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5.3 アルテミシア・アブシンチウム(Layer:1 Main Story)

 

 ステファニーのナイフがひらめいたとき、すでにセシルはその間合いを脱していた。一瞬の攻防が終わると、セシルとステファニーは再び距離を置いて対峙した。

 まるでなにごともなかったかのようだったが、辺りにはただならぬ気配が充満していた。それは、ピカデリー・サーカスの事件のときに出くわした、ざらつくような圧迫感と同じものだった。

 マイケルは、ゆっくりと周囲を観察する。街灯、立木、花壇、芝生の広場。人ひとりが姿を隠せそうな場所は、どこにも見当たらない。しかし、目には見えなくても、すぐ近くにその気配を放つものがいるはずだった。

 セシルも、鋭い視線で周囲の様子を伺っている。

 この場の空気全体が、張りつめていた。二つの巨大なプレッシャーが、ぶつかり合っているような感じがする。

 マイケルは油断なく身構えながら、ゆっくりと立ち上がった。すると、まるでそれを待っていたかのように、低くてよく響く男の声がした。

高貴なる白の君(エーデルワイス)よ、いつまでこのような不毛な戦いを続けるつもりだ」

 どこから聞こえているのか、場所がわからなかった。まるで、この空間のすべてから響いているような気がした。

 セシルが、見えない相手に反論する。

「真打のご登場か。……おまえたちのような存在してはならない者どもを、この世界から消し去るまでだ」

 くっくっという、男の含み笑いが聞こえた。

「異質なものの存在を、許容できないのだな。それは、おまえたちの狭量というものだ。なのに、まるで厄災であるかのように言う。そんな自己中心的な正義感が、どれほどの悲劇を繰りかえさせてきたか。戦いは、何も生み出さない。それが、まだわからないのか」

「おまえごときに、言われる筋合いではないよ。まあ、どのみち、わたしには関係のないことだ」

 セシルは、男の言葉を歯牙にもかけないとばかりにはねつけた。

「ここでそなたと戦うことは、余の本意ではない。このまま立ち去るのなら、今回は見逃すが」

 相手を見下したような男の声が再び響いたとき、セシルの視線が枝振りのいいイングリッシュオークの幹に向けられた。そこにはゆらゆらとした陽炎のようなものが立っていて、茶色い幹の輪郭が歪んで見えていた。それを見止めたセシルの顔に、醒めたような微笑が浮かぶ。

「見逃す、だと? 誰に向かって、ものを言っているのだ。おまえの方こそ、わたしに命乞いでもしたらどうだ」

「あいもかわらず、生意気なことよ。余が本気を出せばどうなるか、そなたも知っておろう」

「姿を隠したままで大きな口を利くおまえも、相変わらず卑怯な男だな。そんなに、わたしが怖いか?」

 セシルの侮辱がエスカレートする。ようやくマイケルにも、その意図がわかってきた。

「余を挑発して、舞台に引きずり出すつもりか。小賢しいことを……。だが、卑怯者呼ばわりされては、余の沽券に関わるな。よかろう、特別の寛恕をもって謁見の栄誉を与えてやる」

 その台詞とともに、陽炎の中央に一筋の光の線が現われた。まるでカーテンが引かれるように光の線が左右に広がって消えると、オークの樹下に悠然とたたずむその男が姿を現した。背の高い精悍な男で、褐色の肌を仕立ての良いゆったりとしたシャツが覆っている。短くてウェーブのきつい金髪に縁取られた彫りの深い顔の中で、シルバーとガーネットのオッドアイが鋭い光を宿していた。

 マイケルは、その男に見覚えがあった。クイーンメアリー・ローズガーデンで出くわした不審者だ。あのときの出来事を思い出して、マイケルは彼の眼差しから視線を逸らす。その先にいたセシルもまた、男から微妙に視線を外しながら、口を開いた。

