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第九章 願望    第三部 決着

 タワーは侵入してくれと言わんばかりに閑散としていた。観光客も、エレベーターの案内の女性も全て氷の彫像と化していた。といっても電気は点いているし、エレベーターも動いた。エレベーターのわずかな振動だけが耳にじんわりと響く。ライはこの先で待っている。


 扉が開くと冷気が吹き込み、温度がぐっと下がった。ミカエリとライが窓の外を見下ろしていた。振り向きもせず、どうでもいいようなことをあいさつ代わりに話し出す。

「ここからだとよく見えるんだ。零士にも見せてあげたくて」


 今では街中が氷河期の到来を告げていた。ビル群は鋭利なゴシック建築さながらにごつごつと空に突き上がり、川は荒々しく凍りつき、駒のように点在する人の彫像が、虚しく佇んでいる。


「これがいつも俺が見ている世界。やっと吊り合ったよ。俺はとにかく秩序も戒律もない世界に今の世界を引き下げたかったんだよ」


 窓に映るライの少し悲しげな微笑が、困惑したように歪んで、静かに自嘲気味にはにかんだ。


「綺麗すぎるけどね。本当はもっと焼かれた大地が黒ずんでいる方がいいんだけど、ミカエリは未だにひねくれてるから、思い通りにならない。それとも俺が望んでいることなのかな」


 零士には世界規模のことのようには思えなかった。現に凍りづいているのは都心だけで日本全国ではないのではないか? ここから見える世界とやら、ライの思い描く何かとどう重なろうが知ったことではない。


「もてあそんでええもんとちゃう。人の命は」


 ライにはこういうことを言っても無意味だとは重々承知しているが、遠まわしな言い方はできない。ライは、やっとこちらを振り返ったが、それは今の言葉に対する応答ではなく、無感動なまま、漠然とした事実を問う。


「ねえ。リョウに何したの? 俺の本当の友達かもしれないのに」


「そんなことかいな。殺したりせえへんわ。あんさんとちゃうわ。あいつはあんさんのこと友達や思ってんで、あれでも一応。それやのに、あんさんはちゃうんかいな?」


「さぁ。信用はしてるよ。友達って枠にはまらない友達もありなんじゃないかな? 例えば、今の俺と君の関係は何?」


 零士はにんまり笑った。


「敵やな。あんさんの方がそう思ってんやろ?」

 ふっと息を漏らしてライも微笑む。ズボンのポケットに手を突っ込んで少し上を見上げる。


「もし、うちが狩集リョウに殺されとったら――まあ、負けへんけど。どうするつもりやったんや? あいつも殺すつもりやったんか?」


「リョウなら分かってるよ。零士に手を出せば俺に殺されるかもしれないことぐらい。でも、俺を守りたかったんだ、ミカエリから。だから見守ってた」

 零士は鼻を鳴らして苛立たしげに言い放つ。


「ほんま、うちがええ人間でよかったな。あんなやつ殺してもええんやで、正当防衛で。あんさんが何にも手出さんと見守ってる間にな」


「零士はそんなことしないよ」

「うちはあんたの知ってる昔の零士とちゃう。そんなん分かってんやろ」


 ライはこれまで見たこともないような感慨深い顔で、深くため息をつきたいといった様子だったが、言葉を選ぶように一瞬、目をそらせたように思えた。


「君には何も期待してないよ。ただ、零士の皮を被った、まがいもの。そう、ずっと騙されてたよ。まさか、君がミカエリだったなんて」


 はぁ? 何言うてんやこいつ。

「きみにはもう用がないよ。もういいでしょ、姉さん」

 完全に無視された挙句、ライは輪千真奈美を見つめている。その表情はどこか寂しげだ。


「よくミカエリにここまで個性を持たせられたね。その代り、姉さんが身体を失ったんだね。声といい。何もかも。何で生きてるならもっと早く現れてくれなかったの?」


 輪千真奈美は当然、答えない。答えられるはずがない。

「ちょい待ちーや。何の話してんや。うちは人間やで?」

 ライは人の話など聞いていない。


「姉さんが自殺したのは、零士のせいじゃないんでしょ。そんなの分かってたよ。父さんだよね。


 原因は、ミカエリばかりいる俺達の家が嫌だった。いや、ミカエリの正体を知ったときから姉さんは、生き物を殺さないでと懇願してた」


 ひたすら無表情な真奈美に、幾分怒りも込められて非難するように響いた。

「だから、どういうこっちゃねんな」


 ライの鋭い視線が向けられた。ここまで怒りあらわに睨みつけられたことは生前の記憶にもない。


「自分でももう分かってるくせに。君がミカエリで、輪千真奈美の姿をした姉さんが人間だったってこどだよ。姉さんも、もう人としての原型をとどめてないけどね。それが君を作った代償だから」

