5.6 メモリーズ・スケープ(Layer:1 Main Story)
食事とブリーフィングを進めながらも、マイケルの気持ちはなかなか今の仕事に向かっていかなかった。
そういえば、ここでエミリーと大喧嘩をしたあと、あいつは俺を残して一人でさっさと帰ってしまったんだったな。それから、俺は……。
――どうしたのだったか?
誰かに、出会ったような気がする。だが……。
『忘れるがいい』
そんな声が、頭の中に響いたような気がした。その途端、記憶の縁にかかりかけていた手がするりと滑って、何かが霧の向こうに消えていった。
もやもやとしたものを抱えたまま、ブリーフィングを終えたマイケルは部下たちとともに席を立った。
歩き出したところで、一人の男がマイケルの目前に立ちはだかる。
「どいてくれ」と言いそうになって、マイケルはまたデジャビュを覚える。
「ほう、これはこれは。なんとも奇遇なことよ」
聞き覚えのある声が、大仰な台詞を告げた。数人の男女を従えたその男は、マイケルに向けた銀色と褐色の目を、大げさに見開いて見せた。
「デイビッド……サスーン」
あざといほどの笑顔の中に浮かんだオッドアイを見た途端、軽い頭痛がマイケルを襲った。それは、痛みというよりも痺れに近い感覚だったが、思考が掻き乱されてうまく考えが進まなくなった。
黙りこむマイケルに、デイビッドはふっと含み笑いを見せた。
「昨夜の礼なら、いらぬぞ。あれは、余の気まぐれだからな」
マイケルは、プリムローズ・ヒルでの出来事を思い返す。いろんなことがあったせいで放置してしまっているが、気になることがいくつもあった。
「その点に関しては、礼を言うべきだろうな。助けてもらったことには感謝している。それはそれとして、ステファニーはどうしているんだ。出頭させると言っていたのに、話が違っているぞ」
マイケルの詰問に、デイビッドは余裕たっぷりの笑顔を少しも崩さずに答えた。
「あの子のことなら、心配はいらぬ。法的な手続きはすべて終了しているから、あの行為が罪に問われることはない。希望通り、明日には職場に戻れるであろうよ」
これにはマイケルも、唖然とするしかなかった。ハノーヴァー公やエミリーたちローゼンクロイツ騎士団といい、この男といい、超法規的な行為がここまでまかり通るとは。スコットランドヤード上層部は、いったいなにをやっているのだ。
こみ上げてきた怒りで、マイケルの感情が沸騰しかかった。だがその時、ふと耳の奥によみがえった言葉があった。
『表面に現れた瑣末なことにばかりとらわれていたら、大局を見誤るわよ』
すましたエミリーの声が、火照った身体を潤す冷涼なミネラルウォーターのように、一瞬でマイケルの興奮を冷ました。
思えば、この男の正体も謎に包まれている。エミリーに対抗しうる不思議な能力を持ち、ロンドンの警察組織を動かせる政治力を持ち、一連の事件に深く関与していると思われるこの男。はたして、俺の敵なのか味方なのか。マイケルは、すこし探りを入れてみることにした。
「わかった。……ところで、ここにいるということは、あんたもサミットの関係者なのか」
マイケルの問いかけに、デイビッドは「ハッ」と短く嗤った。
「たわけが。余を誰だと思っておる。覇道を歩まんとする者も、王道を説く者もおらず、小賢しい駆け引きばかりのくだらぬ合議など、余には要らぬわ。世界に混乱しかもたらさぬ愚か者どものくせに、王を気取って頂上会議などとぬかしおって。厚顔無恥も、ここに極まれりというものよ。いずれ相応の報いをくれてやるわ」
相変わらずの不穏当な発言に、マイケルは警備の一端を担うものとして、釘を刺す。
「あんたの見識はともかく、ここで破壊活動や私闘行為には及ばないよう再度警告しておく。暴力によって持論を表明されては、たまらないからな」
