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6.1 クリティカル・イレブンミニッツ(Layer:2 Side Story)

 

『御座の前は、水晶に似たガラスの海のようであった』

 先月納入された最新鋭機のグラスコクピットで、機長はなぜかヨハネの黙示録の一節を思い出した。

 この飛行機は、飛行に必要な情報のすべてが、数個の液晶ディスプレイの表示によってもたらされる。しかも離陸を除けば巡航飛行から着陸までが、ほぼ自動操縦で行われる。彼の仕事は、ディスプレイの表示を見ているだけだと言っても過言ではなかった。

 そのディスプレイの一つに、ヒースロー国際空港の管制空域に入ったことを示す表示が現れた。隣の席に座っている副操縦士が、着陸の最終許可を得るために、航空無線でヒースロー国際空港の管制官に呼びかけた。

「ヒースロー・コントロール、こちらは、イングランド・エアライン、フライト43。現在位置、シティ・オブ・ロンドン上空……」

 コクピットに並んだディスプレイのなかから、自機の飛行方位と高度の情報を読みあげる。

「ヘディング、スリーワンゼロ、メインテイン、スリータウザンド。フライトプランどおり、ヒースロー国際空港への着陸を申請する」

 待つほどもなく、ヒースローの管制官から返信が入った。

「ヒースロー・コントロールよりEAL43。ようこそロンドンへ。着陸を許可する。フライ、ヘディング、ツーセブンゼロ、メインテイン、ツータウザンド。ベクター、トゥ、ファイナルアプローチコース。クリア、トゥ、アイエルエス・ナンバーワン、ランウェイ、ツーセブン・レフト」

 交信内容を確認した機長は、管制官の指示どおり、機体をほぼ真西に向けて左旋回させつつ、高度二千フィートまで降下させる。ヒースロー国際空港から発信されているILSの誘導電波を受信すると同時に、着陸に向けて手順のチェックを始めた。

 時刻は午後八時三十分、このぶんなら定刻の到着になるだろう。

 ドバイを出発してから七時間、ここまでの飛行は順調だった。だが、ここから着陸完了までの八分間は、離陸時の三分間と合わせて『クリティカル(魔の)イレブンミニッツ(十一分間)』と言われ、事故の大半がこの時間帯に起きている。

「ビフォアランディング・チェック」

 機長の指示に、モニターの表示を確認した副操縦士が答える。

「コンプリート。オール、グリーン……いえ、待ってください。おかしいぞ。なんだ、これは」

 副操縦士の困惑したような声とともに、オートパイロットのステータスを示すディスプレイに、赤い文字で三桁の数字が浮かび上がった。

「ナイン、ポイント、ワン、ワン?」

 副操縦士がその表示を読み上げた直後、機体が大きく左に傾いて、エンジンの出力が急上昇した。一瞬、なにが起きたのか分からなかった。

 機長は、隣の席にいる副操縦士を見た。コクピットの色とりどりの光を映した副操縦士の顔は、同じようにこちらを向いている。数秒間、間の抜けたその顔を見つめたあとで、機長は右手で操縦スティックを握った。

「故障か? オートパイロット、オフ」

 機長の指示に、副操縦士が答える。

「だめです、オートパイロット解除不能」

 機長自ら、オートパイロットのスイッチを操作するが、何度やっても結果は同じだった。

「機長、これはなんでしょう」

 副操縦士が、ステータスモニターのディスプレイに現れた文字を読み上げる。

「三番目の使い、ラッパを吹く、燃える大きな星、川と水源に落ちる……」

 機長は、ついさきほど自分が抱いた感慨を思い返しながら、つぶやいた。

「第三の御使がラッパを吹き鳴らすと、松明のように燃える大きな星が空から、川の三分の一とその水源との上に落ちた。この星の名は『ニガヨモギ(Wormwood)』と言い、水の三分の一が苦くなった。そのために、多くの人が死んだ。……ヨハネの黙示録の一節だ。誰がやっているのか知らないが、たちの悪い悪戯に付き合う暇はない。手動制御を試みてみよう」

 機長は、操縦スティックをゆっくりと右に倒す。姿勢制御コンピュータと連動した電子操縦システム――フライバイワイヤが、主翼や尾翼の補助翼を動かして機体の傾きをもとに戻すはずなのに、全く反応がなかった。

「だめだ。反応しない。システムチェックを……」

 副操縦士は、マニュアルを開き、いくつかのスイッチを操作した。

「システムチェック、コンプリート。スーパバイザ・システムより警告……オートパイロット及びフライバイワイヤに不正規入力が発生しています。主系統、副系統、予備系統すべてだめです。機体を制御できません」

「システムエラーか、メカニカルトラブルか?」

「わかりません」

 緊迫したやりとりを続けるコクピットの左窓の下には、高度六百メートルから見下ろすロンドンの夕景が広がっていた。満席のキャビンからは、もっと綺麗に見えているだろう。だが、そんなものを鑑賞している余裕は、もちろんなかった。

 幸いなことに、高度は下がっていない。エンジンも順調だ。機体の傾斜角は大きいが、乗客にはヒースロー国際空港の名物である着陸待ちの旋回をしているようにしか思えないだろう。だが、このままコントロールが戻らなければ、いつかは燃料が切れて墜落するしかなくなる。

 機長と副操縦士は、マニュアルを確認しながら、できる限りの対処を繰り返す。しかし、そのいずれも効果はなかった。いたずらに時間ばかりが経過し、焦燥が募る。

「くそっ。冗談じゃないぞ」

 副操縦士が、吐き捨てるように怒鳴ってモニター画面にチェックリストの束を叩きつけた。

 機長が、落ち着け、とたしなめる。

「私は、ヒースロー管制塔に連絡する。君はシステムチェックをやりなおしてくれ」

 機長は、無線のスイッチを操作してヒースロー国際空港の管制官を呼び出し、「メーデー」と三回繰り返した。「こちらEAL43。機体の制御を失った模様だ。フライバイワイヤが故障した可能性がある。現在、シティ・オブ・ロンドン上空、二千フィートで左旋回中。繰り返す、機体を制御できない」

「こちら、ヒースロー管制塔。EAL43、貴機からの遭難通信を受信した。状況の詳細を報告してください」

 機長が事実関係を説明すると、管制官はひとつ咳払いをした。

「では、緊急事態を宣言しますか」

 迷う余地などない。地上からの支援を受けるしか、この事態を打開する方法はない。機長は即答した。

「こちらEAL43。緊急事態を宣言する」

 しかし。

「……EAL43……どうし……聞こえな……」

 無線の向こうの管制官の声が、雑音にかき消される。副操縦士の顔に、ふたたび呆然とした表情が浮かぶ。

「ILSビーコン、ガイドウェーブ、ロスト。ヒースロー・コントロール、ネガティブコンタクト。航空無線が使えません」

「そんな……。管制が失われれば、下手をすると他の機と衝突するぞ。ロンドン・アプローチでもヒースロー・タワーでもいい、とにかく管制官との通信を回復しろ」

 狭いコクピットに、ロンドン・アプローチとヒースロー・タワーに呼びかける悲痛な副操縦士の声が繰り返された。

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