「うちが、作られたんわ、あんさんにやで?」


 頭がこんがらがってきた。

「はじめから説明した方がよさそうだね」

 ライは口元端を歪めて、自嘲気味にため息交じりで呟いた。

「ミカエリって原材料は何だと思う?」

 ちょい待ってーな。ミカエリも作ったりできるんかいな。


「魂とかそんなんちゃうか?」

「大方間違ってないよ。でもね、ミカエリって意図的に殺さないと生まれないんだ。なぜかって、怨念がないと形作られないから」

「つまり幽霊っちゅーことやん」


「ちがうよ。幽霊は使役したりできない。恨みがないから。恨みがあるミカエリは、俺達と契約を結ぶ」

「そんな契約書なんて、うち書いた覚えも、真奈美に書かせた覚えもないわ」

 我慢ならないという口調でライは制した。


「輪千じゃない。輪千真奈美の姿を借りた俺の姉さんだよ。君はミカエリの記憶そのものを変えられている。ミカエリは姉の願いを叶えるのが仕事だから、君は姉さんの望む姿になった。姉さんは零士が俺の暴走を止めてくれることを願ってミカエリの姿そのものを零士に仕上げた。


 言っとくけど、俺は君のコピーを何度も作ろうとして、失敗に終わってるんだ。成功は一度もない。道理で完成しないわけだよ。姉さんの方が先に零士を生み出してたんだから。


 でも、本当に零士は恨みを残さず死んだんだね。だから脱線事故の時点ですぐにミカエリにならなかった。恨みがない人間を生き返らせることは本当、大変なんだよ。姉さんは、自己犠牲という形で成し遂げたみたいだけど」


 ライはうっすらと真奈美を嘲笑った。

 ライに作られたつもりでいたが、真奈美と思っていたライの姉に作られたということか? 生まれた日の記憶がないからどうしようもない。鳥みたいに親鳥の顔を覚えておける習性があればよかったのにと零士は思った。


「君は輪千真奈美を使役して戦ってたんだじゃない。姉さんの声を機械音に変えてたんだ。代償は輪千真奈美の悲しそうな顔とかって思ってたの? 


 姉さんを悲しませてるのは、君だよ。君が姉さんの声を奪い。顔を奪ってるんだ。


 そして、自分たちの都合のいいときに人間だったり、ミカエリだったりお互いを入れ替えるんだ。だから、本当に姉さんが代償を払うときは、血が流れる。一方、君も普段は血なんか流してるけど、本当は流す必要もない。


 ただ、お互いにミカエリと人間、どんどんかけ離れていくみたいだけど。姉さんもきっと、もう人間には戻れなくなる。そして君が、より人間になっていく」


 零士にしてみれば思い当るふしというのもあいまいでしかない。自分は完全な人間はないということははじめから分かっていた。気づいたらふと存在した意識だった。自分とは違う人間、零士の物語をはじめから持っていた。


「せ、せやかて、うちは生きてるんや。仮にうちがミカエリやったとしてやな。真奈美と互いに寄生するような生き方でもやな。うちはあんさんを止めるのが義務や思うてるで」


 ライの眼光が鋭利な刃物のように細くなった。

「だいたい、あんさんの姉さんは、自殺したんちゃうんか。なんで生きてんねんな」


 ライはまじまじと真奈美を見つめている。姉が答えてくれないことに、落胆した様子はなかった。自分なりの解釈に納得して、目をふせた。


「俺達の家系は、ミカエリを代々大切にしてきた。世間的にはそう思われてるけど、実際に行われていたのは、ミカエリを絶やさず、増やし続けること。


 死んだ猫や犬といった小動物を拾ってきたり、ときには人の死んだ事故現場まで足を運んで、家にミカエリを連れて帰った。更に言えば、そう上手く動物が恨みを残して死んでくれるはずもない。俺達の家族はミカエリの見える者達で、動物を殺すようになった」


