4.2 パワー・ランチ(Layer:1 Main Story)
エミリーを学校に送り届けたマイケルは、いったんスコットランドヤードのオフィスに戻った。
今朝、あの少女から聞かされた話がずっと気にかかっていたが、理解できないことにいつまでもこだわっているより、現実の作業を進めるべきだと判断する。
マイケルは、陸軍第二連隊に電話を入れ、ゲイツ伍長たちへの面会と事情聴取についての申し入れをした。幸いなことに、ゲイツ伍長の上官は話せる人物で、ある事件の証人として聴取をしたいと言うマイケルの言葉を信用してくれた。連隊本部の了承を得て、明日には返事をもらうという約束で、マイケルはいったん電話を切った。
いくつかの手続きやら事務処理を済ませ、昼食をとるために席を立とうとしたところで、机の上の内線電話が鳴った。発信元は、見覚えのある科学捜査研究所の番号だった。
「マイケルか。例の件、結果が出たぜ。これから昼飯でもどうだ」
電話の向こうから、なれなれしい男の声がする。
「わかった、トム。じゃあ、十分後にフェザーズで会おう」
通用口を出ると、雨のせいか少し肌寒さを感じた。
スコットランドヤードのオフィスビルは、ヴィクトリア・ストリートとブロードウェイに囲まれた三角形の土地に建っていて、とくにブロードウェイ側は、地下鉄のセントジェームスパーク駅から近いこともあって、いつも人通りは多い。一車線ほどの幅しかないブロードウェイとキャックストンストリートの交差点には、人と車がごったがえしていた。
正面にはセントアーミンズホテルの重厚な赤レンガの建物が、のしかかってくるようにそびえ、左手には交差点の曲がり角に合わせて丸く湾曲したポストオフィスの格子状の窓ガラスが雨粒に濡れていた。
全面ガラス張りの外観をもつスコットランドヤードのスマートな庁舎を見上げたあと、マイケルはブロードウェイを歩いてセントジェームスパーク駅方向に向った。
行きかう人々をかわしながら、舗道を歩くこと二分ほどで、赤レンガと白い漆喰のビルの一階にあるパブ・フェザーズに着いた。黒づくめの列柱を配した庇には、緑の植物になかば隠れるように「THE FEATHERS」という金文字が見えた。
カウンターでコーヒーと、チキンとベーコンのサンドイッチを買い、入口から一番遠くにある席を確保する。フェザーズは、ニコルソンのペールエール・ビールが有名な店だが、さすがに勤務中の昼休みに飲むのは憚られた。
アンティークなスタンドチェアに腰掛け、六十センチ四方ほどの小ぶりなテーブルに肘をついて、ディープブラウンのシックな壁一面に飾られた写真の額を眺める。昼食時だが、付近にはカジュアルなカフェも多いので、店内は客も少なく落ち着いていた。
やがて、無精ひげを生やし、ラフなスラックス姿の男が、コーラとサンドイッチの載ったトレイを片手にして現れた。
「よう」
男は片手を挙げると、マイケルの向かいの席に座った。
「無理言って悪かったな、トム」
「なあに、同期のよしみってやつさ。パブリックスクールのときは、ずいぶん世話になったしな。ところで……」
トムは、コーラをひとくち飲むと、急に険しい目つきになった。それまでのだらしない雰囲気は消えて、科学者らしい精悍な表情がその顔に浮かぶ。
「あの検体、いったい、どこで手に入れたんだ」
マイケルは、エミリーが倒した相手からこっそり手に入れた血液と髪の毛の分析を、その日のうちに科学捜査研究所のトムに依頼していた。もちろん、正規のルートは通していない。彼らの上司にも、内密のことだった。
「それは言えない。捜査上の秘密だ」
「ふん。とんでもない物を、持ってきたな。久しぶりに、血が騒いだぜ。ただし、休日返上と深夜残業での突貫作業だからな、詰めが甘いのは大目に見ろよ」
「それで、どうなんだ」
「白人女性の毛髪で、推定年齢は三〇台前半。最初は、そう思った。だが……」
