6.2 ア・フュー・グッドメン(Layer:1 Main Story)
フロントガラスの向こうには、夜の街が広がっていた。
マイケルが運転するベントレーのセダン、コンチネンタル・フライング・スパーは、タワーブリッジに向かって走っていた。
非常事態であるにもかかわらず、道路にはあたりまえのように車や人が行き交い、ロンドンの街は平常時と同じだった。
だが、皮肉にもそのこと自体が、事件がいかに深刻なものであるかを物語っていた。ロンドン市民は、自分たちの頭上で何が起きているのかも知らず、避難することすらできないでいるのだ。もし、いま起きている事件が最悪の結果になった場合、どれほどの被害が出るのか、考えただけでも背中が冷たくなる。
ルームミラーには、後部座席に並んで座ったビリーとステファニーが映っている。顔をしかめたビリーの横で、ステファニーは辛そうに瞳を閉じていた。
マイケルは、窓の外を見るふりをして、助手席に座るエミリーに視線を投げる。
この車内でただ一人、おだやかな笑みを浮かべたエミリーは、車窓に流れていくロンドンの夜景を楽しんでいるようにすら見えた。自分自身の置かれた状況を考えれば、彼女の落ち着きぶりは信じられないことだった。
だが、思えば、エミリーはいつでもそうだった。
ロンドン・アイをあとにしたマイケルとエミリーが、連れだってハノーヴァー公の邸宅に戻ると、ビリーとステファニーが揃って目を丸くした。
「ドールじゃないか」
「この子……」
ハノーヴァー公はすでにバッキンガム宮殿に出かけていたから、エミリーのことを二人に説明する義務と責任はマイケルにあった。だが、そんな面倒事よりもはるかに優先度が高い事態が起きていた。
ヒースロー国際空港に向かって飛行していた民間の旅客機三機が、自動操縦システムへのハッキングによってハイジャックされ、国際テロ組織『アル・アクラブ』から、サミット参加国に向けて脅迫文を添えた犯行声明が出されたのだ。
テロリストたちの要求は、二つだった。中東各国への政治的軍事的介入を永久に行わないとサミットで決議すること、ローゼンクロイツ騎士団を解散させメンバー全員を逮捕すること。さもなければ、Wormwoodを積載した三機の旅客機を、乗客乗員もろともにロンドンの主要部に墜落させるというのだ。ジェット機の爆発による燃焼温度では、Wromwoodは無効化できない。むしろ、瞬時に気化拡散した有害なガスが、一気にロンドンを飲み込んでしまうことは明白だった。
朝の地下鉄爆破テロに続いての航空機テロで、泡を食ったイギリス政府は情報の遮断という方法を選んだ。その結果、無秩序な情報の拡散は防ぐことができたが、軍や警察を含めた対応の選択肢は極端に狭くなった。しかも、『テロ行為には絶対に屈しない』と宣言した手前もあって、イギリス政府もサミット参加国も、この脅迫を無視するしかなくなった。すくなくとも、表向きには……。
「……イギリス外務省から、事態の収拾を一任する、という申し入れを受けています」
ローゼンクロイツ騎士団の情報セクションの責任者は、一連の報告をそう締め括った。
顔色ひとつ変えずに報告を受けていたエミリーが、口の端に薄い嘲笑を浮かべた。
「結局、わたしたちに押し付けてきた、ということね」
こんな事態になっても余裕すら感じさせるエミリーとは対照的に、ステファニーは見るからに様子がおかしかった。血の気の失せた頬にひとすじの涙が流れ落ちると、耐え切れなくなったように顔を掌で覆いながら泣き崩れた。
マイケルに優しい言葉で宥められて、ようやく落ち着きを取り戻したステファニーは、ぽつりぽつりと告白を始めた。
