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6.5 賽は投げられた(Layer:1 Main Story)

 エミリーをロンドン塔に連れていくとはいうものの、タワーブリッジを渡って先に進める状況ではない。テムズ川を泳いで渡るという選択肢もあるが、怪我をしているエミリーを不衛生な水中に入れるわけにはいかない。もっとも、怪我をしていなくても、エミリーはその案を承諾しないだろうが。

 途方に暮れるマイケルに助け舟を出したのは、またしてもビリーだった。

「足が要るんなら、あれが使えるぜ」

 そう言ってビリーが指差したのは、オーシャンの飛行甲板でゆっくりとメインローターを回転させているヘリコプター、HMA8リンクスだった。

「あれって、海軍のヘリだろ。乗せてくれるのか」

「タクシーじゃあるまいし、手を上げたって乗せてくれねえさ。だが、俺は戦闘ヘリのパイロットだ。しかも、おあつらえ向きに発艦準備が整ったやつが一機いる」

 岩を思わせるビリーの顔に、いたずらをけしかける子どものような表情が浮かぶ。

「おい、まさか……」

「かっぱらう、いや、ちょっと拝借するのさ。艦上が混乱している今しか、チャンスはねえ。やっちまいましょう」

 子どものいたずらどころか、もはや犯罪者の唆しの域に達したビリーの提案に、まるで警告を与えるかのようにパトロールカーのサイレンの音が重なった。

 渋滞の車列を押しのけるようにして、パトロールカーと隊員輸送用バンがタワーブリッジに現れた。直線と平面で成形された厳ついバンが停車すると、後部のドアからボディアーマーを着用し小型火器を携行した機動隊員が次々に降りてきた。どうやら、さっきの通報が功を奏したようだ。

 整列した機動隊員の中央が割れて、スーツを着たブラウンの短髪の小男が姿を現した。銀縁メガネの奥で、ハムスターを思わせる目がせわしなくあたりを見回す。執務室と会議室でしか生息が確認されていないスコットランドヤードのトップが、なぜ最前線に出向いてきているのか。いぶかしむマイケルの心中を察したかのように、総監はうすら笑いを浮かべた。

「大惨事だな、これは。ステューダー警部補、ご苦労だった」

 はっ、と短く答えて、マイケルは敬礼をする。

 形式的な答礼をした総監に、マイケルはここで起きたことをかいつまんで報告し、最後に付け加えた。

「我々を大至急、ロンドン塔まで運んでください。人質をとって潜伏しているテロリストを、一刻も早く逮捕しなければなりません」

「君たちをロンドン塔に運べだと? そんなことが、できるわけがなかろう」

 総監の拒絶は、マイケルの想定の範囲内だった。当然、次点の提案もすでに考えてあった。

「では、一時的に部隊の指揮権を私に与えてください。テロ対策課としての職務を遂行します」

 マイケルの意見具申に、総監はふむ、と答えた。

「君は先ほどから、なにを言っているんだ。それより、その女性はエリザベート・フォン・フォアエスターライヒだな」

「そうです」

「怪我をしているのなら、まずは医師による治療を受けさせるべきだろう。それとも君は、負傷した民間人に警察の仕事を手伝わせるつもりなのか」

 マイケルは唇を噛む。それを言われると辛い。

 確かに、エミリーたちの活動は、あくまでも超法規的なものだ。正規の警察任務に就いているマイケルと同じ扱いはできない。総監の言うとおり、ここは撤退するのが最善策だ。

 しかし、マイケルにもエミリーにも、ここで退くという選択肢はない。今さらのこのこ現れた連中に、後はよろしく頼むなどと言える状況でも心境でもないのだ。だが、それをうまく説明する言葉が見つからない。

 沈黙するマイケルに、総監が醒めた声で告げた。

「とにかく、すぐにその女性の身柄を我々に引き渡せ」

 マイケルは、総監の言葉に違和感を覚える。

 ――身柄を引き渡せ、だと? それじゃあ、まるでエミリーを……。

「エリザベート・フォン・フォアエスターライヒ、あなたを逮捕させてもらう。警部補、君も本庁にもどって事件が終わるまで待機だ」

 救援に来てくれたのではないのか。マイケルは言葉を失う。

 腕の中のエミリーが身じろぎをした。見下ろすと、マイケルに向けたオッドアイが、これはどういうことよと無言で抗議していた。どういうことなのか、それはマイケルの方が知りたかった。

