奪還と少女の秘密
その頃、ハヤトが乗るタクシーも渋滞に巻き込まれていた。それに歯噛みしながら、イライラと焦燥を解消しようと深呼吸するもなかなか気持ちが落ち着かない。時間と共に指数関数的に募る焦りと不安、そしてエレナを失うかもしれない恐怖がじりじりとハヤトの精神を削っていく。冷静を保つのもそろそろ限界になろうとしている。いつしか深呼吸は荒い息遣いに変わっていた。
そこに《アサヒ》の声が耳元で響いた。
『ハヤトさん。ここで降りましょう。敵もこの渋滞に巻き込まれて動けません』
「ああ、分かった」
ハヤトは料金を《アサヒ》が用意した母のクレジットで支払い、車から飛び出した。この時点で学校の処罰に加えて、勝手にクレジットカードを使った《アサヒ》の責任を取るために警察にお世話になる未来が見えそうだった。
普通なら確実に逮捕は免れないだろうと思う。もちろん実際のところはどうなのかはわからないし、未成年なら見逃されるかもしれないが。
しかし《アサヒ》の所有権がハヤトにはないのでどうなるかは分からなかった。
『しばらくは半径3km 圏内の渋滞は終わりません。ここから1km 走れますか?』
「余裕だ!」
ハヤトは伊達にバトミントン部に所属しているわけではない。1500m 走は5分台だし、部活は30分間走――30分ダッシュに近い速度で走り続ける――をしている。単純計算で10km 弱は30分で余裕で走り抜けられるのだ。
もちろん、歩道には人が溢れていたため少しスピードが遅くなるのは否めない。
辺りには車のクラクションと人々の喧騒が満ち溢れ、車両が多いせいで空気がとても悪い。思わず咳き込んでしまうほどだ。しかも道路に密集している車が熱せられて、辺りは物凄く暑い。下手すれば四十度はあるかもしれない。
因みに、実はこの時代になっても未だに電気自動車はあまり普及していない。低価格の固体電池の登場で日本の自動車の三割は実現している。しかし世界的に見てかなり電気自動車の普及は遅れていた。
寧ろ電気自動車事態が企業のイメージ構築ということだけで宣伝され、技術的に普及はありえないという状況から始まったのはあまり知られていない。海外でそれが日本より普及している理由は国民が国や企業の宣伝に乗せられているからとか父がぼやいていた気がする。
事実は知らない。
因みに水素による内燃機関を搭載した車もそれなりに普及しており、電気自動車とは競合しているらしい。しかしそのどれもが特有の特徴を持っていることから使われる分野を分けることで棲み分けができているのが今の日本であった。
そして現状既に蒸し暑い空間に温室効果ガスが撒き散らされているのは明らかである。それを想像しただけでより気温が高くなっているように感じるのは気のせいだろうか?
そんな蒸し暑くて、空気が悪く、人で溢れた道をハヤトは走る。しかしそれは彼にとってあまり障害にならなかった。いつも体育館は地獄のように蒸し暑いし、換気もしないから空気が悪いのはいつものこと。人混みもフットワークで覚えた足さばきを使って縫うように駆け抜けていく。この時ばかりは身体のばねに感謝した。
そして数分の後、《アサヒ》が声を上げた。
『止まって下さいっ!あそこです。あの黒いハイエースですっ』
ハヤトが見回せば、確かにそこに黒いハイエースが止まっていた。すぐさま走り出そうとしてハヤトの冷静な部分が疑問を覚える。
このまま突っ込んでいって本当に大丈夫か、と。
もしこのまま行ったとしてもそもそも開けられないだろうし、強引に助けたとして武装していたら手も足も出ない。例え奇跡的にエレナを連れ出せても背後から襲われるのがオチではないか?
そう考えると戸惑われて動けない。悔しさで拳を握りしめた。何の力もない自分にただ怒りだけが湧き上がって来る。この世界はどうしてこうも不条理なのだろうか!
