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第九章 願望    第二部 零士VSリョウ

 タワー目前、橋を渡った先に警察らしきパトカーが来ていた。道中何度も氷の刃で襲われた零士だったが、何とかミカエリの力を借りて突破していた。これ以上真奈美に負担をかけたことはない。真奈美の顔のパズルがまたばらばらになって回り始めた。


 警官は零士を保護した。それも束の間、パトカーは氷の刃物を持った人々に取り囲まれた。

「少年を保護したが、一般市民が道を塞いで通れない」


 無線で警官が連絡したとたん、いきなり無線が氷りはじめた。慌てて手を離した警官だが、間に合わず腕が凍った。


「一旦、降りろ」

 零士を挟む形で護衛警官二人と降りた。腕の凍った警官は痛みに呻いている。が、心配してもいられなくなった。氷の刃を持った人々に囲まれていた。両側の警官が刃の嵐にあった。


 それでも拳銃で空に威嚇射撃をして、道を作った。右の警官は脇腹を刺されて負傷した。左の警官はナイフをはたくべく警棒を振り回している。


 真奈美が先頭を滑るように歩き顔のパズルを完成させる。さほど時間はかからず大音量でスピーカーが歪んだ音を発する。その場にいた人間全ての耳の鼓膜が破れた。耳から血を流して一人ひとり倒れていく。警官までもだ。やはり制御しきれなかった。


「守ってもうてんのに。あだで返してもうたがな。ほんますまんな」

 警官も凍ってしまう。できるだけ人の少ない場所に移動するしかない。


 真奈美にも異変が起きている。真奈美の顔のパズルはずっと繋がっているのに、顔面に陶器が割れたようなひびが走っている。そして、真奈美の髪が白髪まじりになった。


 雪雲が吹きすさぶ中、早足にその場を去った。自分の足跡が点々と残っていく。五分ほど走ると、人の気配がなくなったことに違和感を覚えた。ところどころに氷の彫像がある。


 時間切れで全身が凍った人間が早くも現れ始めた。随分長く走った気がしていたが、一時間も経っていない。が、実際凍った人間が出始めているということは、何人かは時間切れになっているようだ。


 零士は何とも言えない罪悪感を覚えた。自分は加害者ではないが、まるで加担したかのような罪悪感だ。凍った人間の最期は、いかにも普通の日常の写真そのものだったからだ。


 ベンチに座って携帯を見つめる人。彼は、自分の腕がじわじわ凍っていくのをただただ見下ろしていた。そしてその発端となった携帯電話を。


 また、ある女性は公衆電話の中で凍っている。この自分の置かれた絶望的な状況に、誰かに救いを求めていたのだろうか。

 こんな脅しで人の行動は操れるものじゃない。ライも分かっているはず。

「あいつもう許さんで」


 北風まで吹いてきて追い風に乗って突っ走っていると、ビルの谷間から黒い人影が歩いてくるのが見えた。その影が氷のアスファルトの上をまっすぐに伸びてくる。


 危なくジャンプでかわした。その瞬間、影は立体となって大きな鮫の口を開けた。腕を深くえぐった。その口は再び、氷の下に消えて、人影に戻っていく。黒いフードを被った少年、狩集リョウだ。


「あんさん。なにしに来たんな。ライの命令なんか?」

 腕の出血は止まらなかった。何かで縛った方がよさそうだったので、ダウンは放り投げて上着で縛った。


 リョウは機嫌が悪いような、血の気の引いた青い顔をして凄んだ。

「そういう上下関係はない」


 零士は馬鹿らしくなって鼻で笑った。

「ほんまかいな。じゃあライの好きな音楽言うてみーな」

「そ、それは」


 フードに顔を埋めていたのが、頭をひねっているようにも見えて噴き出すところだった。まあ、元々人づきあいが苦手そうな印象はあった。相手が悪七ライなら、なおさら大変だ。

「生前のうちかて、ようあんなんとつきあってたわ。今なら絶対あり得へんわ」


 その言葉にリョウがかっとなってトカゲのミカエリを飛ばしてきた。サメじゃないんかいな。しょーもな。口でっかいから、さっきはびっくりしたわ。


 真奈美は、大きく息を吸い込む。爆音。トカゲのミカエリ本体には影響はなかった。ぶよぶよと音の分だけ波打った。だが、宿主のリョウは今ので、耳が潰れただろう。だが、おかしなことに平然としている。