「総監、なにを言っているんですか。逮捕だなんて、なぜそうなるのですか」

 ようやく発したマイケルの問いは正当なものだったが、総監はいかにも面倒くさそうに答えた。

「答える必要はない。その女性を逮捕することは、内務大臣から私へのじきじきの要請なのだ」

「まさか、罪科も根拠もなしに逮捕するつもりですか。警察権の濫用どころか明らかな違法行為ですよ」

「小賢しいことを言うな。航空機三機の乗客乗員千名と、ロンドン市民数万人の安全がかかっているのだぞ」

 売り言葉に買い言葉のように、つい口を滑らせた総監の顔が、しまったといわんばかりに歪む。マイケルは、テロリストたちからの要求に、エミリーたちの逮捕が含まれていたことを思い出す。

「テロに屈するというのですか」

「それでロンドンの市民も我が国の威信も守られ、スコットランドヤードの失点も回復できるのだ。もとはといえば、外務省や軍とその女たちが勝手にやっていたことだぞ。なぜ我々が巻き込まれて、しかも貧乏くじを引かねばならんのだ。ここで政府に対して存在感を示しておかなければ、また組織を縮小されるぞ」

 総監は開き直ったように、洗いざらいをぶちまけた。そのあまりに身勝手な言葉に、マイケルの頭に一気に血が上った。

 しかし、反撃の言葉を口にしようとしたマイケルより先に、エミリーが口を開いた。

「もういいわ。……降ろしてちょうだい」

 マイケルの腕から路面に降り立ったエミリーの足は、もうふらつくことはなかった。

「たしかにこれは、わたしたちの私闘だわ。だから、これからわたしのすることは、あなたたちには一切関係のないことよ。……ローゼンクロイツ黒騎士団長、セシル・ディ・エーデルワイスの名を持って、現時刻からロンドン塔を中心とした半径二百メートル以内の地域を、対異種局地戦闘地域に指定。同時に、ディフェンスコンディション・レベル1を発令します。交戦資格を持たない者は、ただちに退去しなさい。作戦遂行の障害になるものは、実力をもってこれを排除します。……手加減をする余裕はないから、相当の覚悟をすることね」

 そしてエミリーは、睥睨するように警官たちを見渡した。

「正体を現したな、魔物めが。我々を襲うというのなら、こちらも防衛のために実力を行使する。総員、武器の使用を許可する」

 総監は、そう言い放ってから、警官隊の後方に下がった。隊員たちが拳銃を抜き、エミリーにぴたりと狙いをつけた。

 ――なんだよ、これ。こんなことが、あっていいのか。

 エミリーは俺たちを守るために、飛来するミサイルを迎撃するという、無謀ともいえる行動に出た。そして被害を最小限に食い止めた代わりに、重傷を負った。それでもなお、このロンドンを、そして俺たちを守るために戦おうとしているというのに。

 抜き差しならない状況は、逆にマイケルの感情を冷却した。まだ、説得の余地はある。そうだ、俺は対テロリストの専門家じゃないか。

 マイケルは、にらみ合うエミリーと警官隊の間に割って入った。そして、全員に耳を傾けさせて暴発寸前の感情をなだめるために、あえてゆっくりと丁寧に話しかけた。

「待ってください、今はこんなことをしているときじゃないでしょう。総監、あなたは取り返しのつかない間違いをしようとしています。エミリーをやつらに引き渡したところで、テロが実行されないという確証はない。テロリストを相手に一度でも弱腰を見せれば、これからも格好の餌食になり続けますよ。敵は強力だが少数だ。我々とエミリーたちが共闘すれば、事態は一気に解決します」

 しかし、マイケルの言葉をいちばん理解して欲しかった人物は、すでに聞く耳を持っていなかった。隊員の背後から、甲高い声が答える。

「黙れ。こちらには、きちんとしたチャンネルがあるのだ。その女を引き渡して、犠牲者を出さずに事件を解決できれば、それは我々と内務省の手柄になる。警部補、今ならまだ穏便にことを済ませてやるぞ。私の言うことを聞け」

 この男は、どこまで腐っているのだ。しかし、マイケルは腹の奥からこみ上げてくる熱い衝動を、なんとか抑え込んだ。

「犠牲者を出さずに、と言いましたが、じゃあエミリーはどうなるんです。こいつは、ロンドンや俺たちを守るために、ずっと戦ってきたんですよ。だれからも感謝も称賛もされなくても、それを自分のなすべきことだと言って……。自分たちの目先の利益のために、そういう者を犠牲にすると言うのですか。それが、警察官のすることですか」

