最終章 帷(とばり) 第二部 磔
降りてくる寒気で目が覚めると、呼応したように夕焼けの残り火を吸い、降りてくる群青の空が見えた。仰向けに倒れていたのと、姿勢が悪かったのか、ふしぶしが痛んだ。
そうだ、外でぶっ倒れているということは、さっきまで零士とやりあっていたんだ。自分の血が黒く固まって、動くと服がぱりぱりと音を立てた。ぼやけた頭に鈍痛がずっと響いている。
止血もしなくて、よく生きていたものだ。だが、起き上がって歩くとなったら、凍った地面に足を取られて用意ではない。待てよ。アスファルトを覆う氷が溶けていないということは、悪七はまだ、無事なのではないだろうか? 夜は静かなもので、警察が着ていてもおかしくないというのに。
人々の氷の彫像はそのままだ。外灯も消えている。ビル群も非常灯を残してほかは、消えている。町は凍ったまま、世界は終わりを告げたか。だとしたら、俺たちはやってのけたのだ。
吐く息は白く、冬が、俺達の季節が続いている。俺達二人だけになったか? 音もしない。車のエンジン音もしないと、都会は山や、森のように静まるのか。悪七に詳細を確かめるまでは、安心ならなかった。流れてきた雲は、昼とは打って変わって、黒ずんで重く空を低くして広がっている。これでは、流星群も見えない。
「カム!」
カムの気配がない。完全にいなくなっている。死んだか? そんな馬鹿な! 俺の願望が消えるわけがない。
俺は、まだ隠し持っていた予備のナイフで指を切って流れた血で、あてもなく足元を濡らしてカムを釣ろうとしたが、もう役に立たない。
いつだって、背中や腕にまとわりつく、あの爬虫類が這う感覚、あれがないといけない。俺はなりふり構わず叫んだ。カムはいない。狩りもなしだ。復讐も、殺人もなしだ。俺は悪七にこのままでは見放される。いや悪七も救えない。
くそ、この世界が、まだ完全に終わっていないからだ。なんでもいい、カムでもなんでもいい。憎しみはここにあるぞ!
「何でも憑け! 憎悪ならここにある」
今更気づいたが、俺の血はまだ、滴っている部分もあるようだ。だが、それがどこから出血しているのかは、もう確かめるのも面倒だった。タワーの電灯は点いている。
いや、そこが悪七の城というわけだから、当然だ。息を整えて、改めて雲に突き刺さるタワーを見上げる。足取りは、口元の笑みについて来ないまま、滑ったり、ぐずったりしている。
ようやくタワーの入り口に着いた。ここまで誰にも会わなかった。中は生温かい。エレベーターで展望階行のエレベーターから、冷機が降りてくる。上層部は冷え込んでいるようだ。
俺が零士を止められなかったから、悪七が直接手を下したか? 何にしろ、大きくやりあったに違いない。悪七もまだ命を持っているかどうか。
後ろから、水の跳ねる音がした。気のせいか。いや、あながち気のせいじゃないかもしれない。カムの黒い水たまりがついてきている。まちがいなくカムだ。零士にやられるわけがない。いつも与えているのは、血じゃない。憎しみだからだ。
カムは返事も何もせず、ずっと水たまりとなってついてくる。言葉ももう必要ない。姿を失った今、分かりあえる。
エレベーターがいくら高速でも、耳が気圧の変化でおかしくなっても、焦った脈の音が早鐘を打っている。展望階に着くまでさすがに貧血で座り込んで待った。エレベーターが開くと白々しい蛍光灯に目を傷めた。俺は夜の静けさが好きだっていうのに。悪七もきっとそうだろう。
遅かった。悪七は氷漬けになっていた。展望台から外を見渡す窓の一歩手前で、氷の柱になっていた。あれだけの厄災を放ち、命が無事であるはずがなかった。
俺は茫然と静かな寝息でも聞こえてきそうな悪七を見上げた。一つの塔のように高い位置に留まるあたり、よほど人を見下ろすのが好きと見えて、なんだか、悪七らしい最期で少し笑えた。
だが、見下ろすなら窓を向いていないといけないのに、悪七はエレベーター、つまり、俺が上がってくる方を向いたまま死んでいた。不思議と涙は乾ききって流れ落ちもしなかったが、俺は激しく内心、抵抗していた。
脳裏に走り書きされるのは「ヒトリニナッタ」という単語で、俺一人でこの後始末をどうつければいいのか、途方にくれるよりも、悪七のいないままで終焉はやってこない気がした。俺は終焉にも取り残されたんだ。せめて零士に殺されていればよかったんだ。俺なんて。
本当に零士が憎らしい。悪七の最高のフィナーレに、俺だけが無様に生き残ってしまうなんて、何て恥さらしで、なんて、まぬけなんだ。俺の指針は折れたのか。
いや、なんとかして悪七が本当に本当に旅立つ前に救急車に代わる何かで、呼び戻せないのだろうか。奥歯の先で、生唾が苦い味を垂らして、喉につっかかりながら落ちていく。鼻から氷の冷気が、かさかさと肺に入り込む。
狐のエスが現れた。悪七の氷に近づき、割ろうとしている!