「耳せんぐらいしてる」

「嘘やん。何のマンガやねん。そんなん普通、役に立つかいな」

「カムが今フィルターになってちょっと和らげたからな。今回は血の量を前払いで増やした。前払いだとこいつ張りきるからな」


 カムというミカエリは伸縮をはじめた。脱皮だ。古い皮がむけて、細い眼がうごめく。三倍、いやもっとでかくなった。前足も伸び、後ろ脚二本で立つ。二股の尾はそのままだが、いでたちは恐竜だった。


 ただ、だらだらとよだれを垂らす歯茎から覗く歯は尖っておらず平らで、人間の歯茎を思わせてその不釣り合いさが気持ち悪い。


 噛まれたらひとたまりもないという恐怖よりも、こいつに噛まれたら力ですり潰すように噛まれるんじゃないかという、それはそれで痛いイメージが貼りついた。


 恐竜は、長い首でこちらを見下ろして笑っている。焦点がどこか合っていないような眼が、ずずっと近づいてくる。


「カム。悪七のことを悪く言うやつは許すな。喰い殺したって足りない。俺は俺の意思でお前を殺しにきたんだ」


「うちは誰も殺すつもりはあらへんわ。あんさんもな」

「俺達を殺さずに止める? どうやって」

「せやなあ。とりあえずミカエリは全部消してまうとかちゃう?」


「仮にそんなことできたとして、悪七はミカエリの憑く体質だから、意味ないな。なんにしても悪七の最後のゲームだ。邪魔させるか」


「そこまで分かってんなら止めるんは、うちやなくて、ライなんちゃうか? こんなけミカエリ使うたらライかて持たへんやろ」


 一瞬押し黙ったリョウは、振り払うように悪態をついて目を怒らせた。

「だからこれ以上悪七にミカエリを使わせたくない! 悪七が執拗にミカエリを使うのはお前が存在してるからだ」


 狩集リョウの落ちくぼんだような漆黒の瞳が、今はぎらついている。どこか、人を信用していない目は、時に一点に集中して力を増す。それが、零士には滑稽に思われて仕方がなかった。


 リョウが単なるライの腰巾着ではないことを認識したが、考え方が偏屈なところがあり、視野が狭いのはライと同じかもしれない。


「それは言いがかりやわ。うちかて、二年墓場で留守しててんから、それでもライは荒れてたんやからしゃーないわ」

「全く違うな。あのCDお前のなんだろ。今も悪七は持ってたぞ」


 確信があるとは言えない顔をしながら、それでも不敵に笑ってみせたリョウはいかにも余裕を気取っている。だが、語気は鋭いままで、悪の根源を断つ使者にでもなったつもりか、指を突きつけて叫ぶ。


「お前が悪七の姉貴を自殺に追いやったんだ。でも、お前が親友だったから、悪七は憎悪を向ける対象が分からねーんだよ」


「待ってーや。なんかおかしいで、ライの姉さんは自殺やったけど、うちは何もしてないで。なんか勘違いしてへんか? ライに何て教えられてんねや?」


「今更言いわけなんて聞くか。生き返ったお前も悪七の知ってる零士じゃない。お前はどうなんだ? 他人の身体で生きるってのは。しかも、妹の輪千は一度俺達の仲間に入ってゲーム中、黙って人が死んでくのを見てるんだぞ」


 真奈美のしたことは、正直許せることではない。全てを知りながら、黙ってゲームに参加した。いくら兄に会いたいと思っても、間違いだ。しかし、その真奈美を責めることも零士にはできない。正直、自分が正しく生きているとは思えなかったからだ。


 他人の人生を借りている心苦しさは、ずっと慣れないだろう、これから先も。それでも生き物は生きるしかない。不憫なのは妹の真奈美だ。ミカエリとして人でなくなった上、使役され、しかもその相手は真の愛情を覚えぬまま、記憶として知っているというだけで、傍にいる偽りの兄。


