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5.9 護られるべきもの(Layer:1 Main Story)


 大きなマホガニーのテーブルの上には、紅茶をたたえたウエッジウッド・アストバリーブラックのティーセットが三つ並んでいる。カップに満たされた褐色のダージリンティーからは、ほのかな湯気とともにマスカットのような香りが立ちのぼっていた。

 マイケルの正面には、苦虫を噛み潰したように顔をしかめているビリーと、うつむいたままで表情も伺えないステファニーが並んで座っていた。テーブルには、アフタヌーンティーのスタンドがセットされていたが、盛り付けられたスコーンやサンドイッチに手を伸ばす者はだれもいなかった。

 ラッセルスクエアでハノーヴァー公に声をかけられ、マイケルたちはそのまま公爵の館つまりセント・セシリア校に連れてこられた。

 ステファニーはここで医師による診察を受けさせられたが、異種の血が薄いということで開放されることになった。私刑まがいの行為がなかったことには安堵したものの、これでアリシア殺害に関していっさいお構いなしになったことには、なにかやり切れないものがあった。ステファニー自身もそれを自覚しているのか、終始無言でマイケルとは目も合わせようとしなかった。

 広い応接室に満ちた居心地の悪い静寂のなかで、置時計の振子が時を刻む音だけが、世界が停止していないことを繰り返し告げていた。

 やがて、大きな両開きのドアが開いて、ハノーヴァー公が部屋に入ってきた。マイケルたちが座っているテーブルの空席に腰を下ろすと、三人を見回したあとで静かに口を開いた。

「ステューダー警部補、君の推理について検証を行った。その結果、デイビッド・サスーン・アル=イスカンダル・ドゥル・カルナインが、一連の事件の主謀者であると断定するに至った。たしかに、あいつなら異種を操ってこの程度の事件を起こすこともできるだろう。妥当な推理だし、我々が掴んでいる事実関係とも符合する。これで十五年前の事件とも繋がったわけだが、決定的な証拠がない状況ではスコットランドヤードは動けまい。やむを得ない状況だと思うね」

 そんな結論なら、すでにラッセルスクエア駅前で出ていた。それでもマイケルがあえて同行を承諾したのは、デイビッドと敵対関係にあるローゼンクロイツ騎士団の一員であるハノーヴァー公なら、なんらかの協力をしてくれるのではないかという期待があったからだ。だが、思えばハノーヴァー公は、マイケルとエミリーの気持ちを利用してまで、事件から官憲を切り離そうとしていたのではなかったか。

 ――俺たちと手を組むつもりなどない、ということか。

 期待を裏切られたような気がしたマイケルは、語気も荒く言い放った。

「たとえひとりでも、俺はデイビッドを逮捕するために戦いますよ。もっとも俺の権限では、あいつの出国を阻止することもできませんがね」

 椅子から腰を浮かしかけたマイケルを制して、ハノーヴァー公は穏やかな表情のままで頭を振った。

「君たちにはできなくても、我々にはできる。デイビッドを逃がさないための手はずは、もう整えてある。そして晩餐会には私も出席し、ローゼンクロイツ赤騎士団(ブラッド・テンプルズ)陸軍特殊部隊(SAS)を配備して、あいつに手出しはさせないようにしよう。君たちは、すべてが済むまで、安心してここで待っていたまえ」

 ハノーヴァー公の自信に満ちた言葉に、結局そうなるのか、とマイケルは唇を噛む。

「公人としても私人としても、はいそうですかと言うわけにはいきません。デイビッドは、事件の最重要参考人だし、俺にとっては妹の仇だ。逮捕して、法の裁きを受けさせなければならないのです」

 マイケルの訴えはあらゆる意味で正当なものだったが、ハノーヴァー公は一瞬だけ眉をひそめてから、喧嘩っ早い子どもをなだめるように言った。

「君らしい言葉だが、おとなしく諦めたまえ。前にも言ったと思うが、こと、異種に関する限り、対応の優先権は我々が保持している。それに、デイビッドはいままで君が戦ってきた異種どもとは、格が違う相手だ。異種の王とでも言うべき者で、我々はオーバーロードと呼んでいる。まともにやりあえば、私もあの子もどうなるかわからない。そんな戦闘に、君のような甘い考えで手を出されたら、足手まといにしかならないし、君自身が命を失うことになるだろう。どのみち君には、この戦闘に参加する資格はないのだよ」