「ようやく、舞台に主役が揃ったな。遅参とは、ずいぶんと役者振りを上げたじゃないか、デイビッド」

 セシルの言葉にわずかに口角を上げて答えたデイビッドは、ゆっくりとした足取りでステファニーに近づいて、優しげな笑みを彼女に向けた。鬼気迫る形相だったステファニーが、うっとりとした微笑を返す。その手にあるナイフに目をとめたデイビッドは、ちいさく首を振った。

「そんなものは、そなたに似合わぬ」

 無邪気な笑顔で頷いたステファニーは、握り締めていた右手を開いた。その手をから落ちた血まみれのナイフが、小石に当たって鈍い金属音を立てた。

「それでよい。さて……」

 そこで言葉を切ったデイビッドは、マイケルを一瞥したあと、セシルにその視線を向けた。

「エーデルワイスよ、この子は余の大事な娘なのでな。むざむざと、そなたに殺害させるわけにはいかぬのだ。スコットランドヤードのその方も、同じ意見であろう?」

 デイビッドに言われるまでもなく、マイケルにすればステファニーの身柄確保は既定の行動だ。デイビッドが協力的なのであれば、それに越したことはない。

 しかし、マイケルはそれとは別に、妙な既視感を覚えていた。ずっと以前に、どこかでこの男に会ったことがなかったか……。思い出しそうになると、すべてが消えてしまう。なにかが強く邪魔をしているようで、はがゆかった。だが、今はそんなことに囚われている場合ではない。マイケルは、デイビッドと目を合わせないようにしながら返答した。

「当然だ。ステファニーは、無傷で俺に引き渡してもらいたい」

「よかろう。この子は、余が説き伏せて出頭させよう」

 意外なほど穏当なデイビッドの答えに、セシルの苛立った声が重なった。

「そんなことは許さん。出来損ないは、即座に抹殺する」

 吐き捨てるようなセシルの声に、デイビッドはわざとらしく肩をすくめて応えた。

「でなければ、そなたらの犯した大罪が明るみに出るからな」

 あきらかに何かを知っているような口ぶりのデイビッドに、思わずマイケルは問い返していた。

「今のは、どういう意味だ。事件のことで、何か知っているのか」

 デイビッドが、オッドアイをマイケルに向けてきた。問いかけに気をとられていてまともに目を合わせてしまったが、あのときの痺れるような感覚は起きなかった。

「なにも知らずに、その女を警護していたのか。そなたも、おめでたい男だな……」

 ふっと含み笑いをしたデイビッドは、ステファニーをその胸に抱き寄せた。

「この子もそうだが、事件を起こした異種どもは、むしろ被害者なのだ。その脳を破壊したWormwoodは、ローゼンクロイツが作り出したものだからな。そして、Wormwoodの正体は、エーデルワイスよ、そなたのDNAから抽出した変異型Bc12遺伝子であろう。そなたのBc12遺伝子は、転写を繰り返しても劣化せずにWnt3a蛋白質を生成し続け、脳神経細胞を無限に再生させる。だが、その代わりにもう一つの能力である、色素幹細胞のアポトーシス抑制能力を持たない……」

 デイビッドが投げかけた視線の先で、タブリエの青い薔薇に彩られた少女が、ルビーとサファイアの瞳に妖艶な笑みを浮かべていた。丘の斜面を吹き降りてきた風が、そのパールホワイトの髪を揺らす。

高貴なる白(エーデルワイス)という名に相応しい形質だな。だがWormwoodとして抽出された途端に、Bc12遺伝子は掌を返したように、脳神経細胞を破壊するA810-HGP2型異常プリオンを生成しはじめた。そなたのDNAと親和性が高いだろうという理由で被験体にされた異種たちが、不憫でならぬわ。今回も、そして十五年前もな」

 デイビッドが口走った、十五年前という言葉を、マイケルは聞き逃さなかった。そういえば、ハノーヴァー公爵もエミリーも、今回の連続通り魔殺人事件が十五年前の事件と酷似していると言っていた。そして、事件には黒幕がいるとも。だが、デイビッドの言葉が正しければ、その黒幕はエミリーたちローゼンクロイツ騎士団ということになる。