 零士には自分の歴史がない。その証拠につるつるの人形のような身体、古傷一つない身体だが、これから一ページを刻みたいと思う。


 最初から引かれたレール、最初から傍にいる真奈美、別にうちはかまへん。これからのことはこれから良くしていけばいい。真奈美に少しでも感情を取り戻させてやれたら――。


 ミカエリにこんなこと願ってもしゃーないわと零士は一人、苦笑いした。

 冷気がビルの谷間から吹きすさむ。軽く吐き出した息がさらさらと白くなびく。


「うちは、妹を守るわ。どんな妹でも。あんさんも、ライを守りたいんやったら、怒りばっか赤の他人にぶつけることが守ることになるんとちゃうって理解しーや」


「悪七と俺の目的は最初こそ違ってた。それは悪七が俺より先に進んでる存在だったからだ。結局同類なんだよ。悪七は今日、新たな一線を越える。


 悪七が何かミカエリを出し抜く方法を考えてたとしても、悪七の命がミカエリに奪われかねない。俺は悪七のリスクを減らす。そのために根元のお前を殺す」


 恐竜の尾が空を切る。真奈美は俊敏な方ではない。音圧で跳ね返すが、今度は恐竜の頭突きに対応できず、もろに頭から恐竜と一緒に凍ったアスファルトにつっこんだ。


 真奈美のだらしなく投げたされた足、元々血の通っていない身体が更に白く見える。恐竜が瓦礫からゆっくり頭を振り起こす。真奈美は蒼白なまま目を見開き半分に割れた顔で不思議そうに恐竜を返り見る。


「はよ、よけい」

 零士は真奈美のばらばらに飛び散った顔のパーツをかき集める。真奈美は自分のことではないような顔をして動かない。全部を集める暇はない。また、尾が降ってきた。二人で転がった。


 真奈美の顔のパーツは放り投げた。押し潰されるくらいならまた、かき集めた方がましだ。


 真奈美を起き上がらせて、その場から離れる。だが、向こうは恐竜が本体というわけではない、影だ。足下に素早く伸びてきた。いきなり剣山みたいに針がつき上がる。


 スピードではかなわない。真奈美は機械音をぎいぎい叫ぶ。剣山の一本一本を折るが、きりがない。

「真奈美そいつを止めとけよ」


 真奈美には不利だが、こうするしかない。真奈美の肩や背中から陶器の破片のように身体が飛び散った。何本か剣山が刺さっている。しかも嫌らしくねじ込んでいる。真奈美は眉一つ動かさないが、かえって痛々しく見える。


 ミカエリがミカエリとやりあっている間しか宿主同士の戦いには持ち込めない。全速力でリョウに向かって走る。気づいたリョウは驚いて一瞬たじろいだ。カムとかいうミカエリは、動きは早いが動ける範囲も決まっていて宿主と離れると宿主を守れなくなる。


 ミカエリが戻る前に仕留めたる。カムを真奈美が大声で揺さぶる。波打つ剣山がどんどんわかめみたいに柔らかくなる。金属ほどの固さもなくなったところで、真奈美が剣山を両手でつかんで押さえる。

「カム、糸をよこせ」


 カムは、足をどんどん細くのばした。足に巻きついた。あとわずか一歩のところで転んだ。しかもリョウがニヤニヤしてナイフを振りおろした。すんでのところで、身をひるがえした。刀身まで赤に染まっているのは、今も血を与えているからか。


 また、振り下ろされるかと思いきや、リョウはよろめいた。ちょっと足をかけてやると、見事に転んだ。巻きついた紐状の影も僅かに弛んだ。

「貧血なんちゃうか?」


 リョウの上着のポケットからビニール袋とチューブがはみ出している。点滴。輸血だ。

「ここまでしてやらなあかんことなんか?」


 リョウは落ち窪んだ目でそれでもぎらぎらと暗い炎を宿して零士の足をつかんだ。真奈美が機械音を上げる。リョウは頭をかかえた。ミカエリもぶよぶよ状態で防音壁の役割を果たしていない。

「カム来い」


 真奈美は両手でしかつかめないので、するすると変形されては抑えておくことができない。影に囲まれた。次第に包囲網が狭まってくる。王冠をかたどって円が黒い水柱になって回転していく。あっという間に背丈を越えてふりかかってきた。よく見ると全て針状になって降り注いでくる。


 頭から背中、皮膚という皮膚が焼けただれるような痛みに足がすくむ。悲鳴を堪える。食い縛った歯茎から漏れる。


 少しでも降り続く針からかばおうと動かす腕は何度も剃刀で剃られたようで、激痛がヒリヒリと続く。頭からだらだら何本も筋になって生ぬるい血が伝ってくる。


 首に伝わる頃にはひんやりして、今度は首に刺さった針でできた穴に滑り込む。首から流れる血は胸や脇や、腹までしたしたと染みていく。膝が震えて、だんだん、しゃがみこむ。


