プロローグ 過去 〜優愛の少女〜
心なんて、なければよかった。
『エヴェリンの備忘録』より
†
――6年前。
冬の横浜の街には雪が降っても積もるということはそうそうない。しかしこの日は珍しく雪が積もり、街を白く染め始めている。その寒さのせいか歩道には疎らにしか人がおらず、皆屋内に引き篭っていた。それでも子どもたちなどは寒さなど気にした様子もなく外で駆けずり回って雪遊びに興じている。しかし気温も零度を下回っているために、暖房が利いた部屋の窓は曇って中からは珍しい外の様子も子供たちの雪遊びも見えなかった。
そんなCONEDs第一ビル。今ではそう呼ばれているその場所も、この時はまだCONEDs事務所、もしくは研究室と呼ばれていた。
そしてその研究室の一室、浜崎代表の部屋には今クラシック音楽、ニールセンの『不滅』が流れている。浜崎代表は集中したい時などに音楽を聞くことが多く、今日はクラシックが選ばれたようだ。
暫くはその曲が流れ続くばかりで、他の音といったら浜崎代表が操作するパソコンのキーボードの音や外の喧騒だけしかなかった。こんな光景が朝から続いている。会社内も静かで人の気配もほとんどない。
それもそのはず。今日は休日なのだ。浜崎代表がいるのはやり残しの仕事をしに来ただけなのである。
「ああ、もうこんな時間か」
ふと時計を見ると正午を軽く過ぎていた。まだ昼食も取っていないのだが、集中し過ぎたようである。
まあ、し過ぎて悪いことは何もないのだが。
浜崎代表は一度伸びをして後ろを振り向いた。そこにはソファーがあって、彼の娘の一人がスヤスヤとその上でうたた寝をしている。その少女の髪は優しい木漏れ日を創る夏の若葉のような翡翠色で、黄色に近い浅黄色の色彩は静かに閉じられている。そして彼女の体温を求めるように一匹の子猫が彼女の胸元で丸まっていた。
そんな平和な光景を見て浜崎代表の心は自然と和んだ。これがきっと微笑ましいというものなのだろう。それから彼は持ってきたカバンを手に取ると台所に向かった。
今日の昼食はうどんだ。手軽に作れるように具材などは既に切ってある。今作るのはうどんの麺とだし汁だけ。
まずは持ってきた野菜を水が沸騰したら鍋で茹でる。十分火が通ったところで灰汁を取り、弱火にした後に薄口醤油、味醂、砂糖などを入れ、鰹節で風味を付け添える。そして香りを嗅ぎ、味付けを調整していく。あまり自慢になるようなことかは分からないが浜崎代表は匂いを嗅いだだけで味付けが分かるという特技があったりする。どんなものかと言えば夢の国の映画で出たパリのネズミシェフのような特技だ。
まあ、流石に毒物の臭いはあまり嗅がないから嗅ぎ分けは出来ないし、最後は確認の意味で味見をしている。
因みに肉は鶏肉がないので今はハムで代用している。微妙な味になるのは仕方ない。
麺も茹で、完成間近のところで浜崎代表は後ろに気配を感じた。振り返ってみればそこには子猫を抱えた娘がいる。起きたばかりのせいか眠そうな眼を擦っていた。
寝癖が出来ていてちょっと可愛いらしい。そして彼女は興味を引かれたように鍋の中身を覗き見る。途中湯気を嫌って子猫が飛び降りたのだが、彼女は気にしなかった。
「…いい匂い」
「お、そう感じるか」
そうして浜崎代表は丼にうどんをよそってリビングに持っていく。その後ろをその少女、エヴェリンがトコトコと可愛げについてきた。それを肩越しに確認して浜崎代表は微笑ましく笑みを浮かべた。彼の勝手な感覚だが、ここにいる子猫と同じくエヴェリンも子猫のような可愛らしさがあり、和んでしまうのだ。
でも自信がないところは少しずつ改善して成長してほしいと思っている。
「じゃあ、食べようか』
エヴェリンはコクリと頷き、父の向かい側であるローテーブルの座布団に腰を下ろした。そして二人は合掌し、呟いた。
「いただきます。……いただきます」
「…いただきます」
静かな食事が始められた。味を噛み締めて浜崎代表は薄く笑みを浮かべる。思った通りの味付けが出来ていたのだ。そして同時に鶏肉があったらもっといい味になるんだろうなとも思った。その方がしっかり味が染みてとても美味しいのだ。所謂鶏ガラのようなあの味である。しかしないものを強請っても仕方がない。
クラシックの美しいシンフォニーに美味しいうどんというミスマッチな昼食を堪能していると目の前で黙々とうどんを頬張っていたエヴェリンが不意に顔を上げた。そして口を開いて。
「…どうやって、これ作るの?」
銀鈴のような声に浜崎代表は心地よさを覚え、顔を上げる。彼女は答えを待つように真っ直ぐ見つめてきていた。
「簡単だよ。でも、口で説明するより実際やってみる方が誤解もなく伝わるから今度一緒にやろうか」
「…今知りたい」
「う〜ん。味付けは味醂と薄口醤油と、九州の人が好む砂糖と、あとはカツオの出汁。それから七味とか鶏肉の油とかあればもっと美味くなる。具材は人参、大根、小松菜、しめじ、にんにく、生姜、鶏肉、椎茸、ネギ……まあ、こんなに入れる必要はないけど、これだけ入れれば結構美味しくなるんだよ」
そう説明するとエヴェリンは自分の丼の中身を覗き込んだ。今言った具材を探しているのだろう。また、一口口に含んで味も確かめている。とは言っても鶏肉はなく、ハムが浮いてるのだが。
「…鶏肉?」
「ああ、今日はハムだ。ごめんな。鶏肉は買うの忘れた」
こういう大事なものを忘れてしまうのはヒトというものの性なのだろう。しかし改善すべきではあるのも事実ではある。
そうしてその後は二人の間に会話はなく沈黙が降りた。特に気まずいということもなく、これがいつもの二人の関係で落ち着いている。
まあ、いつもはハルカがいて自然と騒がしくなるのだが、彼女は母の日和の許にいる。今頃騒がしいことになっていることだろう。
そして食事も終わりかけたその時だった。エヴェリンの膝の上で丸まっていた子猫が何かに気づいて頭を上げたのである。その視線の先に両耳が向いており、興奮したように真っ黒な瞳孔が大きく開けられている。さらに子猫はその気になる方向に少し頼りなさげに走り出してしまった。
ミィ〜!
