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4.5 それぞれの正義(Layer:1 Main Story)

 ほとんど眠れないままで、一夜が明けた。

 ベッドサイドのテーブルには、空になったスコッチの壜と、溶けた氷の水が溜まったグラスがあった。

 昨夜は、行きつけのパブで散々に飲んで、店主の牧師に愚痴をこぼした。それだけでは足りずに、帰宅してからスコッチの封を切った。だが、酒の力を借りても、まともな眠りは得られなかった。

 マイケルは軽い頭痛とともに、重苦しい心と身体を引きずって、エミリーのいるホテルのラウンジに出向いた。

 一昨日から降り続いていた雨は、今朝になってようやく雨脚が弱くなってきた。窓の外に見えるパークレーン通りを歩きすぎる人々も、ほとんどが傘をたたんでいた。

 いつもは入れないクリームと砂糖を入れたコーヒーを、銀のスプーンでかるくかき回す。渦を巻いて溶け合う褐色と白は、やがてすっかり混ざり合って、もとからそうだったかのようにひとつの液体になっていた。

 向かいに座る制服姿のエミリーが、一瞬だけ意外そうな表情を浮かべたあと、すぐに知らん顔をしてクロワッサンに手を伸ばした。

 エミリーの手は、いつ見ても陶磁器の人形のように華奢で美しい。労働や、ましてや戦闘などとは、もっとも縁遠いように見える。だが、その手は数多の敵を切り裂き、あるいは串刺しにし、その血にまみれてきたのだ。

 それは犯罪まがいの行為だったが、エミリーは自分に課せられた義務でありなすべきことだと、堂々と言いきった。俺がどれほど非難しようとも、一歩たりとも引くことをしなかった。その強さは、今のマイケルには羨ましかった。俺にも同じように、課せられた義務があり、なすべきことはあったのだ。少なくとも昨夜までは、自身が信奉してきた正義を誇りにしてきたのだ。

 ――正義、か。

 どうしてそんなことを思いついたのか、マイケルは無意識のうちにエミリーに問いかけていた。

「なあ、エミリー。ひとつ質問していいか」

 食べかけのクロワッサンを絵皿の上に置いたエミリーは、ちょっと未練がましい視線を投げてから、いいわよと答えた。

「正義って、なんだと思う?」

 エミリーが、左手の人差し指を唇に当てて、首をかしげる。マイケルは、それには構わず言葉を続けた。

「俺は、正義のために生きていこうと思ってるんだ。だから、警察官になった」

 小さくうなずいたエミリーは、「それで?」と続きを促した。

「俺は、弱いものを守ること、たとえば市民の安全を守ることは、絶対の正義だと思ってた」

「……過去形、なのね」

「昨日、総監に上申したんだ。市民の安全を脅かす人外の敵がいる。その敵から市民を守るのは、俺たち警察の責務じゃないのかって」

 エミリーが、盛大にため息をつく。

「ほんとうに、余計なことばかりして。でも、その様子だと、まともにとりあってもらえなかったみたいね」

「おまえの言うとおりだったさ。それだけなら、まだいいんだが……」

 マイケルは言葉を切った。さすがに、その先を口にするのは気が引けた。

「どうしたの」

 エミリーに促されて、マイケルは答えた。

「おまえのことを、魔物だと言っていた。魔物の始末は、魔物にさせておけばいいって……。俺の信じていた正義は、ひと皮剥けば、その程度のものだったのさ」

 意外なことに、エミリーは顔色ひとつ変えなかった。それでも、マイケルは心苦しかった。

「すまない。かわりに謝罪するよ」

「いいわ。そんなの、もう慣れているから」

 エミリーがそっけなく言う。しかし、その言葉の持つ意味は重かった。それは、そうなるまでに彼女がどれだけの心ない言葉に傷ついてきたのかを、如実に物語っているような気がした。

「正義について、だったわね……」

 気まずくなりかけた空気を、エミリーの言葉が変えた。

「人が社会という集団で生きていくためには、一定のルールが必要だわ。社会を構成する比較的多数の人が、快適に生存しうるルール、それが正義というものだと思う。もちろん、それは法律という言葉とは、同義ではないけれどね」

 エミリーの答えに、マイケルはしばし言葉を失う。

「そんなに曖昧なものなのか」

「ええ。だから、時代や場所によって、そのあり方は異なっていたわ……」

 紅茶のカップを手にしたエミリーが、少し遠い目をする。

「ただひとつ共通していたのは、それが常に多数の側の論理だったということよ。少数のものは、たとえどんなに優れていたとしても、多数のものによって駆逐され排斥されるしかなかったのよ」