 膝を曲げるとき、針と針がぱりぱりと擦れあう。何本かは、さらに奥に太ももに入り込んだ。頭は、もう、刺さるところがないのか、既存の針にぶつかってパラパラと跳ねて落ちていく。


 次第に痛みなのか、しびれているのか分からなくなった。顔をかばいながら、うっすら自分の身体の状態を黙視すると、当たり前だが、深紅に染まっていて、ワインでもこうはならないと思うと、少し泣けてきた。


 とりわけ、ひどいのは背中で、みみず腫れのようになっている。鞭刑とはこういうものなのかと思った。


 絶え間ない痛みと、息もつけない息苦しさに、悲鳴もあがらなくなっていた。じりじりと、背中から皮膚が削りとられていく感覚。その内、肺にまで達するんじゃないかという想像が、吐く息に拍車をかけた。


 息も、吐いているのか吸っているのか分からない。掌の針を取っ払った。指が焼けた感覚。熱い。抜くべきじゃなかった。


 血でぬるぬるして、余計に針を抜くのが、難しくなった。この降りやまない黒い針が終わらなければ、死ぬしかない。


「真奈美! 構わず撃て」

 真奈美の顔はばらばらのままだが、口の断片と白い歯と、頬の一部がリョウに狙いを定める。真奈美の口から出た金属音で空気が歪む。リョウが吹き飛ぶのが視界の端に見えた。


 その時はきた。全身の痛みで、針の雨が終わっていたことに零士は気づかなかった。取り巻いていたカムはいなくなっている。近くの傾いている自動販売機が倒れた。


 その隣のビルの壁が崩れていて粉々になって氷と混じり合っている。中のエントランスが見える。カムの二股の尾がそこからのぞいた。がれきを枕にリョウが額から血を流しながら、もがいている。


「カムいい加減にしろ。何故、助けない。何で俺がぶっ倒れてる間にやつにとどめを刺さない? あのまま零士を飲み込んでいれば、ミキサーにかけるなり、アイアンメイデンにするなりなんでもできただろうが。何だそのふざけたにやけ顔。


 ああ、言いたいことは分かる。俺の中にも悪七と同じ残虐性があるってことだろ。だから、針の雨なんて演出しやがったんだろ。そんなこと俺だって自覚してる。問題はそこじゃない! 零士を殺さない限り俺達は生き残れない」


「おおげさやなぁ」


 零士はさりげなく呟いたつもりだったが、押し黙ったリョウが前髪に眼を隠して静かに睨んでいる。最も、お互い容易に身動きのできる状態ではなかったが、口だけは達者だった。


 少なくとも零士は、針の雨がやんだことだけありがたく思った。針を全部抜いている暇はないし、指もそこまで器用じゃない。


 何やらリョウは殺せ殺せとカムに命じているが、カムは白い歯を見せているだけだった。


「カム、俺達は生き残るんだ。何が何でも。だから、少しは協力しろ。俺達のことは世間に知られる。ミカエリのことも追い追い知られるに決まってる。


 だけどな、それよりも早く、今日が最初で最後の戦線で俺達が負けるわけにはいかない。ああ、そうだ。俺だってみんな憎いんだ。無差別にじゃない。みんながみんな憎い人間と重なって見えるんだ」


 大方、腕や頭の針を抜いた零士は一息ついた。背中までは手が届かなかった。膝関節も、恐る恐る抜いていった。

「独り言の多いやっちゃな」


 真奈美は真奈美で自分の顔のパーツを集め終えて、零士の隣に歩み寄り、零士の背中の針を抜いていった。気がきくというか、何がミカエリに求められるのかと不思議に思いながら、真奈美に任せていると、リョウがせかせかとがれきを蹴散らして歩いてきた。ときどきふらりとよろけているが、大声を出す。


「これから悪七より醜悪なゲームをする」

 リョウが、輸血をしていない方の腕を一本横に突き出した。手の甲から力みすぎて血管が浮き上がっている。


 リョウの真横に控えたカムが縦に伸び、腕にまとわりついた。リョウのつんざく叫び。ぎゅりゅぎゅると、ローラーカッターにまきこまれたかのように、カムが離れたリョウの腕は骨もやたらめったら砕けて肉から突出し、皮膚はずり落ちかろうじて筋らしきものが残るだけだ。