 冷静なつもりだったが、マイケルの言葉はかなりの険を含んでいた。鋭い舌鋒は問い詰めとなって、むしろ相手を性急な決断に追い込んだ。

「貴様っ、なんだその言葉は。貴様こそスコットランドヤードの警察官のくせに、総監であるこの私に逆らうのか。もういい、貴様は懲戒処分だっ」

 総監の口からヒステリックな声が放たれた瞬間、マイケルのなかにあった怒りの感情とともに、なにかが弾けたのを感じた。

「ああ、そうかよっ」

 吐き捨てたマイケルは、ホルスターからブローニング・ハイパワーMk3を抜き、エミリーの隣に立った。

「懲戒処分だと? やりたければ、勝手にしろ。だが、そのお返しにおまえら全員、法令違反と越権行為で弾劾してやるからな。敵に尻尾を振るような腰抜けは、そこをどけっ」

 マイケルは一気にまくし立てて、拳銃を構えた。快感に近い高揚感がマイケルを満たしていた。

「なにをひとりで、熱くなっているのよ。あなた、ほんとうに筋金入りの役立たずね。もうちょっと合理的な判断ができないの」

 この修羅場で、エミリーだけがやはり醒めていた。

「悪かったな。俺はおまえみたいに器用じゃないんだ」

「まあ、いいわ。わたしの我慢も、そろそろ限界みたいだし。懲戒だの弾劾だの、さっきから何をぬるいことを言っているの。言ったでしょう、ここはもう戦場なのよ。そこで、このわたしに刃向かったことの愚かさを……」

 エミリーがオッドアイのまなじりを決して、警官隊を睨みつける。そして毅然として言い放った。

「地獄で後悔しなさい」

 エミリーの気迫に押されたように、警官隊がわずかに後ずさる。その背中を押し返すように、総監の金切り声が響いた。

「撃て。そいつらを……」

 しかしその命令は、突然頭上から降り注いだ爆音によって、途中で吹き飛ばされた。

 ロールスロイス製ターボシャフトエンジンの咆哮と、メインローターのブレードが空気を切り裂く破裂音が響きわたり、ダウンウォッシュの気流が嵐のように吹き荒れた。

 強烈な光量のサーチライトが、警官隊に向けて照射される。

 目を細め腕で顔を覆う警官隊の前に立ちふさがったのは、ネイビーグレーのヘリコプターHMA8リンクスだった。

 鋭い眼光で牙を剥く鋼鉄のヤマネコ(Lynx)を前にして、総監はおびえたハムスターのように背を丸めて逃げ出した。指揮官を失った警官隊が、蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う。

 路面すれすれでホバリングしたヘリは、その巨体からは想像もできないような機敏な動作で、長い尻尾を左周りに振り出した。気丈に銃を構えていた警官たちが、大暴れするヤマネコの尻尾に次々になぎ倒された。

 こちらを向いた操縦席で、岩のような顔の男がマイケルとエミリーを見て、にやりと笑った。開け放たれたヘリのカーゴドアから、乗れよ、というだみ声が聞こえてきたような気がした。

 状況を理解したマイケルは、ヘリの背後で右往左往する警官隊から、ロンドン塔に視線を移す。薄暗い城塞の前には、事件など眼中にないように、テムズ川が黒く静かに流れていた。

『ここを渡れば人間世界の悲惨、渡らなければわが破滅。進もう、神々の待つところへ。我々を侮辱した敵の待つところへ。賽は投げられた』

 なぜかはわからないが、カエサルが言ったという名文句が脳裏に浮かんだ。

 ――ばかばかしい。

 ここはルビコン川ではなくテムズ川だし、俺はローマの英雄ではなくロンドンの警察官だ。世界をどうするかなどは、サミット出席者たちに任せておけばいい。俺にできることは、デイビッドたちテロリストを逮捕して、事件を終息させることだ。

 マイケルは、再びエミリーを抱き上げると、カーゴドアからヘリに飛び込んだ。

 それを待っていたかのように、メインローターが空気を切り裂くバタタタッという音が高まり、機体がふわりと浮き上がった。

 前のめりになりながら、ヘリはタワーブリッジから離陸した。開けっ放しのカーゴドアの目前に、タワーブリッジの主塔が迫る。

「振り回すぜ。落っこちないように、しっかり掴まってろよ」

 機内のスピーカーからビリーの声がした途端に、ヘリがぐらりと左に傾いた。

 マイケルは、兵員輸送用のベンチにエミリーを寝かせ、その上から覆いかぶさるように押さえつけた。

 吹き込んでくる暴風が、遠慮会釈もなくマイケルのジャケットをはためかせる。タワーブリッジの主塔に続いて、オーシャンの艦橋が視界の外に飛び去る。

 唖然とした顔で見上げる警官隊のはるか頭上を飛び越えて、ヘリはテムズ川の上空に舞い上がった。

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