「あたしのせいだわ。あの人――デイビッドに頼まれて、RAINのOSにマルウェアを仕込んだの。無線ネットワークを使ってコンピュータに侵入し、リモートコントロールできるようにするソフトよ。ローゼンクロイツのサーバーをダウンさせるんだって、言っていたから協力したのに。まさか、こんなことになるなんて……」
ビリーが、ちっと舌打ちをした。なじるつもりかとマイケルはいぶかったが、その口から出たのは意外にも冷静な言葉だった。
「そのマルウェアは、RATタイプD『マリオネット』だな」
ステファニーは驚いたようにビリーを見てから、力なくうなずいた。
ビリーは、腕を組んで椅子の背もたれに体を預けた。
「SIS謹製のリモートアクセスツールが、なんで外部に流出してやがるんだ……」
聞き慣れない言葉に、マイケルがどういう意味だと尋ねると、ビリーは独り言のように答えた。
「コンピュータウイルスみたいなもんで、いわゆる『トロイの木馬』ってやつですよ。遠隔操作を狙ったバックドア型マルウェアのなかでも、『マリオネット』はいちばんタチが悪い。侵入したコンピュータにヴァーチャルマシンを構築して、完全に乗っ取っちまうんだ。だから、侵入された側じゃ駆除はできねえ。ホストになってるRAIN側から駆除するしかないわけだが……主任さん、あんたならできるな?」
ステファニーが、鼻を啜って再びうなずく。
マイケルは、ビリーが意外な方面の知識に明るいことに驚いた。つくづく、人は見かけによらないものだと思う。
ビリーは姿勢を正すと、マイケルに向かって告げた。
「というわけだ。主任さんを連れて、シスラボに乗り込むしかねえな」
シスラボ――シトラス・システムズ・ラボラトリィ社の開発拠点は、タワーブリッジとロンドン塔の目と鼻の先に建つ、全面ガラス張りの瀟洒なオフィスビルの地下フロアにある。ロビーで何度かステファニーと待ち合わせをしたことがあったので、マイケルもそのビルのことは良く知っていた。
「あそこなら、踏み込むのはさして難しくない。こちらの身分と目的を明かせば、社員の協力も得られるだろう。だが……」
マイケルの意を察したかのように、エミリーが言葉を引き継いだ。
「だからこそ、敵はそこを無防備で放置しないはず。守備要員も配置しているでしょうし、出国を差し止められたデイビッド本人がそこにいる可能性も高い。いずれにしても、戦闘になると考えた方がいいわ」
ひとつうなずいて、マイケルはそこにいる全員を見渡す。スコットランドヤードやハノーヴァー公が率いる部隊とは、比較にもならないほどのささやかな戦力だ。だが、むしろそこにこそ、勝機を見出すことができた。
――少数精鋭だ。
俺とエミリーをツートップにして、ビリーがステファニーを護衛する。それでいこう。
口を開きかけたマイケルの機先を制して、エミリーがビリーに声をかけた。
「あなた、陸軍だったわね。実戦経験は?」
「戦闘ヘリのパイロットだが、それなりの訓練は受けてるぜ。ど素人のテロリストごときにゃ負けねえよ」
ラッセルスクエアで見せたビリーの体術は、格闘の訓練を相当に受けていることを示すものだった。マイケルは、エミリーにうなずいて見せる。
「それならいいわ。戦闘はわたしが引き受けるから、あなたたちはその子と一緒にシスラボとやらに行って、問題のソフトを解除しなさい」
いいわね、と念を押してから、エミリーは部屋の入り口に立っていた黒服の男を呼びつけた。そして、ハノーヴァー公爵への連絡を命じ、武器と車を手配するように指示した。
混んだ道路の彼方に、ライトアップされたタワーブリッジが見えてきた。
右手の川下には、二隻のタグボートに曳かれたヘリコプター揚陸艦オーシャンが、ゆっくりと航行していた。満載排水量二万二千五百トン、全長約二百メートルの全通式飛行甲板を持つオーシャンは、横倒しになった高層ビルのような巨体で周囲の舟艇を圧倒していた。
