超次元の存在なのだ。」

「そして俺を石田三成として招き、秀頼様の将来を替えた、と。」

「そう、そしてここまで大事おおごとにしなければ秀頼がわしが満足する行末ゆくすえを得ることはできなかったのだ。お前はついにそれをやり遂げた。心から礼を言う。」

「思えば長い道のりでしたが。」

「ま、切腹や斬首は辛かったろうが、面白かったろ?」


 と言って太閤殿下は人懐っこい笑顔を向けた。


 それから程なくして太閤殿下は寧波の城で『寧波の夢も又夢』と辞世を残され薨去された。棺桶を日本に持ち帰り、豊国大明神として収めようとした所、妙に軽いことに気づいた。開いてみると中には衣装が残るのみで遺体はどこにも見当たらなかったのであった。


 俺は太閤殿下が亡くなった後、家族とパンダを引き連れ、新天地となったオーストラリアの総督となった。督姫様は『我が子は日本の石田領の跡取りにします!』と言って実子の吉康を始めとして日本に残られた。そちらは後にお家騒動などは起こしながらもそれなりの大名として続いたようである。


 徳川家康殿は日本に戻った後、征夷大将軍にになった。立派に将軍を勤め上げ、その後秀忠殿に将軍を譲り、土井利勝殿などの名臣にも支えられて江戸幕府の体制は盤石のものとなっていた。なんでも家康殿は隠居して暮らしていた駿府城で『肉人』を捕らえることに成功し、天麩羅にして食べたため若返り、なんと秀忠殿はおろか少なくとも8代将軍吉宗様の代まで生きていて八代将軍徳川吉宗公にこう語ったとか。


「良いか吉宗、暴れん坊上様、というのは秀忠がやっていたとおりこの様に豪快にやるものだ。」


 ご指導するだけではなく、自らも市中に繰り出して悪党と対峙しては


「神君がこのような所に来られるはずがない」

「神君の名を騙る不届き者だ」

「斬ってしまえばただの人」

「ここで死ねばただの次郎三郎」

「ふふふ、神君お命頂戴致します」

「それならば悪党らしく死に花を咲かせてくれるわ

何を仰せられる、我ら幕臣あっての江戸幕府ではないか」

「初代将軍もこれで終わりぞ」

「笑止千万、家康の首を我が殿に差し出せ…差し出したら族滅されそうだけど」

「神君の顔などそもそも時代が古すぎて知らぬ。」

「腹を切るのは拙者ではなく神君である。いつも追い詰められたら腹を切ろうとしていたから手慣れたものであろう」

「どうせ神君には死んで頂く…というか普通とっくに死んでいるだろ!」

「わしこそが最強最後の『神君が最も恐れた男』になってみせる!」

「何をほざくか家康、飛んで火に入る夏の虫とはこのことぞ

ええい、であえであえ!斬れい!斬り捨てい!」


 などと言われて戦闘になり、家康公がピンチになると


「控えい控えい!この御方を誰と心得るか。先の古河副公方、伊勢新九郎黄門になるぞ!」

「生涯勝手の長七郎、天に代わって貴様達を斬る!」

「備前中納言宇喜多秀家!八丈島から泳いで参った!」


 といつも伊勢黄門と松平長七郎(ともう一人)が現れ、暴れん坊神君の命を救ったという。

…どうもこの人達も駿府城で一緒に肉人を食べたらしい。


 そして家康公は江戸幕府や日本を長く影から支えた後は桃源郷上都ザナドゥで普段過ごされ、時々日本の様子を見に来て東照宮に滞在するようになったとか。


 俺は神君徳川家康公のご活躍を聞いて、こりゃ負けたな、と思った。俺はその後も黄金海岸の総督府で暮らした。炭鉱や鉄鉱山などの鉱山の開発や開拓、そして色々な技術の研究に勤しみ、ついに飛行船を作り上げたところで病に倒れた。


「旦那様、ペニシリンを使えばよろしいのに・・」


 と駒姫がいう。


「いや、この病にペニシリンは効かないよ。それにそろそろうたさんや督姫、左近を始めたくさんの仲間達も待っていると思うのだ…」

「私だけを置いていくのですか。」

「駒姫、そう泣くな。お互いこの歳だ。また会えるさ…」


 と言い残し、たくさんの孫やひ孫に囲まれて、俺、石田三成はオーストラリアの美しい海岸を窓辺に見ながら息を引き取ったのであった。やっぱり何度やっても家康殿には『勝った』とは言えなかったけど、俺は結構満足していたのであった。

次でラストです。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 完結おめでとう!おもしろかったです。 あの切腹斬首の嵐が三成さんへの修行だったとは最後まで気付かんかった・・・ やられたぜ。 [気になる点] 宇喜多秀家さんなんかやらかしたんですか? あと…
[気になる点] 「聞いて驚くな。『セキガ原』だ。」 なんで秀吉が関ヶ原を知ってるの?と思ったら成程の展開。でもこれだけのことが出来るなら「藪の中」の展開の方が説明が・・・バルバドスを遣わしたのは秀吉と…
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