6.4 ノブレス・オブリージュ(Layer:1 Main Story)
気管に充満した爆煙を咳と一緒に吐き出したあとで、マイケルはゆっくりと上体を起こした。
アスファルトの破片が、頭や肩からぱらぱらと路面に落ちる。ジャケットやズボンはあちこち破れ、小傷には血が滲んでいたが、大きな怪我はしていなかった。
マイケルのすぐ横で、俯せだったビリーが身体を半回転させて、仰向きになった。ぶはっという排気音とともに、「またかよ、くそったれが」という野太い声がした。見るからに頑丈そうな体には、傷ひとつついていないようだった。
マイケルたちだけでなく、路上で昏倒したままのテロリストたちにも、たいした怪我はないようだった。
ミサイルが炸裂した位置が遠かったことと、遮蔽物のない橋の上で爆圧が四散したことが幸いしたようだ。
――エミリーは?
周囲を見回したマイケルは、ガードレールにもたれるようにして座り込んでいるエミリーを見つけた。意識がないのか、うなだれている。爆発を近くで受けたにも関わらず、見えるかぎりでは五体満足だし、どうやら無事なようだ。ただ、華麗だった黒のドレスはその上衣がほとんど破れ飛んで、白いアンダードレスだけがその身体を覆っていた。
一安心したマイケルは、軋む身体に鞭打って立ち上がり、デイビッドが飛び降りたあたりに歩み寄る。
茶色く濁った川面を、一隻のモーターボートが走り去るのが見えた。その甲板には、ステファニーを抱いたデイビッドの姿があった。
モーターボートがロンドン塔の前の桟橋に横付けになると、デイビッドはステファニーを抱いたまま悠然と上陸した。タワーブリッジの惨状など、どこ吹く風といわんばかりだ。先ほどまでミサイルを操作していたテロリストたちが、恭しくデイビッドを迎える。ここから見るかぎりでは、これ以上の攻撃はなさそうだった。
マイケルのすぐ横から、ちっという舌打ちが聞こえた。
「敵は、あいつか。このお返しは、たっぷりとさせてもらうぜ」
ロンドン塔に姿を消したデイビッドに毒づいたビリーは、辺りを見回してふんと鼻を鳴らした。
「それにしても、ひでえ有様だ。だが直撃なら、今ごろは天国の門の前に立っていたはずだ。お嬢ちゃんのおかげだな」
ミサイルが爆発したあたりは、路面の舗装がめくれあがり、道路と歩道を隔てるフェンスも黒こげになって折れ曲がっている。マイケルたちが無事だったのは、ひとえにエミリーの果敢な判断と行動のおかげだった。
「ああ。礼を言っておかなくちゃな」
マイケルは、まだすこし縺れる足でエミリーのもとに歩み寄る。
「エミリー」と声をかけて伸ばしたマイケルの手が、空中で止まった。
その指の数センチ先、エミリーのウエストのあたりに、折れ曲がったフェンスの支柱が食い込んでいた。アンダードレスを突き破った支柱は、まるでエミリーの腹部に刺さっているかのように見えた。しかも、彼女の白いアンダードレスには、血のような赤い液体が滲んでさえいる。
「嘘だろ……」
現実に理解が追いつかないマイケルの目前で、エミリーがゆっくりと身体を捻った。
ぐうっという絞り出すような苦悶の声とともに、エミリーの身体が支柱から解放される。鋭く尖った支柱の先端には、ぬらりと光る血液がまとわりついていた。
路面に崩れ落ちる寸前に、マイケルはエミリーを抱きとめた。
エミリーは、はあっはあっと荒い呼吸をくりかえし、その合間に低いうめき声を漏らす。その顔は苦痛に歪み、流れ出した血がアンダードレスの赤黒い染みを拡げていく。
「あ、あっ……」
マイケルの口から、意味をなさない言葉が勝手に漏れ出す。
『助けて、お兄ちゃん……』
血溜まりの中で息を引き取ったソフィーの姿が、フラッシュバックとなってマイケルの意識を埋め尽くした。身体からは行動力が、頭脳からは思考力が、一瞬にして消失した。
「おいっ」という声が、聞こえたような気がした。
しかし、朦朧としたマイケルの意識には届かず、「だめだ」という言葉だけが何度も頭に浮かんで消えていった。
「ぼさっとしてんじゃねえ」
背後から肩をゆすられ、壊れた拡声器のような怒号が聞こえた。なかば無意識に振り向くと、岩のような顔を上気させたビリーが睨みつけていた。
「あんたの女なんだろ。なんとかしてやれっ」
ビリーはそう言って、車に備え付けられているファーストエイドキットをマイケルに押し付けた。
キットのパッケージに印字された白い十字のマークが、マイケルの意識を強制的に現実に引き戻した。
深呼吸をひとつ。落ち着け、とマイケルは自分に言い聞かせる。
それで、麻痺していた理性が一気に回復した。負傷者の応急手当なら、なんども訓練したではないか。
「エミリー、聞こえるか?」
肩をたたきながら呼びかけたマイケルの声に、エミリーはうっすらと目を開けてこくんとうなずいた。エミリーに意識があったことで、マイケルは一安心する。
「すぐに病院に連れて行くからな」
エミリーを励ましながら、キットを開封する。ガーゼや包帯を包んでいるビニール袋を破るのが、もどかしかった。
「みんな……無事……なの?」
