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6.3 遠すぎた橋(Layer:1 Main Story)

 マイケルは携帯無線機で、警備活動開始の一報を送信した。

 通常ならば、もっとも近くにいるパトカーが駆けつけて来ると同時に、特殊作戦部の機動隊員六名が出動してくるはずだ。だが、この状況でスコットランドヤードがここに隊員を派遣するかどうかわからないし、なによりテロリストたちがそれまで呑気に待っているとは思えない。

「エミリー、この車は防弾仕様か?」

 マイケルの問いかけに、エミリーが落ち着いた声で応じる。

「いいえ、ごく普通のセダンよ」

 だとすると、この車のボディではAK47(カラシニコフ)の銃弾は阻止できない。包囲される前に脱出するべきだが、退路は塞がれているからテムズ川に飛び込むしかない。

 ――文字通り、背水の陣というわけか。どうする?

 さいわいなことに、マイケルはジャケットの下に作戦行動用のボディアーマーを着用している。特殊なアラミド繊維を織り込んだベストで、至近距離でなければ小銃の弾丸も阻止する特製の防具だ。こちらの火力はブローニング一丁だから、やつらを制圧することはできないだろうし、多方向から銃撃されれば無事では済まないだろう。だがそれでも、エミリーたちを脱出させる時間くらいなら稼げるはずだ。

 あとは、どうやって対岸に渡るか、そこが問題だった。いちばん近いのは、ロンドンブリッジを使うルートだが……。所要時間を概算したマイケルは、その思い付きを否定する。だめだ、そんな時間はない。

 もっとも近いルートだと思っていたタワーブリッジが、敵の待ち伏せで封鎖され、もっとも遠まわりになってしまった。そう、対岸まであと三十メートルだったのだ。もう数十秒早く、この橋に着いていたら……。

 悔しさを募らせながら、対岸の跳ね上がった橋桁を見たマイケルの目が、頭上にあるウォークウェイズを捉えた。

 ――そうか、あれがあったか。

 ウォークウェイズはその名の通り、タワーブリッジの上部を結合する歩行者通路だ。テムズ川の水面から四十二メートルの高さにあって、橋桁が跳ね上がっていても対岸に渡ることができる。この時刻なら、ガラス張りの通路から見えるロンドンとテムズ川の夜景がさぞや美しいことだろう。もっとも、そんなものを鑑賞している余裕があるはずもないが。

 助手席を見ると、エミリーはテロリストたちに悠然とした視線を投げていた。 マイケルは、ブローニングのセーフティを解除しながら、エミリーの横顔に話しかけた。

「俺があいつらをひきつけるから、おまえはその隙にステファニーたちを連れて脱出しろ」

 決死の覚悟を決めたマイケルの提案に、エミリーはため息で応じた。

「脱出しろって、このわたしにあのドブ川に飛び込めっていうの? 冗談ではないわ。無礼もここに極まれり、ね」

 落ち着いたというより、むしろ醒め切った声で、エミリーは完璧に彼女らしい言葉を口にした。状況など意にも介さないエミリーもエミリーだが、それに慣れっこになっていて怒りも感じない自分に、マイケルは思わず自嘲の笑みを浮かべた。

「あの通路を使えば対岸に渡れる。シスラボで落ち合おう」

 マイケルは、サンバイザーの隙間からウォークウェイズを指差した。その指先にちらりと視線を投げたあと、エミリーは穏やかなまなざしをマイケルに向けた。

「それなら、あなたが二人を連れて先に行きなさい。戦闘は、わたしが引き受けるわ」

 エミリーのオッドアイの青い瞳には、わずかなさざ波さえ起きていなかった。その諦観さえ感じさせる落ち着きが、逆にマイケルを不安にさせた。

「おまえ、まさか……。いいから、ここは俺に任せろ」

 エミリーのパールホワイトの髪が、ふわふわと左右に揺れる。

「カラシニコフは、その拳銃より火力も速射力も格段に勝るわ。しかも、それを持った敵が少なくとも四人いる。ただの人間のあなたが、この圧倒的に不利な状況を、どうにかできるとでも思っているのかしら。黙ってわたしの言うとおりにしなさい」

 その言葉には、遠慮も容赦もなかった。しかし、それは冷静な分析だったし、議論していられる状況でもない。しかも、マイケルをこきおろしているだけのようなエミリーの言葉には、彼女なら勝算があるというニュアンスを含んでいる。どうやら彼女の提案に乗った方が、この危機を切り抜けられる可能性が高そうだ。マイケルは、感情を押し殺して決断した。