「それは余よりも、姫君にこそ言い聞かせてもらいたいものだな……」
姫君という言葉に、マイケルは強いデジャビュを感じる。なにかを思い出しそうになって、しかしそれはすぐに霧散してしまった。そんなマイケルの困惑を見透かしたように、デイビッドはにやりと笑った。
「だが、心配せずともよい。余はもう、ここに用はなくなったからな。明日には帰国する。久しぶりのロンドンであったが、姫君やそなたらのおかげで、退屈しない程度には楽しませてもらった。もう会うこともなかろうから、礼を言っておこう」
デイビッドは片手をあげてから、マイケルに背を向けた。
後を追って歩き出した付き人たちの中に、安っぽいポロシャツを着た男の姿があるのを見つけたマイケルは、また何かを思い出しそうになる。しかし、どうしてもそれを思い出すことができない。自分の記憶の一部に、靄がかかったようになっている部分があることに、マイケルはやっと気がついた。
――なにかが、おかしい。俺は、どうなっているのだ。
だが、その答えを考える暇は、マイケルにはなかった。部下の一人が、まもなく始まるイギリスと某国の首脳会談の警備計画の確認にやってきた。
瞬時に思考を切り替えたマイケルは、部下たちの配置について指示を出した。ついさきほど出会った男のことも、すでに記憶から薄れはじめていた。
交代に来た要人警護課のメンバーに現場の引継ぎを行い、シフトを外れたときには、すでに夜半と言っていい時刻だった。明日の夕方から開催される晩餐会の警備任務に就くまでは、非番ということになる。
マイケルは、キングスクロスにある行きつけのパブに顔を出した。
口に広がるエールの苦味を味わいながら、カウンターの上に吊り下げられたテレビに目をやる。BBCのニュースが映っていて、あいかわらず無表情な女性キャスターが、アラブの石油会社に欧米の投資ファンドが敵対的買収をかけたというニュースに続いて、連続通り魔殺人事件の続報を読み上げた。
――連続通り魔殺人事件、か。
思えば、二週間前の俺は、まだ何も知らず一人で事件を追っていた。そして、ここキングスクロスでエミリーに出会ってから、事態は大きく動き始めたのだ。
今になってみると、この事件には、最初から結果が決まっている八百長試合をさせられているような感触がある。俺はリングの上で真剣勝負をしているつもりだったが、数段格上の相手によって上手くコントロールされていたのではないか。
『わたしたち、踊らされているのかも知れないわよ』
ピカデリー・サーカスでの死闘を終えた後の、エミリーの言葉が今更のように思い出される。一連の事件はローゼンクロイツ騎士団の暴走が引き起こしたもので、エミリーたちはその収拾のために動いていたと思ったが、ほんとうにそれで良かったのか。十五年前の事件も、ローゼンクロイツ以外の者が関与していたかのようなことを、エミリーもハノーヴァー公も言っていなかったか。
次々に、疑問が沸き起こる。だとしたら、いったい誰の意図がどう働いて、今の状況が現出しているのだろうか。なにか裏の事情があるに違いないと、マイケルは漠然と推察する。しかし、それ以上に推理を進めるには、決定的な情報なり証拠なりが不足している。
テレビ画面の中では、すました顔の女性キャスターが、事件が未解決なのは首都警察の怠慢である、いずれ人々の記憶から忘れ去られるのを待っているのではないか、と厳しい口調で持論を展開する。
忘れ去られる、という言葉が、マイケルの心をざらりと撫でる。それは、土足で心の中にまで踏み込まれたような、嫌悪感しか覚えない感触だった。
たとえ誰があの事件を忘れても、俺だけは絶対に忘れるものか。
マイケルは、すでに次のニュースを読み上げはじめたキャスターに向けて、無言でそう宣言する。
そのときだった。マイケルの頭の中に、突然その声が響いた。
『忘れろ』
――なんだって?