 その言葉の破壊力に、マイケルの闘志が打ち据えられそうになった。ピカデリー・サーカスやプリムローズ・ヒルでの戦闘を思い出す。もしあのとき俺が余計な手出しをしていなければ、エミリーが危ない目に会うことはなかったのかもしれない。

 だが、ハノーヴァー公の言葉のなかにあったひとつのフレーズが、マイケルの心にあった消そうにも消せない炎を呼び覚ました。

『あの子もどうなるかわからない』

 ――エミリー。

 高貴な白の少女。この二週間、ともに時間を過ごして、同じ事件を追ってきた。すれ違いや誤解から、幾度となく口論や喧嘩もした。けれど、その度に少しずつふたりの距離は縮まっていった。そして、俺は彼女を愛するようになった。

『俺におまえのことを守らせて欲しい。これからも、ずっと……』

 結果として袂を分かつことになってしまったが、あのときの気持ちも言葉も、なにひとつ偽りのないものだった。いや、今でも。

「……この館の中なら、どこで時間を過ごすのも自由だ。だが、怪我をしたくなければ外には出ないように。ここで吉報を待っていたまえ」

 もの思いに耽ったマイケルにそう言い残して、ハノーヴァー公はドアを開けて出て行った。

 マイケルは、あわてて席を立つ。

「待ってくれ」

 呼び止める声が聞こえないかのように、ピンストライプのスーツがドアの向こうに消えた。マイケルは後を追って、部屋を飛び出した。


 外は長い廊下になっていて、磨き込まれた大理石の床がシャンデリアの光を映していた。赤ワイン色のベロアカーペットを踏んで歩くハノーヴァー公の長い金髪が、なぜかすこし寂しそうに揺れていた。

「待ってくれ。聞きたいことがあるんだ」

 マイケルが声を上げると、ハノーヴァー公はまるでそれを予測していたかのように、自然に立ち止まり振り返った。

「なんだね。私は忙しいのだが」

「エミリーを……」

 マイケルは、そこでわずかに言いよどむ。エミリーと別れ、彼女の警護任務を解かれた俺には、彼女の行動に対して口を出す権利も資格もない。けれどマイケルは、続く言葉をもうとどめられなかった。

「彼女を、戦わせるのですか」

「やむをえまい。あの子は、目前の戦いから逃げることは絶対にしないからね。できることなら、今回の作戦には参加させたくないのだが」

 返答するハノーヴァー公の声には、わずかに苦渋が含まれているような響きがあった。

「どうしてです?」

 マイケルは、素直に疑問を投げかける。エミリーが戦闘行為に加わらないというのは、マイケルからすれば喜ばしいことだが、ハノーヴァー公からすれば戦力の大幅な低下という憂慮すべき事態であるはずだ。

「あの子のバランスが崩れ始めている、と先日言ったことはおぼえているかね」

 またその話か、とマイケルは思う。このまえは、その原因が俺だと言われた。不本意なことだが、圧力すら感じるハノーヴァー公の言葉に、マイケルは黙って首肯する。

 うむ、とつぶやいたハノーヴァー公は、言葉を継いだ。

「あの子はいま、かなり危険な状態でね。もっとも心配していた事態が、起きようとしている。よりによってこの時期にだ。巡り会わせが悪かったとしか言いようがない。この状況であの子を戦場に立たせるのは、極めてリスクの高いことになるのだ。万が一のことが起きたとき、私はガーディアンとしての義務を果たせないかもしれないからね」

 窓から差し込む西陽が、ハノーヴァー公の表情に現れた陰影を、くっきりと浮かび上がらせた。核心を語らないので、その苦悩の理由はわからない。しかし、いやだからこそ、マイケルは答えなければならなかった。

「エミリーが戦闘に参加するのなら、俺が彼女を守ります。俺は、そう誓ったんです」

 超常の者同士の戦闘で、普通の人間でしかない俺にそれができるのか、はなはだ疑問ではある。ましてや、いったんは戦闘参加を拒絶されている。いまさら許可されるとも思えないが、それなら無断で介入するだけのことだ。

