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5.1 ビューティフル・マーダラー(Layer:2 Side Story)

 

 時計の針は、午後一時を指していた。

 サマースクールの短い講義が終わり、講師が退出すると、クラスに和やかな雰囲気が広がる。

 アリシア・チューリングは、窓際の席に目をやる。そこには、パールホワイトのロングヘアを微風に揺らせる少女が、窓の外に物憂げなオッドアイの視線を投げている姿があった。

 オーストリアから短期留学に来たエリザベート・フォン・フォアエスターライヒとは、このクラスで出会ったその日に仲良くなった。手をつないで歩くようになり、そして熱い思いを告げるのに何日もかからなかった。けれどそれは、エミリーが帰国するまでの期限の切られた恋だった。

「泣かないで、アリシア。いつでも、いちばん綺麗な貴女を、わたしに見せていてね」

 涙を堪えられないアリシアに、エミリーはそう告げた。

 だから、アリシアはいつも笑顔でいようと思った。たとえこの恋が、ひと夏の夢のようなものだとしても。いや、それだからこそ……。

「あーりーしーあっ」

 背中をぽんと叩かれて、アリシアはわれに返る。

 目の前には、黒髪をポニーテールに括った女の子がいて、好奇心の旺盛そうなくりくりとしたブラウンの瞳でアリシアの顔を覗き込んでいた。日本から短期留学に来ている、フジ・カナコだった。

「あれ、元気ないね。……あの日?」

 カナコが口にしたのは、アリシアがイメージしていた礼儀正しい日本人とは違って、遠慮も慎みもないセリフだった。首を振って否定してから、無駄とわかっている忠告をする。

「そういうことをあからさまに言うのは、マナーに反するよ。カナコの国では、どうだか知らないけど」

 カナコは、口を小さくすぼめて抗議する。

「つまんないなぁ、アリシアは。それよりねえ、今日はコヴェント・ガーデンに行こうよ。このまえちらっと見たんだけど、四人組みのパフォーマーがいてね、そのうちの二人、三味線の男の人とフルートの女の人、たぶん日本人だよ。珍しいよね。だから、私、ちょっとお話ししたいの」

「そうね……」

 アリシアは、もういちど窓際の席に視線を投げる。

 そこにエミリーの姿は、すでになかった。

 カナコに引きずられるようにして校門を出ようとしたところで、アリシアはその二人を目撃した。見まごうことのない白い髪の美少女と連れ立っているのは、ムービースターのようなたたずまいの金髪碧眼の若い男だ。向かい合って話をする二人は、近づきがたいほどの圧倒的な存在感を放っている。

「ねえアリシア、あれってエミリーの彼氏かな。なんか映画のワンシーンみたいだね。お似合いだなぁ」

 カナコの言葉が、アリシアの心を打ち据える。

「エミリーっ」

 アリシアの戸惑いなど意に介することもなく、カナコが大きな声で彼女を呼ぶ。

 白い髪が揺れて、アンティークドールのようなエミリーの顔がこちらに向く。アリシアの胸が、どくんと大きく鼓動を打った。

 二人のもとに駆け寄ったカナコは、目を輝かせていた。

「エミリー、もしかして、彼氏?」

「そんなのじゃないのよ、カナコ。この人、刑事さんなの」

 困ったように答えるエミリーに構わず、カナコはエミリーの耳元に口を寄せると、金髪の男に視線を投げながらわざと大きめの声を出した。

「ごまかさなくていいわよ。すごくかっこいい人ね。だけど、ずいぶん年上じゃないの。もしかして、大人の関係ってやつ?」

「だから、ちがうんだって」

 エミリーが、困ったような苦笑を浮かべる。その表情からは、エミリーと男が浅からぬ関係であることがうかがい知れた。

 アリシアは、自分の心に浮かぶ疑惑を懸命に否定する。

 ――そんなことは、ないはずだ。だってエミリーは、私としか……。

「ねえ、これからコヴェント・ガーデンに行かない?」

 カナコが、エミリーの手を取って誘いの言葉をかける。アリシアは、エミリーが応諾することにかすかな期待を寄せた。しかし、エミリーはあっさりと首を横に振った。

「ごめんね、カナコ、アリシア。わたし、今日はちょっと」

 エミリーの答えに、アリシアは落胆する。この男のせいだわ。アリシアは男を睨んだ。

 その視線に気づいたのか、男がアリシアに鋭い視線を投げてきた。濃いブルーの瞳から放たれる眼差しには、それだけで気圧されるほどの迫力があった。

 アリシアは、背筋に鳥肌が立つのを感じて、思わず目を伏せた。なにか、負けたような気がした。

「やっぱりデートか。いいなあ、こんな美男美女のカップルなんて、そうはいないよ」

 カナコは、アリシアの思惑などお構いなく、そんな台詞を吐いている。

「あんまり邪魔しちゃ悪いね。アリシア、今日は二人で行こう」

 勝手にそう締めくくって、カナコはアリシアの手を取った。

「カナコ、アリシア。じゃあ、また明日ね」

 そう告げて二人に手を振ったエミリーは、男に向かって口を開いた。

「ねえ、どうしたの?」

 男は、なぜかぼうっとした様子でエミリーを見ていた。何を思っていたのかはうかがい知れないが、その厳しいまなざしには、わずかな翳りというか憂いのようなものが混じっているように思えた。