『ハヤトさん。目を閉じて、耳を塞いでっ!ついでに口も大きく開けて下さいっ!そして十秒後に後部のリアハッチをこじ開けて下さいっ』
「は?」
『9,8,7……』
突如何の前触れもなくカウントダウンが始まった。最初は疑問に思ったハヤトだったが、父の薀蓄を思い出し、顔を真っ青にして言われた通りにした。そして無意識に蹲って顔を下に向ける。底知れない危機感が湧いてきたのだ。
それでも骨に直接振動が伝わって《アサヒ》のカウントダウンをする声だけが聞こえてくる。
『3,2,1』
周りが変な目で見てくるが、ハヤトには見えない。そんな目で見られていることを薄々感じていたが、それでもこの後のことを考えると致し方なかった。兎に角必死で耳を塞ぐ手と瞼に力を込める。
『0』
その瞬間、ガラスが割れる音と何かが凹む音が響き、その後直ぐに目が眩むほどの閃光と耳を劈く大音響が鳴り響いた。
耳を塞いだハヤトでさえもあまりの音に耳がおかしくなりそうな空気の振動が全身を貫いていく。
そして予想以上の衝撃にパニックになりかけてしまった。
音響閃光弾。それは視力を奪うほど閃光と聴力を奪うほどの劈く音を発する非殺傷武器である。主に警察がテロリストなどを無力化する時などに用いるそれは5,6秒の間だけではあるが敵を無力化する。しかも構造も材料も簡単だからやろうと思えば簡単に作れるかもしれない。
非殺傷武器とは言うが、至近距離ではその限りではないし、紙や布に点火しなくても可燃性液体や高密度のガソリンやエーテルのような蒸気には引火することがあるので使う時は要注意だ。
その短い時間しかなかったので、ハヤトはすぐさま立ち上がり、駆け出した。
一瞬だけ見たが、辺りは阿鼻驚嘆の大混乱だった。中にはアクセルを踏んでしまって衝突する車があったり、気絶して泡を吹いてる人もいる。
ハヤトが黒いハイエースの後部扉であるリアハッチに辿り着くと、混乱の中運良く開けられそうな空間があることが確認できた。さらにそこのロックが物理的に何かで撃ち抜かれたかのように破壊されており、力を込めれば簡単に扉が開いた。よく見れば窓も割れていて、車の中でも爆発したようだ。
「エレナっ!!」
中に居たのは、運転席の二人と、後部の座席にいる二人の男女と、拘束されたエレナだった。エレナは気絶しているらしいが、二人の男女は動けずともまだ意識があるようだった。全員が耳から血を流しているところを見るに相当なダメージを負ったのだろう。密閉された狭い車内で爆発が起きたのだ。その威力は広い場所で爆発させたのとは比べ物にならない。例えば掌の上で点火したとすると火傷程度で済む爆竹も、握り締めれば指が吹き飛ぶのと同じように威力が何倍にも増す。
そしてハヤトはそこに居た全員が動けないのを目で確認し、うつ伏せにしたエレナ抱き上げて力強く呟いた。
「今から助けてやる!」
ここでも父の薀蓄が役に立った。普通に持ち上げたのでは力の抜けきった人体を運ぶのは一苦労だ。やり方を間違えれば体力を消耗して時間を多く費やして敵に時間を与えてしまう。
だから消防夫搬送という担ぎ方を使った。これは実際に消防士や国防軍でも長らく採用されているもので、特徴としては「意識不明の人を一人で運べる」ことや、「片手が自由になる」というものがある。彼女が手錠されていたため変則的な運び方になったが、バランスに問題はなかった。
レンジャーロールは素早いが流石にこの空間では出来ないし、そもそもエレナにやるのは可哀想だ。
因みにどうしてこんなことを知っているのかと言えば、前述したように父の薀蓄のおかげだ。しかもその時に知識としてではなく、身体で覚えさせられたために今では流れるような動作で出来る。
その時思ったのは、もう二度と父のレンジャーロールを受けたくないということだったりする。
『ハヤトさん。左の道を進んで直ぐ右に曲がって下さい。これからハヤトさんを誘導します』
「分かった。頼む」
その後、どこをどのように走っていたのかあまり覚えていない。分かることはただ我武者羅にエレナを助けるために走っていたということだけだ。
しかし1km 走った後に、軽いとは言え女の子一人を担いで走るとなると疲労を無視できなくなる。荒い息を吐いて、玉のような汗が止まらない。対策はしたとはいえ、ハヤトも音響閃光弾によって少なくないダメージを受けてしまっている。だからいつもより足取りが悪く、気を抜けば膝を突きそうだ。
足が重い。
思うように膝が上がらない。
耳鳴りが酷くて真っ直ぐに走れているのかも分からない。
それでも止まるわけにはいかない!
