思いやりのかたち
「魔……」
「魔獣が人間の悪巧みに気付かないと思うかい」
イングスがソフィアの言葉を遮った。特に大きくもない穏やかな口調だが、ソフィアの言葉は搔き消され途切れてしまった。皆、急に口を開いたイングスの顔を見つめている。
「イングス……」
「オルキは美味しそうな人間の匂いが分かるんだよ。ちょっと舐めたら味まで分かる」
「ほうじゃった、島長さんは魔獣じゃけえ、そないな事も分かるんじゃのう」
「当たり前のように喋るから、この数週間ですっかり慣れてしまいました。あの味見からのその、パクっと……あの光景を忘れてましたね」
オルキは魔獣である。そんな事は言われなくても分かっていたのだが、ここ最近はおとなしくしていて移住者も恐怖心などすっかりなくなっていた。
ちょっと態度が大きく偉そうで、自由奔放。……つまりそれこそが猫なのだが、もし喋る事もなければオルキと人を喰らう魔獣が同一魔物である事を疑いそうなくらいだ。
「つまり、島長さんに報告して、犯人を見つけて貰うんですね」
「おい達が酒かまりのぷんぷどしてんのと同じだべ?」
「それじゃ煙草の臭いで分かるのと同じでしょ、何でお酒で例え直すの」
「にゃーん」
「猫」
子猫が集会所の中に侵入し、イングスの服の裾から強引に潜り込んで丸くなる。オルキと一緒に寝ていたはずだが、子猫はまだ眠くなかったのか。
「島長さんにバレるのは時間の問題って事ですね」
オルキが動くとなれば、その結果はもう明らかだ。オルキは出来るだけ悪人を美味しく食べる方向に事を運ぼうとするだろう。
移住希望者の中で、初の脱落者が出る。イングスの呑気な声の調子とは正反対に、皆の表情は強張った。
最近譲ってもらったばかりのランプが、集会所のテーブルを暖かな光で照らす。
何かを言わなければ。
この間に耐えられなくなったジェシカが、話題を変えようとソフィアに向き直った。
「そ、そう言えば、さっきは何を言いかけたんですか?」
「んだす。ずっぱどじゃがめがしで、まぐ喋ってんのによ。さっきからむっしらどしつもつすでどんだんず?」
「あた……」
「ソフィアはオルキが悪人を見分けられる事を知ってる」
ジョガル語で何を言われたのか分からないソフィアに代わり、またイングスが質問に答えた。
イングスは意図的にソフィアの発言を遮っている。
フューサーとアリヤはイングスの意図に気付いた。だが、ソフィアはまだ気づいていない。
「えっと、何て言おうとしました?」
「あたしは」
「ソフィア・ウェッジウッド」
イングスが今度はソフィアのフルネームで呼びかけた。声色も表情も、イングスはいつもの穏やかさを讃えたまま。だがその視線はじっとソフィアへ向けられている。
「どうしてフルネームで呼んだと?」
「人間は、怒った時にフルネームで呼ぶって言った。ソフィアが教えてくれたんでしょ」
「……そんな穏やかで何ともないような声で言われても。イングス、もしかして怒っとる?」
「どうしたら怒れるのか分からないよ。でも怒ったらちゃんと聞いてくれるって言った。フルネームを呼ぶのは怒っているって事でしょ」
イングスがなぜ怒る真似をしたのか。その意図が分からない面々がイングスの次の言葉を待つ。
「ソフィアはオルキが魔獣だから分かるって事を、分かっているんだよ。僕がちゃんと説明した」
「……えっと、イングス。それってつまり、ソフィアの代わりに答えたつもりなのに、なおもソフィアに尋ねた事が不満だったって事か」
「僕は不満か可満か判断できないけれど。ソフィアの代わりに答えたね」
「いや、不の反対だからって可満とは言わねえわ。あのさ、だったらソフィアのフルネームを呼んでも駄目だって」
「どうして?」
イングスは何かを勘違いしていたようだ。とても純粋そうな表情でフューサーの答えを待っている。
「だって、尋ねていたのはソフィアじゃなくてジェシカだろ? 誰に言うつもりだったんだ」
「ジェシカ」
「だったら、ソフィアのフルネームじゃなくて、ジェシカのフルネームを言わなきゃ」
イングスは納得したように少し口を開けたまま頷く。そしてポツリと呟いた。
「怒りたい相手のフルネームを言うんだね。ソフィアのフルネームを言えばいいんだと思ってた」