 背筋を冷たい汗が伝った気がした。


「っていっても伝統だったんだけどね。ほかのミカエリ憑きの家でもやってることだよ。ただ、公にはしないけどね。それを姉は公にしようとした。今は、動物愛護法とか法律も複雑になって、江戸時代から続く伝統も肩身が狭くなったね。

 

 別に俺は構わなかったんだけど、父さんが怒ってね。きっと姉さんを殺すんじゃないかって思った。父さんも怒鳴ったりはしないけど、静かな怒りで姉を監視していた。だから、最期には姉の方から家を出て行った。川に流された目撃情報が最後だった」


 動物を殺していたこともどうかと思うが、家族よりも伝統を重んじる家庭も今の時代、そうそうない。だが、家族間での確執は今の時代という感じがした。


 ミカエリとは意思疎通できるのに、人同士、上手くいかないなんて、なんて虚しいのだろうかと零士は眉根を寄せた。

「リョウには零士が自殺に追い込んだって言っておいたよ。作り話もたまにはいいでしょ?」

 零士は歯噛みして睨み返した。


「あんさん、じゃあなんで、うちを殺したんな? 脱線事故は百人も無関係な人間が死んでんやで。生前の零士は間違いなくあんさんの親友やってんで? それをあんさんは、姉さんがおらんなったら、余計大事にせなあかんかったんとちゃうんか?」


「そんなのいらない。って言いたいところだけど。俺を置いていったのは零士のほうだよ」

 語尾を荒げてもライには何も響かないらしい。より一層落ち着き払った声で、微笑む。


「あれは、本当に事故だったんだ」

「は?」


「俺のミカエリは置き石をした。毎日毎日。同じ時間、同じ踏切。最初、俺は自分でも何が望みでミカエリがそんなことをするのか分からなかった。ふと、零士の通る道だと気づいたけど。でも、それでも置き石が原因で脱線したりなんかしなかった」


 零士は、言葉を失くして、いつもの嘘かどうかを見極めようと目を細めた。


「でも、最近の電車は置き石を弾き飛ばすようになってて、置き石対策されてるんだよ。だから、あの脱線事故が起きたときも、本当にシステム系統のトラブルだった。俺は、零士に置いていかれた。姉もいないのに、零士もいなくなった」


 零士はかぶりをふって、どちらが正しいのか判断しなければならなかった。つまり、今までのライの行動全てが偽りだったというのか。


「罪悪感は残ったよ。置き石をしていたのは事実だし。でも、俺は本当に何もしていないけど、零士を殺していたのは俺かもしれないと思うと、やっぱり俺が殺したことに変わりないんじゃないかって。だから、リョウにも俺が脱線事故を起こしたと思わせてる。それでいいんだ。対して差はないでしょ」


「なんでそない大事なこと早よう言わんねや。うちかて、あんさんがそないなことあったって知ってたら、ちょっとは何か変わってたかもしれん。あんさんは、だって最初から人殺しやなかったってことやないか」


 熱く語りすぎた。ライの冷笑が戻ってくる。もしかして、完全にはめられたかもしれない。いや、そうじゃない。脱線事故が本当に事故だとしても、もうライは改心するつもりもないらしい。それどころか、今はもう過去なんてどうだっていいに違いない。


「姉さんも零士もいなくなったんだから仕方ないでしょ。もうあと、俺に残った道は紛らわせることだけ。自殺なんて、姉と同じ方法は絶対に嫌だったし。


 だから、俺はミカエリがたくさん欲しかった。何もかも失って空になるのが嫌だった。ほら、脱線事故の人たちも、デスゲームで死んだ参加者もいっぱいいるんだよ」


 ライの周りに一人、また一人とほの暗い影が現れた。黒い影はみな、目がぽっかり開いて、人としての形でゆらめいている。口は縦に長く開かれ叫んでいる風だ。その中に、川口流、朝月レン、剛力ふたば、執行孝次しぎょうこうじが混じっている。

この人たち全て、ミカエリになったとでも言うのか。


「輪千真奈美がミカエリにならなかったから、おかしいなと思ってたんだ。それに、脱線事故のとき、零士が怨念を残さなかったこと。成仏ってあるんだねやっぱり。だけど、姉がこうしてミカエリとして呼びもどした。姉は優しいから、自分の身体を犠牲にしてでも君を現世に呼び戻したかったんだと思う」


「もしそうやとしたら、それは、うちがライを止めるためにとちゃうか? あんさんの姉さんはあんさんがミカエリをこんなふうに、ろくでもない使い方してるって知ってたんや」