 顔面蒼白にしながら、眼を見開く。口元は痛みで歪む、あえぐを繰り返す。時折ひきつり浮かぶ笑み。腕を抑えて、よろけて膝をつくリョウが見えたときには、視界は赤く霞んだ。


「自分の腕犠牲にしよって」


 苦々しくつぶやいたときには、リョウの姿は完全に赤い霧に消えた。血でできた霧とでもいうのか、足元の雪と赤の空のコントラストがまさに、尋常じゃない空気を生み出している。ここが今日まで夏の終わりの日本だったのかと疑う。


「真奈美?」

 真奈美の姿も見えなくなった。存在は確かに感じるが、どこにいるのか見当がつかない。それに、息をすると口の中で血の味が広がる。軽く目をこすると、赤黒い血が爪の隙間にこびりついた。


 次第に、零士は胸焼けするような怒りを覚えた。なんだというのか、今まで感じたことのない胸くその悪さだ。だれかにたった今罵倒されたような気分だ。霧の向こうでリョウの声がかすかに聞こえる。耳も悪くなったのか、それともこの血の霧が隔てているのか。


「カムは狂気を司るミカエリだ。触れた相手を狂わせる」

 じゃあ、もう狂気に飲み込まれたということか。血を空気中にまいて、それを介して触れたということになる。

「ほとんどチートってやつやないか」


 狂気の映像でも流れ込んでくるのかと思ったら、もっとたちが悪い。眼前には赤い霧しか見えないのに、胸の動悸が高鳴って苛々とする感情を覚える。誰かが憎い。


 その誰が憎いのかは、分からないが、とにかく俺は誰かを憎んでいる。周りに誰もいないことがなお、この苛立ちを増大させる。


「俺は、誰かを殺したいんやろか」


 自分の言葉なのか、正確には分からなかった。そもそも、なぜ、こんなところで一人でいるのだろうか。俺は誰かを憎んでいて、そいつらをめった刺しにしたい。


 ただ、この感情は誰もが持っている強烈な思いのはずだった。頭では分かっている。だが、俺は今それを実行に移したくてうずうずしている。


 ふと、誰ともつかぬ声が聞こえた。

「俺はいつも、どんなに成績優秀でも虐げられたような目で見られてきた。羨望なんて無縁だった。誰かを殺したい。それは、俺を馬鹿にしている人間全てだ。


 お前らは、虐げられたことのない連中には、怒りってのが足りないんだ。だから分けてやったんだよ。お前が勝てるか見ててやる」


 思い出した。リョウの声だ。今何をすべきか忘れかけていた。リョウの声を耳に焼きつけた。だが、鼻をつく血の臭いが、余計なことを連想される。


 今日、氷漬けにされて腕が砕けた人。血。リョウの血。輸血、まだ、刺さって抜けない多数の針。背中がじくじくと霧に沁みて痛い。


 顔、人の顔。通信学校の友達の顔。いや、あれはそもそも自分の友達だろうか。だって、あれは生前の零士の友達じゃないのか? あいつらは、すんなり俺を受け入れたが、腹の底では別人だと疑っていないか? いや、違う。あれは生まれ変わってから作った新しい友達だ。


 うちは一体誰なんや。

 鼻から血の臭いが充満して、悲しくなってきた。今度は悲しい! 俺は悲しいんや。生きていることが虚しい。新しい人生? いや、生前の零士の殻から抜けられない。


 別人だと説明もできないし、証明もできない。この容姿は借り物。うちはうちであって、零士やない。きっとほかの名前があるはずや。


「少しは受け入れたらどうなんだよ。俺はこの感情をすべての人間に知らしめてやりたい。味わったことのある人間もいるだろうけど、大半がへらへら笑ってごまかすんだ」


 怒りとは、無縁だったはずがぼんやりと凝らしていた目に、たまってきたのは怒りだった。見えない一点を睨んでいる。怒ることはあったが、憎むことはなかった。


 俺には誰もが許せた。ライでさえ、間違っていることを止めることができたら許したかった。ライなんてどうでもええ。あいつは、うちを零士やない言うとる。その通りや。うちは、誰なんかわからへん。


 そんなん、墓場から無理やり連れてこられただけや。うちは母親からも生まれてへんねや、よく考えたら。


 ぽつりぽつりと、人が歩いてくる。顔はない。黒い影。明らかな幻覚だと自分でも納得ができるほどの空間演出。このままここから出られないことを考えると余計に腹が煮えくり返る思いだった。ここから出るためなら何でもする。