『ハヤトさん。一度そこのマンションの駐車場に入ってください』
「すぐ追いかけてくるぞっ!?そんな暇なんてないだろ!?」
『どのみちエレナさんを抱えたままでは追い付かれます。それにこのマンションの屋上で私達の仲間と合流します』
「仲間?」
先程の出来事からして何となくエレナ救出の手助けをしてくれた協力者がいることをハヤトは察していた。
ただ誘拐犯を無力化した方法が音響閃光弾とか、それに伴って≪アサヒ≫がカウントダウンしていたところから考えて確かに仲間がいると分かるが、流石にあれは犯罪ではなかろうか?
とりあえず代案も思い浮かばなかったので、駐車場の外からは死角となる所でエレナを降ろし、ハヤトも地面に腰を下ろして一息吐いた。
「ふぅ」
やっと訪れた休憩にハヤトは全身の力を抜いた。必至で今まで気づかなかったが、1km 弱走った後にエレナを担いで更に全力疾走したために全身が疲労による倦怠感に襲われていた。それにこの気温のために体力が刻々と奪われているのも否めない。
しかし日陰となるここで身体を休めれば、多少は心地好く冷やされたコンクリートが要らない熱を吸ってくれて、呼吸もすぐに落ち着いてくる。汗をハンカチで拭いながら隣に座るエレナを見やった。時間がなくて外してやれなかった目隠しと猿ぐつわだが、少し余裕が生まれたハヤトはエレナからそれを優しく外してあげた。
見たところ耳から血が流れていること以外外傷はないようで、それにハヤトはホッと胸を撫で下ろす。たぶん彼女の鼓膜は既に再生しているだろう。未だ目を覚ます気配はないが、彼女がここにいるだけでもハヤトには安心できることだった。
「≪アサヒ≫。あいつらは何者だ?ただの誘拐犯なのか?」
少し気になって尋ねてみる。しかし返ってきたのはハヤトを心底驚かせるには十分過ぎる返事だった。
『違いますよ。きっとCIAの下っ端の下っ端が手配した誰かです。たぶん』
さらっととんでもないことを言ってのけたな。
そして意味が分からない。
「なんでエレナを狙うんだ?」
『それは守秘義務なので言えません。ですが、エレナさんなら教えてくれると思いますよ』
「そうなのか?」
『はい。あ、それとMSS第三局とSVRも近くに来てるみたいですね。あと色んなところの諜報機関も。人気者ですよ。ほんと』
ハヤトは途端に頭の痛くなる話を聞いて、盛大にため息を吐いた。それもそうだろう。父の薀蓄によれば前述の二つも大国の対外諜報機関だ。なぜそんな奴らがエレナを狙うのかさっぱり見当がつかない。それほどの情報を彼女は持っているのだろうか?