 ライの周りのミカエリが解散して、各々きびすを返して歩いて空間に消えていく。


「なんで、そんな言い方しかできないの? 俺はミカエリと契約を結んでるだけだよ。リョウだって、そうだ。リョウは猫をミカエリが殺したと思ってるけど、違う。リョウが猫を殺して、生まれたのがリョウのカムだよ。みんなこうやって結んでるんだ。


 善見ひいらだって、フーっていうミカエリを公園で拾ったって言ってたけど、とんでもないことだよね。きっと捨て犬でも成仏しきれずにうろついてたんだ。君だってその浅ましい存在なんだよ。姉さんに寄生する害虫さ」


「せやかて、正しい使い方はいくらでもできるはずや」

 ライはせせら笑った。その頃にはライの周りのミカエリは狐一人になっていた。

「なら見せてよ」

「まず、あんさんを黙らせてからやな」


 零士は、両腕を鎌に変えた。今はどんなことでもできると、心のどこかで分かっている。真奈美が、こっちをなんでもやればできると言いたげにちらりと見た気がしたが、無表情のままだ。


 カマキリのような腕、これは、れっきとした羽だ。これで空気を切ると音が出た。悪七は、それを同じ方法で返した。ライも両手に氷の剣を持っている。それで、斬撃を跳ね返した。


「なんだか、荒っぽくて嫌だな」

「うっさいわ。あんさん、これぐらいじゃ堪えへんやろうから、次のも用意してあるわ」


 零士は今度は、両腕を回転させ、風を生む。だが、吹き飛んだのわ、展望台の窓ガラスだけ、そこから、室内の空気が外に吹きぬける。バランスを崩したライの、足元に、今度は大声で叫ぶと、空気の弾が飛ぶ。


 だいたい、真奈美ができることは、自分でできるつもりだ。零士は、自分がミカエリであることに少しは、誇りを持てた。自分で大切な真奈美を守れる。寧ろこれが自然な形ではないか。


 ライの足に当たった空気弾は見えないものの、鈍い音を立てた。骨でも砕けたか。ライは、そのままあっけなく剣を投げ出して転がる。その瞬間、床一面が凍った。

「その手は読めるで。しっかし、あんさんを警察に突き出しても、しゃーないしなー! ほんま、面倒やわ」


 氷が足元を覆う前に近くのカウンターへ飛び乗る。カウンターも、すぐに凍りはじめるが、足をすくわれるようなまねはしない。鎌で机に両手を固定して、大声で叫ぶともう一度特大の衝撃波を繰り出す。我ながら台風を巻き起こしているようで、見ていても、やっていても爽快だ。ライは、氷の壁を作った。


 お互いきりがないのは重々承知だが、ここは、一気にけりをつける。壁を切断すべく、鎌で飛び掛る。壁の切れ間からライの穏やかな微笑みが垣間見える。


「でも、君がミカエリとして動けるうちは、姉さんが弱ってるからだよ? 今まで君が普通に人として過ごせたのは、姉のおかげさ。だから、今は姉さんを守る義務があるわけだよね」

「ちょ、お前まさか、自分の姉さん殺る気かいな」


 突っ立っている真奈美は、額の傷口から血は止まったものの、青ざめたまま、あまり動ける状態じゃない。


 氷の波が真奈美をさらった。あっという間に、身体は波間に浮かぶように固定された。氷で固定しただけで、全身を氷漬けにしないのは、まだ良心があるからか?

「いや、ちゃうな。あんさん、俺を殺すだけじゃ足りんのんか?」


 氷の壁を溶かして、白いシャツについた氷の欠片を払いながら、ライは自ら歩み出てきた。

「動いたら殺すってことが、分かってくれてるみたいだね」


 ただ、一発顔を殴られただけだ。大したことじゃない。氷の床に転がって、テーブルまで滑った。上に載っていたアイスティーと、封の開いたガムシロップ降ってきて、髪がべとべとだ。

 ついで、歩み寄ってきたライが軽くサッカーでもするように脇腹を蹴る。鈍い痛み。案外やわな力じゃない。むせて唾を吐いたついでに、文句を言ってやった。


「しょぼいわ。これが大量殺人者かいな。ミカエリ使いたくないんやろ」

「なら、ナイフにする? 俺はナイフの方が好きなんだけど」


「あんさんは、ミカエリから逃げる方法ばっか考えてるから、うちらに、向き合われへんねや。どうやったら、代償払わんですむか、どうやったら、自分の欲望に飲まれずにおれるんか。そればっか考えて、うちら、人間のことは何も見てへん」