トムは、辺りを見回してから、声をひそめた。
「ボンクラな課員ならともかく、このトム・バーナード・リィの目はごまかせないぞ。顕微鏡では人間の髪の毛にしか見えないが、化学検査で血液型が出ないし、DNA検査では解析不能だった。考えられないことだが、DNAの塩基配列が明らかに人間と違うんだ」
「どういうことだ」
トムは、コーラをもう一口飲むと、咳払いをしてマイケルに顔を近づけた。耳を貸せ、ということらしい。
「あの毛髪の持ち主だがな、生物学的に言えば……人間ではありえない。DNAレベルであの違いがあるんじゃ、ゲノム解析をやったら何が出てくるか見当もつかん。ちなみに、血痕から採取したDNAでも、同じ結果が出た」
口元を手で隠しながらそう囁いたトムは、椅子の背にもたれて腕を組んだ。肥満気味のトムの体重を受けたスタンドチェアが、軋んだ音を立てた。
「そんなはずないだろう」
マイケルの問いに、トムは軽くうなづきながら考え込む。
「そう、そんなはずはないんだ。だが、あの検体のDNAは、それ以外にもいろいろとおかしなことが多い。たとえば、複製してもまったく劣化しないとかな」
そう話すトムの眉間に、どんどん皺が寄っていく。
「書類のコピーを繰り返せば文字がぼやけるのと同じで、DNAの情報も細胞が分裂するときに少しずつ劣化するんだ。ある程度までは自己修復できるんだが、限界を超えるとその末路は、有害な細胞になって外科医に摘出されるか、自殺して免疫細胞の餌食になるかだ。だから、DNAにはコピーできる回数に制限があって、その回数を使い切ったらもうコピーされないようになってる。ところが、あの検体のDNAには、そういう制限がないんだ。そのうえ、ミトコンドリアが強烈な機能を持っているようで、代謝の速度が普通の細胞の何倍も速いうえに、細胞を弱らせる活性酸素の発生がとても少ない。この意味が、わかるか」
ハイスクールの生物学で習ったような話だったが、その知識を体系的に習得していないマイケルには、とうてい理解できることではなかった。黙って首を振ったマイケルに、トムは真剣な表情を崩さずに続けた。
「不老不死だよ。夢物語にしか過ぎない話なんだが、遺伝情報が劣化せず、短期間でほぼ無制限に複製されるDNAを持つ細胞で構成された肉体なら、理論的には可能だ」
言葉を切ったトムは、コーラのグラスを手に取った。
「まあ、そんな肉体を維持するには、相当のエネルギーが要るからな。普段から、さぞ大食いなことだろうよ。それに、脳神経細胞は代謝しないから、身体だけ長生きしても、脳の方が先に寿命を迎えてしまうがな。だが、問題なのは、なぜそんなものが存在するのかということだ。あれが、シャーレで培養されたものなら、まあ、そんな研究が進んでいるのか、くらいの話なんだがな。女の毛髪だろ、あれ。持ち主は、いまどうしてるんだよ」
そう言って、トムはもう一口、コーラを啜る。
「悪いが、それは話せないんだ。だが、もし、そういう人間がいるとしたら、どういうことだと思う?」
「そうだな、無理やりな解釈だが、突然変異か、あるいは遺伝子操作かだな」
遺伝子操作という言葉が、マイケルの耳に残った。
「なんだって」
「遺伝子組み換えってやつだよ。大豆やトウモロコシで、よくやってるだろ。こいつに入っているトマトだって、遺伝子を組み替えてあるから、時間がたっても実がグズグズにならなくて美味いんだぜ。技術的には、それと同じレベルの話さ。もっとも、DNAなんかいじったら、人間とはいえないものになっちまうからな。人体実験なら傷害罪だろうし、そうでなくても、生命の多様性への悪影響を防止するカルタヘナ議定書違反だな。どっちみち、犯罪行為さ」
トムの言葉を聞きながら、待てよ、とマイケルは今更のように気づく。今朝、あの少女はなんと言っていた?