路地裏、ナイフ、そして少女。
マイケルの脳裏に、次々にフラッシュバックが起きる。それは、二週間前の出来事か、十五年前の記憶か。
『ここから立ち去れ。すべて忘れろ』
氷のように澄んだエミリーの声が、脳裏をよぎる。
そういえばあの時、エミリーも俺に暗示をかけようとしたのだった。だが、その暗示は俺には効かなかった。だから俺は……。
いや、待て。エミリーも、だと? その暗示は、だと?
あいつの他に、誰か俺に暗示をかけた者がいるというのか。
もしかしたら、俺は何か大事なことを忘れているのではないのか。いや、忘れさせられているのではないか……。
『忘れるが良い』
不意に、そんな声が耳の奥に木霊する。途端に頭の芯に鈍い痛みが広がって、掴みかけていたなにかがまた消えていった。
くそっ、とマイケルは小さく舌打ちをする。
左腕のスピードマスターの針は、すでに午前を差している。ほろ苦いエールを飲み干してから、マイケルは店を出た。
帰宅してシャワーを浴び、ベッドにもぐりこむ。昼間の熱を溜め込んだ部屋は、エアコンをかけてもなかなか快適にはならなかった。
鈍い頭痛と寝苦しさのなかで、マイケルは睡魔の到来をひたすら待ち続けた。
深い闇があった。
ねっとりとからみつく、重い空気が不快だった。
――また、この夢を見るのか。
「助けて……」
闇の奥から、女の子の声が聞こえてきた。
俺は、闇に向かって走る。
「助けて、お兄ちゃん……」
早く行かなければ。彼女の元に、早く。
気は急くのに、思い通りに足が動かない。
足がもつれて、俺は無様に地面を転がる。
石畳についた手がぬるりとした何かに触り、赤黒いモノが視界を包む。
目の前に横たわる、女の子が声を上げる。
「痛いよ……」
「ソフィー!」
俺は、血溜まりに横たわるソフィーを助け起こす。
その金髪も、服も、血まみれになっている。
ソフィーは、はあっ、はあっと荒い呼吸を繰り返す。
「ぐっ」と彼女は、息を飲んだ。
「痛いよ。助けて、お兄ちゃん……」
必死に訴える小さな口からも、一筋の血が流れ出す。
その血にむせたのか、彼女はごほっ、とひとつ咳をした。
「ソフィー、しゃべるな。すぐに病院に連れて行ってやるからな」
腕の中の小さな身体から、熱が無くなっていく。
「なんだか寒いよ、お兄ちゃん」
俺は、着ていた上着を脱いで、彼女を覆う。
彼女は、げほっ、げほっと苦しそうに咳き込む。
俺を写すブラウンの瞳から、しだいに光が消えていく。
「ソフィー、しっかりしろ」
俺の呼びかけに、彼女はこくりとうなずいた。
彼女の細い手が、俺の腕を求めてさまよう。
俺は、その手をとろうとした。
しかし。
彼女の手は、すとんと地面に落ちた。
「……ソフィー?」
俺の声に、もう、答えはなかった。
呆然とする俺の目の前に、人影が立つ。
その腕には、鈍く光るナイフがあった。そして、その腕といわず、身体といわず、血糊がべっとりと付いていた。
俺は、さらに目を上げる。
蝋人形のような青白い顔をした、細くて若い女性が、顔をゆがめて薄ら笑いを浮かべている
――人を殺しておいて、笑うのか。
その女の狂気に、心と体が凍りつく。
そのときだった。
「そんなものは、そなたに似合わぬ」
闇の中に、よく通る男の声がした。
途端に女は、無邪気な笑顔を浮かべて、握り締めていた右手を開いた。その手をから落ちた血まみれのナイフが、石畳で軽い金属音を立てた。
褐色の逞しい腕が、女を包み込むように抱きとめる。
「それでよい。さて……」
彫の深いその男の顔の中から、左右で色の違う銀色と褐色の瞳が、俺を冷ややかに見下ろしていた。
「少年よ……」
その口が開き、頭の中に響くような声がした。
「余とここで会ったことは、忘れるがよい」