 今度は、思い切り腹を踏まれた。だが、その足をつかんで離さない。

 さすがに苛立ちが白い顔にちらついたのが、見えた。ここで舌を出して笑ってやると、ライの唇が歪んで、どす黒い声が出てきた。

「何の真似?」


「零士はこんなんやない? ってか。目の前の敵を、ちゃんと見とかんと、えらい目に合うで」


 その足をぐるりとひねる。ライがしかめっ面をした瞬間、その足を持ち上げた。今度は、こっちが馬乗りになる番だ。無駄口などたたかず、殴る。右に左に。ライの唇が切れて、赤い血が滲む。だが、ライも両手から氷のナイフを突き出した。


 慌てて飛びのいたが、腹に刺さった。幸い浅いからすぐ抜けたが、氷の刃は、無限に沸いてくる。ライの両手にはすでに新たな刃が握られており、それが飛んでくる。でも、それは避ければすむ。挑発に乗って、たくさん氷を使うほど、不利になるのはライだ。


 少し間を置いて、わざとらしく節目になったライが、眉をひそめる。まるで、自分のことが自分で分からなくなったというような困惑した顔をしながら、歯茎を見せて無理をしてでも微笑む。


「殺してやる」

 自分で呟いた言葉にいささか戸惑いながらも、その醜悪な言葉も悪くないといった表情で、目をぎらつかせている。

「それや、それが感情ってのや。でもな、そんなんじゃ誰も殺されへんねんで」

「いや、君は動いた」


 ライの微笑みが普段の能面に戻った。あかん、そう簡単に挑発に乗らない。真奈美の顔が凍る。

「真奈美!」

「そうだな。もって五分かな。君が懺悔すれば別だけどね」

「ふざけんな。うちらが謝ることは何もないわ」


「そうだね。でもこういう理不尽なのも、仕方がないと思うよ。現に俺は理不尽な環境で育ってきた」


「ほんまいい加減にせえ」

 蜂の巣にすべく、空気弾、両手でかまいたちと、何でもやった。また、氷の壁。弾切れだ。真奈美が死にかけているからか、もう声も衝撃波も出ない。


 ところが、ライも早々に防御に使っていた氷の壁を溶かしてきた。あっちも相当、ミカエリを使い込んでいるはずだ。町中を凍らしているのだから。


「あんさんは、真奈美に五分もやったわけや。やっぱ実の姉は、殺されへん。俺らが怖いんや」

 殴りかかると、ライも氷は使わず、素手で受け止めた。静かな面持ちが、今は顔を赤らめている。


 今度は膝蹴り。だが、仕返しに腹に拳をぶち込まれる。

「怖くはないよ」

「じゃあ、何や? 息荒いで。うちは、死ぬんは怖ないで。あんさん、いつも怖いんとちゃうか? 他人は、ようさん殺すくせに」


「お前に何が分かるの? 俺はずっと失ってきた。これからもそれは続く。戻ってこないものは、戻ってこないし、それでいい。だけど、最初に置いていったのは、お前ら二人なんだよ」

 ライの凄んだ声と同時に、腹を蹴られた。再び、テーブルにぶつかったが、今度は立ち上がる間もなく、胸倉をつかまれる。


 そのまま、窓ガラスの割れた、外界へ、押し倒される。仰向けに赤い空が見える。背中に残りくずのガラスが突き刺さって、あえいだ。容赦なく、踏み降ろされる足。背中のガラスがぐっと食い込んだのが分かった。


 針のような細かい痛みを思い出して、全身しびれる思いがする。なんとか、手を伸ばして、まだ残っているガラスをつかんで、できるだけ深く刺さらないように、体を支える。ライは、すぐに突き落とすようなことはせず、首に手をかけてきた。