「わかった。おまえに任せる」

「じゃあ、行くわね」

 エミリーはそう言い残すと、ドアを蹴り開けて外に飛び出した。

 ひらひらしたスカートが派手にめくれ、エミリーの白い太腿が露わになる。思わず目を逸らしながら、マイケルはふと違和感を覚えた。今までなら、戦闘が始まるころにはセシルに入れ替わっていたはずだ。なにかが、心にひっかかる。

 だが、まずは脱出のチャンスを窺うことが先決だ。マイケルは頭を振って、ビリーとステファニーを床に伏せさせると、わずかに開けたドアの隙間から外を見た。

 クロスファイアポイントに突然現れたドレス姿の少女に、男たちは一瞬、呆気にとられたようだった。しかし、それが獲物であると認識したらしい男たちは、一斉にマシンガンの銃口をエミリーに向けた。

 タタタッ、タタタッという、乾いた三点バーストの発砲音が起こった。

 秒速七百三十メートルで射出された数十発のカービング弾が、瞬きする間もなくエミリーに殺到し、華奢なその身体をたやすく貫いた。

 ……ように見えた。しかし。

 弾丸が発射された後に動き出したエミリーは、弾丸が到達する前にその場から消えていた。弾丸は白と黒の残像を撃ち抜き、ガードレールで乾いた音ともに火花を散らした。

 それから眼前で繰り広げられた異様な戦闘に、マイケルは目を見張ることしかできなかった。

 視界の隅で、ふたりの男がいきなり路面に倒れこんだ。その傍で、白いロングヘアと黒いドレスのスカートが翻る。

 反対側にいた男たちが、慌ててエミリーを撃つ。

 だが、引き金を引いてから弾丸が発射されるまでに要するコンマ数秒が、この戦闘においては致命的な遅れになった。

 弾丸が射出されたときには、エミリーはすでに男たちの横に立っていた。彼女の左右の拳が、男たちの鳩尾に食い込む。その勢いでトラックに叩き付けられた男たちは、その場にうずくまるように崩れ落ちた。

 そして、戦場に静寂が訪れた。

 路面に落ちていたカラシニコフを拾い上げると、エミリーは優雅なしぐさで乱れた服装と髪を整えた。

 マイケルは、ごくりと唾を飲み込む。

 マシンガンを装備した戦闘員四名を相手に、丸腰で正面から戦いを挑むなど、セオリー無視もいいところの自殺行為だ。しかし、絶対不利なその状況から、エミリーは十秒もかけずに、テロリストたちを制圧してしまった。しかも、彼らの継戦能力は奪いつつも、一人も殺害していないようだ。ばかばかしくなるほどに、戦闘の次元が違っていた。

 感心するマイケルの背後から、ひゅうっと口笛の音がした。

「驚いたな、こりゃあ。俺たちの出番なんて、なさそうだな」

 ビリーの言葉は、過不足なくマイケルの意見を代弁していた。

 そうだな、と答えておいて、マイケルは車の外に出た。

 橋の上には、かすかに硝煙の匂いが立ち込めていた。敵が残っていないことを確認して、マイケルはビリーとステファニーを車から降ろした。

 テロリストから分捕ったカラシノコフを片手に歩いてくるエミリーの背後を、ヘリコプター揚陸艦「オーシャン」の灰色の船体がゆっくりと通り過ぎていく。橋桁とほぼ同じ高さに、AH1リンクス汎用ヘリが並んだ飛行甲板が見えていた。

 勢いをつけて飛べば、乗り移ることもできそうだ。

 湧き起ってきた子供のような悪戯心を封じ込めると、マイケルは「行こうか」とエミリーに声をかけた。

 しかし、その呼びかけは、突然の爆発音によってかき消された。

 熱を帯びた爆風の起きた方に目をやると、のっぺりとした灰色のビルのようなオーシャンの艦橋が、紅蓮の爆炎に包まれていた。

 なにが起きたのか理解する前に、高速の飛翔体がマイケルの視界をかすめた。

 今度は、対岸のブリッジ基部から、オレンジ色の炎とともに盛大な黒煙が吹き上がった。

 ――なんだ、どこから攻撃している?