「あいかわらず、ダメな人ね。だらしなく鼻の下を伸ばしていないで、さっさとドアを開けなさい」

 アリシアは、エミリーの言葉に胸が締め付けられる。そう、これが私のエミリーだわ。こんな怖い男の人を相手にしても、一歩も引けをとらない。この凛々しさこそ、私が求めている理想の相手なのだ。なのに……。

 男は、ジャガーの高級ハードトップのドアを悠然と開ける。その仕草も、身なりも、エミリーとじゅうぶんに釣り合っていた。

 エミリーは皮のシートに座り、その背もたれにゆったりと身体を預ける。バーバリーチェックのスカートから、彼女の白くて細い足がのぞく。

 アリシアは、数日前にドーチェスター・ホテルのエミリーの部屋で過ごしたときのことを思い出す。こみ上げるせつなさが、アリシアの心のブレーキを外す。エミリーに駆け寄ろうとしたところで、ジャガーは太い排気音を残して走り去った。その後ろ姿が、滲んで見えた。


 カナコとともに出向いたコヴェント・ガーデンに、お目当ての大道芸人たちはいなかった。せめて、噂になっているパフォーマンスでも見られれば良かったのに、今日はほんとうについていない。ウィンドウショッピングをしても、ファーストフードを食べても、よぎるのはエミリーの顔ばかりだった。

 カナコと別れたあと、地下鉄のカムデンタウンからパークウェイを自宅に向って歩きながら、アリシアはエミリーの携帯電話をコールした。しかし、エミリーが電話に出ることはなく、電源が入っていないか電波の届かないところにある、というメッセージだけが空しく繰り返された。

 アリシアは、リージェンツ・パーク・ロードに入ったところで、諦めて電話をバッグにしまった。通りの左手には、プリムローズ・ヒルが薄暗いひろがりを見せていた。思い返せば、エミリーとはじめてデートしたのは、このプリムローズ・ヒルだった。手をつないで、この公園を歩いた五月の爽やかな風の吹く午後を、アリシアは懐かしく思った。まだ、一ヶ月ちょっと前のことなのに……。

 気がつくと、アリシアはプリムローズ・ヒルを歩いていた。夕闇が迫る木立の中には、昼間のような賑わいはなかった。遠く見上げる丘の頂なら、たくさんのカップルがロンドンの夜景を眺めながら仲むつまじく過ごしているのだろうが。

 余所見をしながら歩いていたアリシアは、柔らかな何かにぶつかった。慌てて相手を見ると、上品なスーツを身に着けた、気の強そうな女性だった。長いブロンドの髪からは、シャネルの香りがほのかにした。

「ごめんなさい」

 アリシアが謝ると、女性は冷たい笑みを浮かべた。

「いいのよ。……あら、あなた。可愛らしい子ね」

 笑ったままで、女性の口元が歪む。すうっと伸びたその手が、アリシアの長い黒髪をよけて頬に触れる。柔らかくて、しかし冷たい感触に、アリシアの背すじが寒くなる。

「ねえ、おねえさんといいことして遊ばない?」

「いえ、私は……」

 そう言いかけたアリシアは、左の脇腹に鈍重な衝撃を感じた。

 次の瞬間、激痛が全身を貫いた。その痛みは、今まで経験したことのないほどの圧倒的な暴力でアリシアを支配した。

「うっ……ぁ」

 喉が締め付けられて、声も出なかった。膝が折れて、地面に倒れこむ。

 血に染まってぬらりと光るナイフを手に、恍惚としたような表情を浮かべた女性の顔が、アリシアを見下ろしていた。

「ぐ、うっ」

 体が勝手に痙攣し、膝を抱えるようにして地面をのたうつ。荒い息とともに吐き出されるのは、言葉にならない嗚咽だけだった。意識が、遠くなっていく。瞼に浮かぶのは、白い髪と宝石のようなオッドアイの少女だ。

『泣かないで、アリシア』

 ごめんね、エミリー。こんなに痛いと、私、もう……泣いて、しま……う。

 涙で歪んだ視界が闇に閉ざされ、アリシアはその意識を永遠に手放した。

 

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