 マイケルにとってそれは衝撃的な内容であったが、張本人のセシルは眉ひとつ動かさずに答えた。

「どこで聞いたか知らないが、わたしやローゼンクロイツの機密情報にずいぶんと詳しいではないか。たしかに、十五年前の実験は失敗した。Wormwoodの扱いについては議論が紛糾したが、殺処分になるはずだった被験体があのような事件を引き起こしたことで、廃棄処分がなされたはずだった。まさかそれが秘匿されていて、あまつさえテロリストどもに盗み出されるとは、想定もしていなかったよ。裏で糸を引いていたのは、おまえだったというわけか」

「Wormwoodは、そなたらの大罪を告発するための証拠品だからな。人類に不老不死という夢を垣間見せることで、そなたらはこの世界で権益を拡大してきた。だがそれは、人類が手にしてはならぬ『禁断の果実』なのだ。人類世界の統治者として、これ以上そなたらの行いを看過することはできぬ」

 二人の会話は、この事件に関わる前のマイケルだったら、理解できないものだっただろう。だが、今は容易に理解できた。トムの科学的なアプローチによって、異種が理論上とはいえ、不老不死を可能とする異常な体質を持っていることはわかっている。そして、Wormwoodという有害物質をめぐる陰謀が、連続通り魔殺人事件の隠された真相の一部であろうことも。そして今、敵だとばかり思っていた人物から、その秘密が明かされようとしている。

 ならば、やるべきことは決まっている。マイケルは即断した。とりあえず二人の会話を引き伸ばし、できるだけ情報と証拠を掴むのだ。そして、スコットランドヤードの増援が駆けつけるまで時間を稼いで、ステファニーの身柄を確保し、セシルとデイビッドの私闘を阻止するのだ。

 現実的な判断にようやくたどり着いたマイケルを置き去りにするように、セシルとデイビッドの口論はヒートアップしていた。

「異種の王よ、言い残すことはそれだけか。ならば、覚悟しろ。すぐに、ハーデスのもとに送ってやる」

「そなたは、いつもそうだな。ロンズヴォーでは殺戮の限りを尽くし、香港では一組の男女のささやかな夢と幸福を問答無用で奪い去り、先日のソールズベリーでは可哀相な異種どもを情け容赦なく皆殺しにした。憎むべき女だが……」

 笑みを浮かべたままで言葉を切ったデイビッドは、ゆったりと落ち着いた口調でセシルに語りかけた。

「エーデルワイスよ、我らが花嫁よ。今からでも遅くない、悔い改めて同胞である我らのもとに戻れ。そなたの力、そなたの血、そのすべてが我らには必要なのだ。高貴なるその身を、なぜ汚す? なにゆえ、下賎な人間どもの味方などするのだ」

 それは、敵に対するものとは思えないほどの穏やかな口調だった。しかし、求愛とも受け取れるデイビッドの勧告は、それを向けられたセシルよりも、マイケルの方を動揺させた。その言葉は、セシルが人間とは一線を画する存在だという前提に基づいて、語られていた。

 それは、今までのセシルの言動からそれとなく感じていたことであり、ついさきほどエミリーから告白されたことでもあった。けれど、マイケルは心の奥底で、まだそれを認めてはいなかった。いや、認めたくなかった。あれは、俺のプロポーズをかわすための、大げさな口実だったに違いない。だから、エミリーがこんな仕事(・・)から開放されれば、あるいは……。

 マイケルの願望とデイビッドの希望を一身に受けたセシルは、しかし嘲笑でそれに応えた。

「笑止な。このわたしが、人間の味方などするものか。わたしの邪魔をする者は、何者であろうと排除する。おまえたちでも人間たちでも、同じことだ」

 わずかなためらいもなくセシルが発したその言葉は、初夏の陽気を払う冷雨のようにマイケルの心を凍りつかせた。

 

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