 マイケルは、視線を巡らせる。

 ロンドン塔に目を移したマイケルは、テムズ川畔の遊歩道に据え付けられた円筒を操作する人影があるのを見止めた。

 ちっという、ビリーの舌打ちが聞こえた。

「ありゃあ、携行用対戦車ミサイルってヤツです。なりは小さいが、破壊力はありますぜ」

「どうしてそんなものを、やつらが持っているんだ。カラシニコフとは違って、簡単に手に入らないだろう?」

「陸軍が装備更新で、旧型を大量に処分してますからね。金さえ出せば、なんでも持ってくるヤツはいますぜ」

 ビリーのうがった解説が終わった直後、金属が軋む音がして、跳ね上がっていたタワーブリッジの橋桁が落下した。横幅十八メートル、長さ三十一メートルの鋼鉄製の橋桁が、文字通り鉄壁となってオーシャンの目前に立ちふさがった。

 その時点で、タワーブリッジとオーシャンの間には、すでに激突を回避するだけの物理的な時間も距離もなかった。まるで、タワーブリッジの橋桁にキスをするように、オーシャンの艦首が接触した。

 轟音とともに、激しい衝撃が起きた。立っていることができず、マイケルたちは路面に投げ出された。

 一八九四年に完成した巨大橋と、そのちょうど百年後に就役した巨大艦との真っ向勝負は、観る者を震撼させる壮絶な相打ちとなった。

 外洋の高波を乗り切る強度を持つオーシャンの艦首は、しかし、最初の接触で原型をとどめないほどに大破した。特殊な高張力鋼製とはいえ、旧大戦中の軍艦の装甲に比べれば薄紙のようなもので、建設から百年以上ロンドンの交通を支えてきた鋼鉄製の橋桁に太刀打ちできるはずもなかった。

 しかし、ロイヤルネイビー最大の軍艦のタックルは、タワーブリッジにも重大なダメージを与えた。満載排水量二万二千五百トンの圧力をまともに受けた跳開橋は、基部の可動部分を完全に破壊され、そのまま押し破られるように艦首の反対側が大きく口を開いた。

 橋桁の先端がオーシャンの船腹を抉り、それでも止まらないオーシャンの前進が橋桁をさらに押し広げていく。そして、橋桁に挟まれた艦首が上流側に突き出したところで、ようやくオーシャンは停止した。

 飛行甲板の上では、乗組員たちが怒号を上げながら駆け回っている。非常事態を知らせる汽笛とブザー音が、断続的に鳴り響いていた。タワーブリッジのシンボルである四基のタワーは内側に傾き、折れ曲がったウォークウェイズが路面に砕けたガラスの破片をばら撒いた。

 ようやく体を起こしたマイケルの目に、テロリストたちが操作する円筒の後ろから、バックブラストの炎と白煙が上がるのが見えた。その筒先は、あきらかにこちらを向いていた。

 その意味を考える前に、マイケルは叫んでいた。

「逃げ……いや、伏せろっ」

 上半身を起こしかけていたステファニーを、再び路面に押し倒してその上に覆いかぶさる。あれがビリーの言うとおり対戦車ミサイルなら、直撃でなくても近くに着弾するだけで、その爆炎と爆風は生身の人間にとってはじゅうぶんに危険だ。できるだけ身を低くして、なんとか受け流すしかない。

 だが、マイケルのパッシブな指示には従わず、もっとアクティブな行動を起こした者がいた。

 閉じかけたマイケルの視界を、黒いドレスと白い髪がよぎる。

 飛んでくるミサイルの正面に立ったエミリーは、手に持っていたカラシニコフをミサイルに向けて投擲した。

 秒速二百メートルで飛行するミサイルを、人力で射出されたマシンガンが迎撃する。常識の存在を疑うような戦闘は、しかし極めて常識的な結末を迎えた。

 カラシニコフの体当たりを受けて軌道を変えたミサイルは、路面に墜落したところでその信管が作動した。弾頭に詰め込まれた数キロの爆薬が炸裂し、一瞬で膨張した高温高圧のガスが衝撃波となって爆散する。爆風はエミリーを吹き飛ばし、直後にマイケルに襲いかかった。

 激痛が全身に走り、耳鳴りがして、口の中に血の味が広がった。感覚が麻痺し、意識が遠のく。自分の体が自分のものでないように重くなり、身動きがとれなくなった。

 熱風が去ったとき、まだ動けないマイケルの体が、何者かの足で掬い上げられるようにして裏返しにされた。胸の下にあったステファニーの柔らかなぬくもりが消えて、代わりに背中が路面の固さと冷たさを感じた。

「わが娘よ、来るがよい」

 情けない悲鳴を上げ続ける鼓膜に、デイビッドの声が聞こえたような気がして、マイケルはかろうじて目を開く。

 滲みぼやけた視界の隅に、ステファニーを連れたデイビッドが見えた。

 嘲るような薄い笑いをマイケルに向けたあと、デイビッドはステファニーを抱き上げて、ふわりとテムズ川に飛び降りた。

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