勝手に動く操り人形
市長がコンクリートで固められた岸壁から海を覗き込む。
海水面までの高さは2メータ程、落ちて間もないのか、係留された船の合間で必死に浮かんでいる。皆が岸から手を伸ばしても届かず、親子は船にぶつかりながらだんだんと北へ流されていく。
「今助けを呼びますよ! 落ち着いて……」
「お、おい!」
1人の男が勇敢にも海に飛び込んだ。すぐ近くに浮かんでいた母親には手が届いたが、流れが速く女の子の腕を掴めない。
岸壁には波を打ち消すため、所々大きく穴が開いている。そのまま3人を吸い込もうとするかのような流れには、残った群衆も飛び込んで助ける事を躊躇ってしまう。
「掴まれ! そごのロープさしがみつけ! すぐに引き上げてやっから!」
船に飛び乗った男が必死に手を伸ばす。数人の男が頷き合い、飛び込もうと靴を脱ぎ始めた。だが、それよりも早く動く者がいた。
「イングス!」
イングスが何の躊躇いもなく徒歩の延長で足から飛び降り、少し泳いで女の子の手を掴んだ。
女の子は海水を飲んでしまい、むせて泣きながらも必死にイングスへとしがみつくく。
「あのっね……っぷ、……あっぷ」
その状態では泳げない。イングスは女の子を強引に引きはがした後、なんと女の子を群衆にむかって放り投げた。
「うおっ!?」
「キャーーーッ!」
超音波かと思う程甲高い悲鳴と共に、女の子が綺麗な放物線を描いて群衆に受け止められる。その間に、イングスは助けに飛び込んだ男と、女の子の母親のもとに向かう。
「水の中をあんなに滑らかに泳ぐなんて……ペンギンかアザラシみたい」
「イングスって、泳げたんだな」
アリヤとケヴィンが感嘆の声を漏らす間に、イングスは淡々と救助活動を開始する。
「あ、あなたは」
「イングス・クラクスヴィークだよ」
「えっ」
イングスは当然のように母親の方を持ち上げ、再び群衆の方へと放り投げようとしていた。船に飛び乗って手を伸ばしていた男が慌てて制止し、船の後ろから乗るように指示を出す。
「この船の後方に回れ! 登れるから!」
「はーい」
「だ、大丈夫、俺は泳げる!」
3人が無事に船に乗り込み、群衆から拍手と歓声が湧き上がる。皆の手を借りて岸に戻った後、親子は泣きながら抱き合った。
飛び込んだ男も皆に讃えられ、近くの店の者達が体を拭くためのバスタオルを持って駆け寄る。アリヤは躊躇いなく自身の上着を脱いで女の子に羽織らせた。
「ほら、お姉ちゃん体温高いの、手を握ると温かいでしょ」
「うん、うえ~ん……」
「あなたも、体を拭いたらこれを着て。ケヴィン、あんたの上着もそっちの人に着せちゃり」
「おう」
「落ち着いたらおうちに帰れるからね」
「有難うござりす、有難うござりす……!」
親子は寒さで震える手を合わせ、唇を震わせながら何度も礼を言う。
一方、イングスは言葉を返す事もなく、再び海へと飛び込んだ。
「おい!」
既に親子は助かっている。他に落ちた者も見当たらない。なぜ飛び込んだのか、誰もが理解できない。
「イングス!」
群衆を掻き分け、ソフィアが海面に向かって叫ぶ。
「何で飛び込んだんだ!?」
「吾輩は何も指示を出しておらぬ」
1分、2分と時間が経ち、イングスの目的も分からないまま、次第に皆が溺れたのではないかと心配しだす。
「あんぱぐなすが、なじょして飛び込んだ? 息が続かねえべや!」
「あ、あたしがかだって、でもわがんねって……」
「何を言ったんのしゃ?」
女の子が寒さに震えながらか細い声を振り絞る。母親が優しい口調で促すと、ようやく理由が判明した。
「さぎっぺから、ねこっこが……わたしえらすけえって見てたんだども、おっつかって、おっぺったんず」
「えっ……」
「ごめんアリヤ、何言ってるか分かるか?」
「縁を歩いていた子猫を可愛いと思って見てたら、一緒に落ちちゃったようです。それをイングスさんに教えて、でもきっと助からないだろうって言ったのにって」
「子猫を助けに?」
誰も子猫を見ていない。浮かんでいる様子もなく、もし波に飲み込まれたならもう死んでしまっただろう。