 マイケルは混乱する。エミリーの言うことも、わからないではない。しかし、それは彼の求めていたものと、根本的に違っていた。

「しかし、人の生命や権利や財産を守る行為は、絶対的な正義だと思わないか?」

「その行為によって、相手の生命や権利や財産が侵害されるとしたら、それでも、その行為は絶対的な正義だといえるのかしら」

 エミリーは、まるでマイケルの主張に敢えて反論しているようだった。なぜだろうと思いながら、マイケルは彼女に問いかける。

「人を助けることが、正義じゃないというのか」

「そんなことを言うつもりはないわ。ただ、わたしは、ものごとには必ず相対的とか多面的と言われる要素があると思っているの。例えば、自転車に乗る練習をしている子供がいるとするわね。転ぶ前にその子を支えてあげたら、怪我をしなくて済んだという点では、その子のためになったのかもしれない。でも、その子は、転んだらどうなるかということを学ぶ機会を失くしたとも言えるわ。どちらが、ほんとうにその子のためになるのかしらね」

 マイケルには、言い返す言葉がなかった。

 相対的な要素、多面的な要素、か。いつか、エミリーが言っていた言葉を思い出す。『自分だけの小さな価値観でものごとを決め付けるな』というのは、そういう意味もあったんだな。

「たしかに、その通りかもしれないな」

 マイケルの胸に、エミリーの言葉がすんなりと落ちてきた。思えば、今日は最初からエミリーと対等な会話ではなかった。そして、当然の結果として、一方的に言い込められた。だというのに、悔しい気持ちは起きなかった。

 なぜだろうと思いかけて、マイケルは気がついた。エミリーは、マイケルの言葉をすべて正面から受け止め、真剣に答えを返してくれたのだ。いや、今日だけではない。エミリーが俺の言葉から逃げたことなど、一度もなかったではないか。

 マイケルは、今までの自分がどれほどエミリーを誤解していたかを思い知った。

 クロワッサンの最後の欠片を口に入れたエミリーが、ナプキンで口元を拭う。淡いピンクのルージュを引いた唇が、電灯の光を受けて艶を帯びている。真っ白なブラウスのVゾーンを彩るチェックのネクタイをなでるように、肩口からパールホワイトの髪がさらさらと流れ落ちる。ほんとうに美しくて、賢くて、そして強い娘だ。マイケルは、エミリーの存在が眩くて目を細める。

 エミリーは、髪をふわりと背中に流してから、顔を上げた。軽く伏せていた瞼が上がり、すこし潤んだルビーとサファイアの双眸がきらりと煌く。

「あら、もう終わりなの? つまらない。そもそも、正義なんていう主観的な概念を、客観的に定義しようってことが間違いなのよ。考え方の基本もできていないくせに、大上段に構えるからわきも甘くなる。そこを突かれてちょっと反論されたくらいでその様じゃ、お話にならないわ。わたしと議論するには、百年早かったわね」

 エミリーは、そう言って白磁のティーカップを手に取ると、口元に笑みを浮かべた。

 ――また、やられた。この、生意気な小娘め。

 マイケルの心の中で、消えかかっていた火が一気に勢いを取り戻した。頭痛も初めからなかったかのように消え去り、重苦しかった気分も吹き飛んだ。一瞬でも感心した俺が馬鹿だった。マイケルは、悔しまぎれにエミリーに聞き返す。

「そう言うおまえには、正義や信条はないのかよ」

 まるでそれも見透かしていたかのように、エミリーがふふっと笑う。

「さあ、どうかしら。でも、そんな面倒なものは持ちたくはないわね。邪魔なだけだろうし」

 ほんとうにそう思っているのか、だれかの受け売りなのか。それはわからないが、見かけの幼さには不似合いな言葉に、マイケルはため息をつく。

「年寄りみたいなこと言うんだな。おまえ、何歳だよ」

 途端に、エミリーの目が険しくなる。

 あっ、と思った瞬間に、マイケルの足の甲に激痛が走った。

「ロンドンの警官って、どうしてレディの年齢にばかり興味を持つのかしら。今度言ったら、承知しないわよ」

 エミリーが、マイケルをにらみつける。しかし、そのオッドアイが優しげに笑っていることに、マイケルは気がついた。

 窓の外の雨は、すっかり上がっていた。

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