 影が操り人形みたいに滑稽に歩いてくる。あいつらを殺したる。手のひらに冷たい感触がある。見るとナイフを握っている。これも幻覚だろうか。


 思えば、先ほどから、全身に刺さったままの針も消えたように思う。足取りも軽い。影にあっという間に対峙する。


 顔は渦を巻いている。宇宙のようにぽっかり空いた顔。ここに好きな人間の顔を当てはめて殺すことを考えろというのか。不思議と、そうしていた。まず、浮かんだのは不思議と真奈美の顔だった。


「ちゃう。真奈美やない」

 真奈美は重荷や。脳裏でこだまする自分の声。

「ちゃう。真奈美は妹や」

「生前の零士のや」


 どちらも自分の声だったことに、息が詰まった。殺せと叫ぶ。自分の声。影が真奈美の顔になる。やめいと叫ぶ自分もいた。どちらが自分で、どちらも自分。


 ナイフは真奈美の顔を裂いた。続いて、ほかの影が塾の友達の顔になる。斬る。裂く。なぎ倒す。全てかき消えた。夢。夢か。


 霧が収まった。足元にナイフが転がっていた。血がついている。幻覚はまだ続いているのか?

 リョウの高笑いが聞こえた。空は重い雲が流れている。赤い世界は終わった。


「誰を殺したんだ? 零士」

「誰って」

 真奈美が横たわっている。そんなばかな。幻覚だって、あれは幻覚だと自分でも分かっていた。


 笑い声を押し殺してリョウが立ち上がった。カムでミキサーにされた腕は服で縛ってある。


「一番の醜悪なゲームって、俺が思うにたぶん、ゲームだと思ってたこどが、ゲームじゃなかったときじゃないか? こんな簡単で分かりやすかったゲームなのに、ダメだな、お前。見ろよ。お前だって人を殺せる。てめえも、自分の生い立ちや、世界が憎いんだ」


 真奈美は額から血を流している。なんで? 真奈美はミカエリじゃないのか? ミカエリに血なんかない。真奈美は死ぬわけがない。ミカエリは死ぬのではなく消える。


 指が動いた。まだ、息がある。額の血をそっとぬぐう。手に痛みが走った。幻覚が解けて全身の針の痛みが戻ってきた。いや、針は消えている。いつ自分で抜いたんだろうか。


「殺し損ねたのかよ」


 リョウもあまり動けない状態らしい。真奈美に頼るのはもうやめだ。こうなったら、自分の手でけりをつける、

「あんさん、うちを本気にさせたで。あんさん、ミカエリ使えてないやないか。腕一本でわずか数分の幻覚て、腕切り落とすぐらいの根性見せてーや」


 リョウの顔が憤怒で歪む。だが、何か言い返そうと大きく口を開いて、思い当たって口をつぐんだ。


 ミカエリは本人の望む通りにしか動かない。少しでもためらったり、自分の意思が揺らぐとミカエリは言うことを聞かないし、本人の望む通りにしか結果に反映されない。


 リョウは覆った腕をほどきはじめる。まだ出血の止まらない腕からだらだらと血が落ちる。

「やめとき、今さら斬り落としても、うちも拾ってくっつけたる気あらへんから」


 リョウの腕を蹴り倒した。あっけなくリョウは倒れて、馬鹿みたいに泣き叫ぶ。


「患者は病院でも行っとけや」

 輸血パックを踏みつぶす。散々な目にあったリョウは、あえぎながら上体を起こして、カムに殺せと叫ぶ。

「あげる血なんてもうあらへんやろ」


 一発顔面を殴ると、あっけなくリョウは伸びてしまった。カムが恨めしそうにこちらを見ている。

「エサはご主人様が完治してからやろなぁ。まあ、いうても、もう食べられへんわ」


 カムの黒い身体を拳で貫いた。不思議とそうしていた。カムは二股の尾をだらしと垂らした。


 カムの離れていた目が珍しく中心に寄る。人型の口がだらだらと開いたと思ったら呪縛でもかけるように早口に呪いともつかぬ言葉をまくしたてたが、声にはならずシューシュー泡立つような音を立てただけだった。


 歯がぼろぼろと落ち、どろどろの身体が、水たまりになって溶けていく。リョウの目覚めるときには、もうカムはいない。


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