「もう3分経ったど! もう流されてわがんねよ!」
イングスが子猫を助けようと飛び込んだと分かり、猫より自分の命の方が大事だろうにと嘆く声が広がる。親子に至っては、自分達のせいだとまた泣き出す始末。
「アリヤ王女のてまどりが死んずまったとなりゃ、ししゃますこだべ……」
「イングスさんは使用人ではなく、同じ国民です。私はオルキ国において王女ではありません。そんな事よりも」
「いくらイングスでも、海の中から猫を見つけ出せねえよ……溺れてんじゃねえか」
規格外の人形だとしても、心配にはなるものだ。無茶を無茶と理解できないため、火の中であろうと指示があれば躊躇いなく飛び込む。
今回は水の中だった、ただそれだけだ。
「島長、どうしよう」
オルキは特に慌てる様子がなかった。それは魔獣にとって人形がコマでしかないからではない。この出来事自体が心底どうでも良かったのだ。
「特に騒ぐような事ではなかろう」
「イングスが二度と戻って来なかったらどうするの!」
「貴様らが案ずるまでもない、イングスは何があろうと吾輩の従順な傀儡だ。イングス、人間共が煩い、早く戻って来い」
オルキがそう言うが早いか、数秒も経たずしてイングスが岸壁下部の大穴から顔を出した。
「イングス!」
「はーい」
「はーいって、お前何やってんだよ!」
「猫」
腕には子猫を抱えている。
「まんず子猫ばすけるために海へ!? おめさが死んずまうでねえか!」
「生きた事もないのに死ぬのは無理だよ」
そう言うと、イングスは軽めに子猫を放り投げ、群衆が慌てて受け止める。子猫は弱々しくも鳴いていた。
「あんれま、生きてるでねえか!」
「イングス、戻っておいで! ……って、ん? 何拾ったの? 脇に抱えてるのは何?」
よく見れば、イングスは脇にまだ何かを抱えている。
「あざらし」
「え? なんで?」
それはまだ小さいアザラシの子供だった。
「何であざらしなのかは、僕には分からないよ。もしくはあざらしじゃないのかな」
「いやそうじゃなくて、出られなくなってたって事?」
「出られなかったのかは僕には分からないよ」
子供のアザラシが流されて穴の中に入り、出られなくなっていたようだ。イングスはそれを助けるために時間を掛けていた。
イングスは子アザラシを係留された船に乗せてやり、何事も無かったかのように岸へと戻る。
「心配したじゃない!」
「そうなんだね」
「そうなんだねじゃなくて、心配かけちゃ駄目なの!」
「ソフィアが心配するかしないかなんて、僕には分からないよ」
特に変わりないいつものイングスだ。しかし、一行はどうにも気になる事があった。
「なぜ指示も受けていないのに子猫を助けた。あざらしなど誰も言及しておらぬだろう」
誰も指示しないまま、勝手に動いたのだ。
今までなら、臨機応変な行動も、基本の指示があった上でのものだった。
ただ、子猫を助けたその理由もまた、イングスらしいものだった。
「フューサーが猫の手も借りたいって言った」
「……だから、猫を助けたの?」
アイザスに向かう前の準備は大忙しだった。フューサーは常に時間が足りない、猫の手も借りたいと言いながら服を作り続けていた。
あいにく島には猫がおらず、イングスは1度だけオルキを連れてきた事があったが、フューサーに島長は猫じゃないと言われてしまった。
猫の手を借りたいというフューサーの言葉を指示だと判断し、今の今までそれが有効だったという事になる。
「子猫が可哀想とか、女の子の頼みだからって訳じゃねえのか。じゃあ、子供のアザラシは?」
「そこにいる」
「じゃなくて、どうして一緒に連れてきたんだ?」
「あざらしいから」
「……は?」
「島で見たあざらしとは違うけれど、あざらしいでしょ」
「アザラシみたいって言いたいの?」
「僕はあざらしみたいか、みたくないか、分からないね」
理由が意味不明な上に珍妙な造語を操るせいで、イングスの行動の意図が誰にも伝わらない。転落騒動もどこへやら、辺りは困惑に包まれていた。