「やめろ!」
狐を止めたのは、カムだった。ただし狐もろとも、悪七にもカムの長い槍状の針は貫通していた。ああ、これでもう本当におしまいだ。やっぱり悪七に永遠なんてない。
そこで幻覚は途切れた。カムは、狂気のミカエリだ、代償としてとうとう俺にも幻を見せてきた。いや、それとも俺が、望んだことなのかもしれない。悪七が氷づけのほうがいくらか、ましだったからだ。狐はどこにもいない。街中の氷は、とうの昔に溶けきってしまっている。
もちろん、タワーの中も。悪七の氷は、冷凍保存するような棺ですらない。実際の悪七は、逆さまになって張りつけになっていた。
赤く染まった有刺鉄線状の氷が、両足に巻きついて天井から、吊るされて、長い髪が逆さまになって揺れている。顎もだらしなく、伸びきって、顔の半分がえぐられて、剥がれた残りの皮膚が、額にかかっている。
えぐられた目の穴から脳髄みたいな灰色のかすが、こびりついている。俺の方を見ている唯一残っていた眼球は、魂を剥奪された希有なガラス玉で、死者よりも多くのものを語ろうとして、口封じされたままだ。
逆さまの張りつけとは、キリストの真似にしては、奇抜だし、なにより趣味も悪い。一番無気味なのは、身体は、火をつけられたように赤らんでいて、服は、凍っていて死因は凍傷のようだったのに、抵抗した形跡がまるでないこと。
震えもせず、逆さまになっても指先はそろえられて上をむいている。悪七の氷も溶けはじめて、水が顎から、鼻へと伝っている。乱れた髪は、ばらばらと水音を立てている。カム。俺はどうすればいい。
俺の手を握った柔らかい感触。今までカムの手は冷たい爬虫類でしかなかった。今更体温を有して弁解のつもりか。血の報酬なんてやる義理もない。お前も、幻覚とはいえ俺の最大のものを壊した。ぎゅっと握り返す感触は、人の指のそれだった。どういうつもりなのか、俺は憤ってカムに叫んだ。
「何だよ!」
「リョウ」
悪七の声が聞こえた。振り返ってもカムしかいない。カムをまじまじと見つめていると、その白い歯茎から、はにかんだ笑い声が漏れた。まさか――。身体は、黒いままだが、指は人の指になっている。
「もう分かってるんでしょ」
日陰から出てきたようにカムの姿が真っ黒なかたまりから、人間悪七に変わった。度肝を抜かれたと同時に、少しばかり望んでいたことが叶ってよかったと思った。
「生きてたのか」
「リョウ、そこまで馬鹿じゃないでしょ。ちゃんとリョウは俺の死体を確認してる」
そう、悪七の死体はずっとそこに無残に揚げられた魚みたいに垂れ下がったままだ。死体は黒い髪のままだが、今カムから生まれ変わった悪七は元の栗色の髪に戻っている。
「俺はミカエリになりたかったんだよ」
悪七そうだったのか。そもそもそうだったかもしれない。俺の頭の中で、違う、違うそうじゃないと首を振った。俺は、恐れた。悪七が本当に死んでどこか黄泉とか輪廻とか訳のわからない循環をたどるのを。命はサイクルなんかしていない。俺達は一回きりの命だからこそ、危機感を持って復讐していた。
それなのに、悪七だけ先に死なせるわけがない。俺達は一回きりの人生を永遠に繰り返し続けたい。
「悪七、悪い。俺、少しミカエリを使ったのかもしれない。無意識に」
うまく言葉で説明できないのが辛かった。悪七の起こした脱線事故が悪七の無意識上の願いで起きたことであるように、今の俺にも同じことが起きたに違いなかった。
「俺は悪七を救いたいって願わなかったんだ。悪七が永遠に存在することを願ったんだ」
カム、いや悪七はいつも以上に無表情で穏やかに微笑んだ。
「俺も死ぬことは分かってたし、リョウがこう望むことも何となくわかってたよ。これからは、もうリョウは何も失うものはない。もちろん、俺も死ぬことはない」
悪七はそう言いつつも既に人ではない超越した存在であることは、すぐに分かった。目の奥の怪しい光は血を欲するだけではなさそうだ。こいつは俺の精神だって喰いつくすかもしれない。だけど、俺はそれでもいいし、悪七がいる崩壊した世界の方が居心地がいい。
「でも、カムはどこ行ったんだろうな。死んだか」
もうカムなんてどうでもよかった。あんなまがいもの、最初からペットでもなんでもない。
「カムは俺だよ。ミカエリの姿と中身はイコールじゃないって分かったでしょ? 今の俺もそう。ミカエリは融合する。ミカエリをたくさん集めて一つにすると、より優秀なミカエリになる。例えば、俺の狐も、もう俺と同じものになったよ」
「あれは、結局何だったんだ。見かけと中身がイコールじゃないって?」
「狐は父だよ」
「狐は生まれたときからいっしょにいるんじゃないのか」
「最初は狐だったよ。でも」
悪七の周りにあのゲームの参加者が、ふたば、執行、朝月、川口、そしてひいらがほの暗く光りながら現れ歩み寄った。悪七の中に全て吸い込まれて消えた。悪七という上位のミカエリになってしまったのか。
「俺は父よりも、狐の方が父だと思ってたし、父の目を奪ってからは、父の恨みも買い父もミカエリになりやすい体質になったから、殺しちゃったんだ。でも学生生活とかするなら、保護者がいた方が何かと便利だし、ミカエリに父を演じさせてたんだ」
ほんとここまでくると愉快な奴だ。家族や親戚なんていなくても好きなように生きていけるじゃないか。羨ましい限りだ。
「なあ、一つ聞いてもいいか。俺は何を払う? もう血はごめんだ。カムより話が通じそうだから助かるけどな」
「まさか、俺はリョウからは何も取らないよ」
ミカエリになりたかったってさっき言ってたよな。
「強いて言うなら、ゲームを続けようよ。リョウは俺を永遠の存在に望んだ。ってことはつきあってくれるってことだよね?」
俺の身体が凍り始めた。何をする気か? だが、そう考えたときには息が詰まった。俺は死ぬ。氷漬けになって死ぬ。遠くでヘリコプターが飛んでいるのが見える。なんだよ。世界は滅んでなんかいない。