たしか、DNAがどうのとか、進化がどうのとか、誰かの実験がどうのとか、そんなことを言っていたはずだ。そしてマイケルは、ローゼンクロイツ騎士団が、ウイルスや遺伝病関連の大規模な研究施設を持っていたことを思い出す。まさか、あいつらDNA操作の人体実験をやっているんじゃないだろうな。
トムはコーラのグラスをトレイに置いて、言葉を継いだ。
「それから、そいつな、変異性クロイツフェルトヤコブ病を患っている可能性があるぞ」
思いを巡らせていたマイケルは、トムの言葉を聞き逃してしまっていた。
「クロワ……なんだって?」
「クロイツフェルトヤコブ病。BSEのことさ。血中から、多量のミスフォールド型プリオンタンパク質が見つかった。とにかく、あの検体はいろいろとやばいぜ。どうする」
マイケルは、残りのコーヒーを飲み干した。苦味が、口に残った。
「検体と資料は、全部、俺に返してくれればいい。おまえに迷惑はかけないよ。それはそれとして、もうひとつ教えてくれないか」
マイケルは、ふと思いついた質問を、専門家に投げてみた。
「こうやってさ、相手に触れずに、素手で人を斬り殺すことってできるのか」
マイケルは、エミリーがやったように、掌を水平にして振って見せた。
「念のために聞いておくが、それも、捜査上の秘密とやらに属する事柄なのか」
「ああ、そうだ」
「無理だな」
トムは、一言で片付けた。
「ちなみに、そいつの手は、俺より細いし、小さい」
「余計に、無理だ」
今度は、二言で済んだ。
「さらに言うと、そいつ、女の子」
女の子、という言葉にトムの顔つきが緩む。
「また彼女を変えたのか、あいかわらずだなマイケル。今年に入ってから何人目だ? で、かわいいのか、その子は」
「そんなんじゃない。まあ、見た目だけは、かなりかわいいけど」
トムは、伸ばしかけた鼻の下を元に戻すと、まじめに答えた。
「それでも、無理だ。詳しい説明、いるか?」
長くなりそうだと直感したマイケルは、トムに釘を刺す。
「手短に頼む」
トムは、少し首をひねったあと、口を開いた。
「手を触れずにとなると、まず考えられるのは、真空状態を作り出すことだ。だが、手の動きだけで真空を作り出すなんてことは無理だ。たとえできても、皮膚の表面をちょっと切るくらいが関の山だし、おまけにやった方もけがすることになる。あとは、衝撃波をぶつけることだが、これはさらに難しいし、相手を切るんじゃなくて粉砕してしまう。骨も筋肉も、ぐちゃぐちゃになるだろうな」
説明しおえたトムは、トマトサンドにかぶりつく。その姿を見て、マイケルは思う。どうして俺の周りには、デリカシーの欠片もないやつらが集まってくるんだろう。
「エネルギーがどうのとか、粒子の振動がどうのとかって話と、なんか関係するか」
マイケルは、エミリーの話の半分も記憶していないことに、自分であきれていた。
中途半端な話を持ちかけられたトムも、困惑している。
「なにを言ってるんだ?」
「いや、もういい。いろいろすまなかったな。近いうちに、飲みに行こうぜ。俺のおごりだ」
マイケルは、そう言って席を立った。
「その子も連れて来いよ。それでチャラにしてやる」
トムは、にやりと笑って、マイケルに手を振る。
「あいつは、だめだ。他の子を紹介してやるよ」
だらしない男に戻った悪友に手を振り返して、マイケルは店を出た。どんよりとした暗灰色の雨雲からは、小粒の雨が降り続いていた。
マイケルは、左腕にはめたスピードマスターを見る。そろそろ、エミリーを迎えにいく時刻だった。