「こういうのは、ハードボイルドの映画でようあるで。ここらで大抵の悪人は、真っ逆さまに落ちるんや」


「俺が悪人だって言いたいのかな。間違いじゃないさ。でも、先に死ぬのは君の方だよ。ナイフはなにも、氷である必要はない」


 ライはポケットからナイフを取り出した。当然か。首筋を滑らかに滑っていく。血が伝う感覚があるが、大した痛みではない。今度は、肩にぐっと押し当てられる。


「やっぱり最期は、俺の手で殺さないと。君もこうなることを納得の上でここまで来たんだよね」


 ライはやっとのことで手に入れた幸福な時間を噛み締めるように喉を鳴らして笑った。

「せやな。あんさんなら、うちをすぐに殺さん思うてたわ」


 肩にナイフが突き立てられたのと同時に、頭突きを食らわせた。自分から刺されに行った形だが、ナイフに酔いしれているライには予想がつかなかったに違いない。そのまま、顔面を押し退ける。赤らんだライの顔が、歪んでとても美男子とは言えない状態だ。


 だが、より深くナイフが肩をえぐる。ここにきて、吹き出した自らの汗で節々の針の痛みが錯覚として戻ってきた。ミカエリっていうのも楽じゃない。ライはその辺りをわきまえて、狐のミカエリそのものには攻撃させてこないのだ。となると、狐のミカエリはどこにいるのだろう?


 確信はないが、ここは試してみるしかない。ライの耳元で殴るふりをして、手を止めた。


 ライも、空気の渦が見えるのか顔を強張らせた。空気を圧縮した空気の爆弾だ。それをタワーのあちこちにばらまいたのだ。秘密裏に温存していたがミカエリとして最後にできることだ。これ以上は真奈美の望み、願望なしではできない。


「なんだ、まだ本気出してなかったんだ。で、それから?」


 やはり、ライも体力を温存していただけだ。ライにかかれば、こけおどしでしかない。部屋の、気温が、ぐっと下がる。空気の爆弾の回りが白く煙を上げる。ばしゃりと弾けて、床が瞬時に凍っていく。爆発することなく、空気を液体窒素に変えられた。テレビも、テーブルも、凍った。


 だが、こちらの思惑には気づいていない。今のは狐に仕掛けた。ライが守ろうとするもの、一つだけ凍らなかったものがある。さっき、こぼしたアイスコーヒーだ。部屋中に空気弾をばらまいたのだ、ライが凍らさないのはおかしい。


 両手で、風を送り、アイスコーヒーをすくいあげる。思った通り、狐のミカエリ本体だ。うごめく液体を素早く飲みほした。


 ライは半ばあきれ顔ともつかぬ、拍子抜けしたように表情筋を緩めた。凛とした眼がいくらか、柔和に帰着したが、視点が定まらないように無感情を装い、空間に冷笑して広がる。


 青ざめた頬と、紅潮した唇が、対象的で、音もなく結ばれたとき、不安の影がよぎったのがかいまみえたが、それも苛立ちに押し退けられた。


「それで、ミカエリを殺したつもりじゃないよね?」


 確かにミカエリは、食道を通り胃に落ちた。吐き気がするのは、胃液をかき回されているからだろうか。だが、俺には胃液なんて必要ですらない。


 このまま、身体の中に押し留めるか、狐のミカエリが身体を突き破るか、もしくは、打ち負けて凍らされるのかのどれかだ。

ライの、ふいに口角を吊り上げた笑みが後者であらことを告げていた。


「飲んだら、相当刺激的だと思うよ。俺も飲んだことあるしね。身体の中を鎌でえぐり回されるみたいでしょ」


「そうでもないで。内臓引っ掻き回されるんわ、あんさんやろ? うちはミカエリやからできる。曲芸やわ。早いとこ、終わらせたるわ」喉をつっかえつっかえ、げっぷした。


 そのとき、キリキリと密度の高まる音と共に輪千の氷が音を立てた。ごとりと肉片となって崩れ落ちた。床に叩きつけられた肉片は、氷の粒の白煙をあげて弾けた。ばらばらと崩壊していく肉片。


 上半身よりも、指や腕から不安定な順番に剥がれ落ちていく。真奈美の目が、ずっとこちらを見開いたまま、凝視している。薄く開いた唇からは、最期まで言葉は発せられず、顔の半分が縦にひび割れる。皮、骨、脳髄と、順に灰色に光ながら、重力の思うままに落ちていった。


 それを止める方法は、自然界にはないように思えた。単純に死として平然と受け入れられるのは、自分がミカエリだからか、冷えた背中から、内側にかけてじんわりと広がった汗とも、嘆きともつかぬ、生暖かさは人としての悲しみと呼べるのだろうか。足は文字通り氷の床に張りついている。