 マイケルは、自棄に近い感情を込めて、ハノーヴァー公を正面から見つめた。腕を組んだハノーヴァー公は、なにかを思案するように目を閉じた。

「君が思っているほど、簡単なことではないよ。だが、時間をかけて熟考することだけが、正解に至る道ではないかもしれないな」

 つぶやくようにそう告げたハノーヴァー公は、目を見開いてマイケルの視線に正面から向かい合った。

「ならば、問おう。君は、運命を変えられると思うかね」

 突然の質問に、マイケルは戸惑う。だが、ハノーヴァー公の表情は真剣なままだった。

 ――そうか。

 マイケルは気がついた。俺は、この人に試されているのだ。

「ええ。その意思があるのならば」

 ハノーヴァー公は、間髪を入れずに続けた。

「もうひとつ。たとえあの子がどんな存在でも、あの子を受け入れられるかね」

 どんな存在でも、という部分を、ハノーヴァー公はゆっくりとしゃべった。そこに意図があることは明らかだった。

 たしかに、エミリーには常識では理解しがたいような謎がある。けれど……。 

 エミリーとの思い出が、次々にマイケルの脳裏をよぎった。お茶を飲んでお菓子を食べ、食事をして酒を飲む。屈託なく笑い、からかえば拗ねて、怒らせれば喧嘩をふっかけてくる。けがをすれば赤い血が流れて痛がるし、抱きしめればやわらかくて温かい。

『わたしも、普通の女の子よ』

 すました声で告げたあの言葉は、そうありたいというエミリーの願望だったのかも知れない。

 思えば、戦場を離れた彼女は、どこにでもいるような普通の少女だった。傲慢でエキセントリックだが、他人である俺の不幸にも涙するような、普通の……。

 ――涙?

 マイケルは、はっとする。その光景が、それを見たときよりも鮮やかによみがえってきた。どうして、こんな大事なことを、俺は忘れてしまっていたのだろう。

『それじゃあ、さよなら』

 別れ際。あのときエミリーは、泣いていたんだ。

 ハノーヴァー公の思惑など、どうでもいい。マイケルは心を決めた。

「もちろんです。普通の女の子でなくても、かまわない」

 大きく頷いたハノーヴァー公から、感情を排したような怜悧な声がした。

「これが最後だ、心して答えたまえ。もしもあの子が、『世界を滅ぼす』と言い出したら、君はどうする。世界とあの子と、どちらを選ぶかね」

 マイケルは、その問いに耳を疑う。まるで安っぽい恋愛映画のセリフのような、大げさで芝居がかった言葉だ。だが、これが最も重要な質問であることはたしかだ。

「そのときは……」

 マイケルは、ハノーヴァー公の顔から目を逸らさずに、その表情から真意を慮る。

「そのときは?」

 ハノーヴァー公も、峻厳な舌鋒で問い詰めながら、鋭い光をその眼差しに乗せてきた。

 目には見えない武器を、お互いの鼻先に突きつけあっているような感覚だった。ふたりの間の空気が熱を帯びていくのが、手に取るようにわかった。この問答に、冗談や駆け引きなど存在しないということだ。言葉通りの意味だというのなら、どちらかを選択するようなことではない。それなら、俺は……。

「あいつの頬をひっぱたいてでも、目を醒まさせてやります」

 マイケルの答えに、ハノーヴァー公は呆気にとられたあと、高らかに笑った。それで、その場を支配していた緊張は霧散した。

「いい答えだ。ほんとうにあの子を守れるのは、君のような者なのかも知れんな。ただ、君は近いうちに、どうしようもない事態に直面することになるはずだ。そこで君が志を変えたとしても、私は君を責めないだろう」

 ハノーヴァー公は、窓辺に歩み寄って外に目を向けた。

「君の外出を許可する。こんな日は、観覧車にでも乗れば、さぞやいい眺めだろうからね……」

 窓を背にしてハノーヴァー公が振り向いた。逆光になり、その表情は読み取れなくなった。

「高山の岩場のようなところでさえ、根を張り茎を伸ばして花を咲かせる野草がある。それはいずれ散りゆくさだめにある命のひとときの輝きだ。だから、たとえ果実が得られず、棘に毒を持つとしても、その花は愛でられるべきなのだ。……もっと楽な場所も、あるだろうに」

 そして、ハノーヴァー公は、窓の外に目を向ける。

「どうして、ああも生き方が下手なのか」

 絞り出すようなその言葉を最後に、ハノーヴァー公は口を閉ざした。

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