前足を壁につけ、その上にあるものを触りたいのか、てしてしと壁を叩いていた。猫の本能が疼くものがあるらしい。
それを不思議に思って浜崎代表とエヴェリンは子猫の視線の先を見た。そしてそこにあるものを見て浜崎代表は本能的に驚き、エヴェリンは納得した。どちらも冷静で一般人のように驚き騒ぎ、悲鳴を上げることもなかったわけだが、普通はそれはかなりおかしいことではなかろうか。
なぜなら子猫が見やる先――この部屋の白い壁面――に黒光りして素早いあれがいたのだから。
そう。何であろう、蜚蠊である。
こんな季節にも関わらず成虫が堂々と現れるとは、と思わず浜崎代表は感心し、原因を推測していく。しかし子猫の方は興味津々なのか相変わらず前足を伸ばしているが全く届いていない。壁を支えにしても子猫の七等身分は上にいる。その様がちょっと可愛らしかった。
できれば触らないでほしいと思うのは、衛生面のためである。
「さて、どうしようか」
「…どうするの?」
「どうする?」
少し無責任に浜崎代表が聞き返せば、エヴェリンはティッシュ箱から数枚のティッシュを取り出して立ち上がった。それを見て浜崎代表は彼女が何をしようとしているのか察してアドバイスを送ることにする。
「前に教えた最速の動きでやった方がいいと思うぞ。それと結構賢いからな。自ら落ちて逃げることもある」
エヴェリンはそれを見据えたまま頷いた。
ゴキブリというものはとても本能的に嫌われている種ではあるが、長く付き合っているとその行動パターンはよく読める。それさえ分かってしまえば捕まえるのはとても簡単だ。ホイホイを1メートル離していていても最初にけしかけるだけでその中に誘うことだってできる。
世の中では何度も退治した者しか分からないことだから、逃げてしまうヒトは捕まえ方を知らないのだ。そしてこの二人はというと、よく知っていた。
しばしの睨み合いがエヴェリンとゴキブリの間で行われた。どちらも相手を伺って動かない。一方は逃げる隙を探り、もう一方は捉える算段を練るように。実際ゴキブリは睨んでいると動かないで警戒する生き物だ。そして危険を感じると急加速で逃げる。
だから先に動いたのはエヴェリンだった。浜崎代表が教えた身体の使い方で目の前にいる人間なら知覚するのも困難な速さで腕を振るい、手にしたティッシュでそっと包むようにゴキブリを捕まえた。それにゴキブリは一切反応出来ずに捕まえられた。
もはや神がかった手さばきである。
「やっぱり憶えるのが早いな」
そう褒めるが、エヴェリンは僅かにはにかむだけで、ティッシュに包まれたゴキブリを差し出してきた。
「…どうしよう?」
「ん?衛生上殺すのが一番なんだが………………お前はどうしたい?」
浜崎代表がなぜそんなことを訊いたのかといえば、”殺す”という単語を使った時にエヴェリンがとても嫌そうな顔をしたからだ。というよりどちらかと言えば悲しそうというのが適切か。
「…逃したい」
「そうか。まあ、構わないが、できれば遠くの方が良いな。ここで大量発生されても困る」
「…わかった」
そのままエヴェリンは部屋を後にした。どこまで行って来るかは分からないが、そこに浜崎代表は頓着しなかった。なぜなら冬にゴキブリが出た時点で目に見えない場所で大量発生しているのは確定だからだ。このマンションは古いから下水道からこの部屋に通じる隙間がどこかにあるのだろう。もしかしたらマンション全体がそうなっている可能性もある。下手に突いて何百匹も溢れ出すのは流石に見たくなかった。
だから明日あたり大家さんに相談してみよう。
最悪の場合、複数の業者を呼んで工事しなければならない。
まあ、知らんぷりする選択肢もあるが、それは日和が怒りそうだ。
それにしても。
「相変わらず優しいな。いつかそんなことにならなければいいが……」
浜崎代表はかなり心配していることがあったが、今はまだ自分がいるからどうにかなると思い、考えるのを止めた。そして残された――少し不思議そうな瞳をした――子猫を抱き上げて思いっきり甘えたのだった。子猫が迷惑そうにしたのは当然のことだろう。
彼女は小さな命をも慈しんだ――。
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