エミリーが荒い息遣いで、たどたどしく尋ねる。
「ああ、大丈夫だ。おまえのおかげだ」
「よかった。……だめよ、わたしの血に触れては」
「いまさら、なにを言ってるんだ。傷を見せてもらうぞ」
マイケルは、抵抗するエミリーには構わず、強引にドレスをめくり上げた。ウエストのいちばんくびれた部分に、痛々しい創傷が見えた。傷口は小さかったが、滴るような出血があった。しかも傷は深く、皮下組織を貫通していて、腹腔にまで達しているようだった。こうなるともう、内臓を傷つけていないことを祈るしかない。
とりあえず、傷口にガーゼを当てて止血する。そっと触れただけのつもりだったが、エミリーは身体をびくんと痙攣させて短い悲鳴を上げた。身体を丸めて震えながら耐えてはいるが、泣き叫ぶのが当たり前なほどの激痛に襲われているはずだ。
キットには、市販の鎮痛剤とともに、ペットボトルのミネラルウォーターが入っていた。安易に鎮痛剤を飲ませない方がいいことはわかっているが、本人よりも見ているマイケルの方が耐えられなかった。
「イブプロフェンリシンの鎮痛剤がある。モルヒネほどの効果はないが、少しは楽になるはずだ。飲むか?」
マイケルの提案に、エミリーは震えながらうなずいた。
白い錠剤をふたつエミリーの口に含ませてから、ミネラルウォーターを飲ませる。こくんと喉を鳴らして薬と水を飲み込んだエミリーは、ようやく人心地がついたように掠れた声でつぶやいた。
「ありがとう。……じゃあ、状況を教えて」
「だめだ。手当をするから、黙っていろ」
エミリーが苦しそうに首を振る。額に浮かんでいた汗が、こめかみを伝って流れ落ちた。
「状況説明でも聞いていないと、気が狂いそうだわ」
たしかに話をしていれば気がまぎれると判断したマイケルは、いままでに起きたことを説明しながら、応急手当てをすることにした。
残りのミネラルウォーターで傷口を洗浄し、新しいガーゼを当てて押える。少ないながらも出血は続いていて、ガーゼに鮮血が滲んできた。ありったけのサージカルテープを張り付けて、ガーゼを傷口に固定する。十分とは言い難い処置だが、キットに入っているものではそれが精いっぱいだった。
「救急車を呼ぶ。もうすこしだけ、がんばってくれ」
マイケルは携帯電話を取り出して、999をコールする。オペレーターに「アンビュランス・プリーズ」と告げたところで、エミリーの手が伸びてきて、携帯電話を握っているマイケルの腕をつかんだ。
「だめよ。デイビッドを追いましょう」
「いや、ここまでだ。おまえの命には代えられない」
その言葉を聞いたエミリーは、返事をする代わりに、上体を起こして立ち上がろうとした。だがすこし身体を動かしただけで、うめくような悲鳴を上げて路上に蹲った。
「ばかっ。何してるんだよ」
「ロンドン塔に行くわ。デイビッドを倒して、RAINを止めないと」
「それは俺がやる」
マイケルの言葉に、エミリーは顔を上げて首を振った。
「わたしでなければ、万に一つも勝ち目はないわ」
エミリーはよろけながら立ち上がると、傾斜した路面に足を踏み出した。しかしその足取りはたどたどしく、数歩も進まないうちに路面に膝をついた。
「エミリー。どうして、そこまでするんだ」
マイケルの呼びかけに振り向いたエミリーの背後に、傾いたタワーブリッジの主塔と黒煙を噴き上げるオーシャンの艦橋が重なる。エミリーのオッドアイには、『わたしの後ろにある惨状を見なさい』といわんばかりの強い光が宿っていた。
テムズ川を吹き渡ってきた暖かい夜風が、黒煙をたなびかせ、パールホワイトの髪を揺らせる。そしてエミリーの唇が動き、静かでしかし力強い言葉が紡がれた。
「わたしが、まだここにいるからよ。わたしは、あの子を、あなたたちを、そしてこのロンドンを守りたい。それは、わたしに課せられた責務であると同時に、最後に見つけた希望でもあるの。こんな怪我くらいで、放り出せるわけがないでしょう」
一言ずつ区切るように告げたあと、エミリーはオッドアイをわずかに細め、その顔に微笑みを浮かべて見せた。
ひゅう、という口笛に続いて、ビリーの声がした。
「いい女じゃねえか。気に入ったぜ。こりゃあ、なにがなんでもロンドン塔に行くしかねえな」
ビリーの言葉と川風を背に受けて、マイケルはエミリーに向かって足を進めた。そして、有無を言わさずに、その華奢な身体を抱き上げた。
エミリーの口から、「あっ」という艶めかしい声が漏れる。
「わかった、俺が連れていってやる。すこしの間だが、休んでおけ」
マイケルがそう告げると、エミリーはぷいっと顔をそむけた。
「ほんとうに、無礼なひとね。さっきといい今といい、了解も得ずにわたしの身体を弄ぶなんて。……責任、とりなさいよ」
聞き捨てならない言葉を多分に含んだ文句を言いながらも、エミリーは抵抗しなかった。
マイケルの両腕にぴったりと収まったエミリーの身体は、思っていたよりも軽かった。しかし、まるで世界そのものを抱いているかのような重みを感じて、マイケルの腕と心は震えた。