* * * * * * * * *
話し合いは終わり、明日にはオルキに報告するという意見で一致した。煙草の吸殻が1人のものとは限らないし、釣り糸を放置した者と一緒という確証もない。
ルールを守らなくても問題ないという風潮が広まっているとしたら、それは島の秩序の危機。
オルキは悪人を食べたいと思っているが、食べた分だけ人間に失望してしまわないか。
それも心配だった。
皆が帰っていき、イングスはアリヤに速記したものを渡す。集会所の片づけをしながら、アリヤは先程のイングスの行動を肯定しようと声を掛けた。
「イングスくん、さっきソフィアさんを助けようとしましたよね。ソフィアさんが自分の事を魔女だって言おうとしたのを止めたんでしょ」
「そうだね」
「どうして止めようと思ったの?」
アリヤはイングスに座るよう促し、自身もテーブルに就いた。子猫は意地でもイングスから離れまいと腕にしがみつき、イングスが手の平に乗せるとようやく落ち着いた。
「ジェシカは、後々の禍根になったりご近所トラブルになったりが心配って言ってた。魔女はみんなが嫌うんでしょ。だからソフィアはヒーゴ島にやって来た」
「うん。いくらソフィアさんが覚悟をしていると言っても、その代償を払うべきはソフィアさんじゃないよね」
「ソフィアは悲しくなるんだ。魔女だと言われるのも悲しくなる。僕は悲しいも嬉しいも知らないけれど、悲しいのはあまり良くない事だって分かってる」
「そっか。ソフィアさんを守ってくれたんですね。有難う」
イングスは少し考えるような素振りを見せる。そのままテーブルを見つめ、ちょっと違うと付け足した。
「ソフィアはオルキのために、魔女だって言おうとしたんだよ」
「どういう事?」
「オルキは神が見捨てた世界を代わりに拾って維持したいのに、人間は時々オルキの邪魔をする。オルキが人間に失望するのは、世界が終わりに近づく事」
ソフィアが涙を流し、連合軍の横暴を嘆いた日。
アリヤが捕虜として連合軍と共にウグイ島へやって来た夜の事。
イングスはソフィアが自分以外の誰かのために悲しんだ事を、当時不思議に思っていた。
けれど、今日ソフィアは再びオルキのために行動しようとした。自分が悲しい思いをすると分かっていながら、オルキの理想を守ろうとした。
イングスは人間の気持ちは理解できていない。けれど行動と言動から判断する事は出来る。
今日のソフィアの悲しそうな覚悟が、あのオルキが大暴れした夜と重なった。イングスはそこからソフィアがまたオルキのために悲しい思いをするつもりだと気付いた。
「イングスくん……。君もオルキさんがこの世界を捨てないように、オルキさんが失望しないように動こうとしてるソフィアさんの事、気付いているんですね」
「うん」
ソフィアは全くもって鉄の女でなければ、完璧主義でもない。厳罰主義でもないし、ギタンギュの首都コレストに憧れ田舎を捨てるようなイマドキの女子だ。
けれど、この島の生活に合わせ、しっかりしなければと気負っている。自分には魔女としての力しかない、それがなければ何もない足手まといとすら思っている節があった。
ソフィアは連合軍を捕虜にし、次々に裁判へと掛けた時、本当はこれでいいのかと悩んでいた。
ソフィアはオルキの残虐さを目の当たりにした時、牛や馬や羊を食用に屠殺する時、すぐに血の気が引いて唇が青くなる。
だからアイザスでも商人の船が来た時も、熱心に口紅を選んでいた。イングスはそれも知っている。
「ソフィアは、自分の事は透視できないんだよ」
「そうかもしれませんね。だから私達がちゃんと見ていて、ソフィアさんがとても素敵で良い人だって、知っていなくちゃ。さあ、帰りましょう」
「はーい」
イングスとアリヤが集会所を出た時、物陰から黒い影が現れ2人の後ろ姿を見つめていた。
「……フン、吾輩を人間と人形が庇おうとするか。吾輩もまだまだという事だの」
それはオルキだ。オルキは子猫が眠ってからコッソリ起きて集会所の様子を伺っていた。
「さて、吾輩は国民に嫌われ役を押し付ける気はない。善良な国民はいつだって吾輩に感謝だけしておればよいのだ」