もうすぐタワーブリッジの中央部が跳ね上がって、巨大な軍艦が通り過ぎる圧巻の眺めが楽しめるだろう。だがこちらはその前に橋を渡り切らないと、長時間の足止めを食うことになる。それに……。
マイケルは、もういちどルームミラーとバックミラーを確認する。
――やはり、いるな。
ハノーヴァー公爵の館、つまりセント・セシリア校を出てからずっと、一台の大型トラックが後をついてきている。マイケルは、追い越しのしやすさを考えて、細い抜け道や近道を使わずに大通りばかりを選んで走ってきた。結果としてオーソドックスなルートになったが、それにしてもずっと同じ車がついてくるというのは怪しい。
マイケルは、前を走っていたタクシーを強引に追い抜いた。ミラーの中のトラックもまた、褐色の排気ガスを盛大に吐き出しながら追いついてきた。
「つけられてますぜ。やっちまいますか」
ビリーの不穏な発言に、マイケルは首を横に振る。まだ仕掛けるには早すぎるだろう。
「だめだ、撒こう。……ちょっと、とばすぞ」
マイケルは、アクセルを目いっぱい踏み込んだ。排気量六リッターの十二気筒ツインターボエンジンが微かな唸りを上げ、身体がシートに押し付けられるようにベントレーが加速する。
タワーブリッジの入り口にあるアーチ型の門を潜り抜けると、前を走る車も対向車もいなくなった。ブリッジの閉門と跳ね上げが近づいているのだ。
マイケルは、さらにスピードを上げた。
しかし、主塔の基部に開けられた門の前には、停止を指示する札を持った係員が立ちはだかっていた。係員の背後では、すでに宮殿の門扉のような柵が閉まりかけている。
「どうするの?」
エミリーの問いに、マイケルは即答する。
「こうするのさっ」
マイケルはスピードを緩めず、クラクションを鳴らしながら対向車線に飛び出した。
係員が顔色を変えて逃げ出し、閉まりかけた柵が目の前に迫る。ボンネットが柵に触れる寸前に、マイケルはハンドルを左に切った。タイヤが悲鳴を上げ、車はかろうじて門扉をすり抜けた。
しかし、全長六メートル近いベントレーのボディに対して、タワーブリッジの車道は狭すぎた。トランクが門扉に接触し、続いてボンネットが車道と歩道を分けるガードレールにぶつかった。はずみで車は半回転し、横腹をガードレールにこすり付けるようにして、橋の真ん中で止まった。
「みんな、大丈夫か」
同乗者たちの安否を確かめるマイケルに、エミリーが噛みついた。
「もう、なにやってるのよ……。運転が下手なくせに、格好をつけるからこうなるのよ」
「悪かったな。次の機会があったら、お前に任せるよ」
後部座席では、ビリーがステファニーを抱きかかえている。
「そんなに怖い顔で睨むなよ。役得ってやつですぜ」
ビリーの軽口に、ステファニーの強張っていた表情が、わずかに緩んだ。
だれも怪我はしていないようだ。頑丈な車で良かったと安堵したのも束の間、マイケルの耳に激しい激突音が聞こえた。
後ろを振り返ると、追跡してきたトラックが柵をなぎ倒して横倒しになり、橋の開閉を制御するコントロールルームに衝突しているのが見えた。
マイケルは慌ててエンジンのスタートボタンを押したが、事故で故障したのかセルが回る音すらしなかった。
くそっと吐き捨てて、マイケルは顔を上げる。
対岸側の橋桁はすでに高く跳ね上がり、鋼鉄がむき出しになった橋桁の裏側を見せていた。
こうなってはもう、渡ることはできない。エンジンがかかったとしても、背後はトラックに塞がれているから戻ることもできない。
途方に暮れるマイケルに追い打ちをかけるように、ビリーが肩をたたいて耳打ちをしてきた。
「ちょっとばかし、やばいみたいですぜ」
目配せをしたビリーの視線を追うと、トラックの陰に身を潜めた数人の男が見えた。男たちが手にしたAK47自動小銃の銃口が、ぴたりとこちらに向けられていた。