 ぽつりと真奈美の名を呼んでみても、返事をする口や顔は、崩壊してしまっている。かっと昇った血とは、裏腹に自分の唇から色が失せたことが自覚できた。


 まだ自分でも怒りをコントロールできるうちであることが、腹立たしかった。もっと誰かに煽られてそれを、人殺し悪七ライにぶつけたい。


「真奈美! あかんて! うちを一人にせんといてや」


 駆け寄って見るもグロテスクな姿になった真奈美の凍った腕に触れる。指から伝わった体温で真奈美の凍った血が広がった。葬儀で、死者の顔を見ているととても生きていたと思えないことがある。まさに真奈美はもう死後一日ほど経過したように青くなっていた。


 人間性を失い人形のようだ。恐ろしくてとても顔には触れられない。涙も、まぶたが怒りでひくひく痙攣しだしても頬に広がって上手く流れ落ちない。


 ライは、奇妙に歪んだ薄ら笑いを浮かべている。先程叫んだ言葉に対して一人になるのって辛いでしょとでも言いたいのか。

「まだや」


 そんな言葉がついて出た。真奈美が死んだ。

「ミカエリは宿主なしでは、消滅するか、一定期間以内にほかの宿主を見つけなければいけないよ。個人差はあるけど、怨み辛みがなければ、留まっていられる時間は限られるから、もって数分かな」


「先に言っとくわ。あんさんに憑く気は毛頭ないで。いや、あんさんには、憑く価値もあらへんで」


 白く早く流れる雲で室内が陰った。ライの瞳が淀んで瞬きをしなくなった。泣きたいのはこっちだと言ってやりたい。青ざめた唇から僅かに身震いしたのが見てとれた。だが、少なからず屈辱を加えられたようだ。


「真奈美は、あんたの姉さんやった。うちの妹の姿いうても、うちかて紛い物や、せやけどなあ、うちはこの短期間の間で真奈美のことが大切になったんや。あんさんは、守りたいものなんてなんもないんや。ほんまに生き返らせたいものがないんや。見せたる。ミカエリができることを」


 こちらが熱く語るほどにライは、安らかでさえある笑顔を見せたが、氷の瞳が湖面を割るように見開かれる。堪えきれずに口は閉まりなく音を立てず笑いだした。ライの計算通りだとでもいうのか。


 そうだ、真奈美を生き返らせることはライと同じことになるのか。殺され、蘇らせ、またむざむざと殺される。それではライがやろうとしたことと全く同じ。そして、俺も同じ穴のムジナに変わりがない。なら、もう、リセットは必要ない。人生はゲームじゃない。


 たった一回きりだから。だから、辛い。ライはそれを認めない。なら、うちは、認めなあかんのとちゃうか。


 零士は、怒りを込めて唇を閉じた。そこには、自分がこの世に留まることを諦めたような笑みは皆無だった。ただ、ライの、まねをしてみたつもりだった。


 ライは、なぜいつも微笑むのか。そこには、全てを思い通りに運びたい思惑と、必ず思い通りにことを運ぶ自信と、一抹の悲哀がある。他人に対してのではなく、自分自身についてのだ。


「あんさんらは、怒りを植えつけたいんやろ? 自分が空虚やからやろ」


 余裕のあったライの笑みが風に吹き消されたように消えた。静かに瞬きをして、ライは顔を青ざめた。それは、言葉の力というより、同じ顔で二人、向かい合っていたからだろう。だが、不思議と声は震えることなく淡々と告げることができた。


「うちは消滅を選ぶ。これが、ほんまの最期や。短い間やったけどそれなりに謳歌できたわ」


 一瞬だが、ライの顔が歪んだように見えたが、瞬きをすると平然と突っ立っている。あのライが、魂が抜けたようにただ立っている。立つだけで絵になるような男がこのざまか。なにか一言ぐらい期待したが、返答はない。時間もない。


 とうとうライはうつむいた。自分の身体が透けていく。消滅するんや。

 

 ため息のような息が聞こえた。慌てて眼を向けたが、視線は合うことはなかった。


 「命は一つなんやで」と、言ったつもりが最期の言葉に音はつかなかった。だから、うつむいたままのライには聞こえなかった。いや、笑っている。こいつ、垂らした長い前髪の間から瞳をぎらつかせて――。


 消える。うちは、消える。馬鹿を残して。やっぱ許したあかんやつはおるんや――。


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