『安心して下さい。今裏工作を何百何千何万と講じてますから、日が沈むまでにはなんとかしますよ』
「なんでだろう。それこそ不安なんだが……。というかいつも思ってたけど、それが本当ならお前のスペック高すぎだろ」
『何を言うんですか!?私のどこに不安要素があるんですっ?私が本気出せばそこらのAI を赤子の手のように捻り潰せるんですから!永続円高も夢じゃありません!信用して下さいっ!!』
その発言そのものに不安を抱かざるを得ないのだが、《アサヒ》は分かっているのだろうか?それをやった後で露見して警察に捕まるとか絶対にしたくない。彼女がやろうとしてることはきっとそういうことだ。
でも母のクレジットカードを使ってしまったのだから窃盗罪は確実。そして懲役十年以下もしくは五十万円以下の罰金は免れ得ないだろう。
しかしハヤトには後悔はなかった。
例えこれで人生が歪められてもエレナをあのまま見過ごすことは絶対にしたくなかったのである。
『エレナさんをまず起こしましょう。見つかるのも時間の問題かもしれません』
「そうか。エレナ。起きてくれ」
ハヤトは早々に頭の中を整理してエレナを揺り起こそうとした。
全然自分とは関わりのなかった世界に今自分が巻き込まれていると思うだけでどうにかなりそうなのに、これ以上非現実的なことを聞いてたら冗談抜きでおかしくなりそうなのである。しかしかと言って現実逃避するほどハヤトは愚かではない。
そしてそんなに時間も掛からずにエレナの瞼が震えて、徐に開かれた。
「……ぇ?ハヤト?」
「大丈夫か?」
どこかぼんやりとした面持ちで辺りを見渡し、自分が手錠されていることに気づいて攫われたのだとエレナの理解が及んだらしい。そしてびっくりしたように目を開いてハヤトを凝視した。
「ハヤトが助けてくれたの?」
「えっと、まあ、そうなる」
「ありがとう。でも、こんな無茶しちゃダメだよっ!?ハヤトに何かあったらどうするのっ!?もっと自分を大切にして!」
本当に心配そうに叱責する彼女にハヤトは顔を上げられなかった。確かに自分にはどこか猪突猛進のきらいがあるようだ。こんなことを続けていたらいつかきっと危ない目にあって、最悪死ぬかもしれない。反省すべきことだとは分かっている。父が死んだ日もエレナがいなければ死んでいたのだから。
けれど、仕方なかったのだ。自分を抑えられなかった。
だから、力強く顔を上げた。
「分かってるよ。でも、もう僕は誰も失いたくないんだっ」
それはハヤトの本心だ。父という大切な存在を失って、今度はエレナが連れ攫われようとした。そんなの無視できるはずがない。
許せるわけがないっ!
「誰がなんと言おうとも僕は諦めたくないんだ。お前がいなくなるなんて、堪えられないっ!どんな場所からだって連れ戻してやるっ!」
反論しかけたエレナもハヤトの意志の強さに言葉が続かなかった。そして自分をそんなにも大事に想ってくれていることが嬉しくて、知らずのうちに頬が僅かに朱に染まった。
少しかっこいいと思った。
「なあ、教えてくれないか?どうしてエレナは狙われてるんだ?それが分からないと対策も立てられない」
「それは……」
言い淀む彼女を見て、本当に言いたくないことなのだと察せられた。不安そうに視線を落とし、ギュッとスカートを握り締めている。
エレナは自分を攫った人間たちが誰なのか、意識を失う前に《アサヒ》に大体の予想を教えられていた。所属が分からずともどこかの諜報機関であったことは確かだった。
そして自分が狙われる理由も直ぐに分かった。それでもハヤトにそのことを語ることは憚られた。
だって、怖いのだ。
それでハヤトに拒絶されないか、そのことでもう二度と彼と会えなくなるのではないか。それだけのことだからこそ、エレナはどうしてもそれを口に出来なかった。
握り締めた拳が何時しか震えている。
そんな彼女にハヤトは優しく声を掛けた。
「エレナ。僕にはお前が何を考えているのかは分からない。けれど、信じてほしい。絶対にエレナを拒絶しない。最初はビックリするかもしれないけど、それでも本当のことを教えてほしい」
エレナはハヤトの言葉を聞いて内心驚いていた。それは彼に言ってほしかった言葉だったから。そして信じてみたいとも思った。どうせずっと隠すなど出来はしない。ならばここで言ってしまっても良いのではないか。
例えそれでダメだったとしても、きっとそういう人生だったのだろう。
「あのね、ハヤト。私……」
やっぱり怖い。こんなこと、この社会じゃ受け入れられないことだ。それをハヤトが認めてくれるか、とても怖い。喉の奥に言葉が支えて、思うように出てこない。
「私ね――」
一度ゆっくり息を吸って、言葉を吐き出した。
「――人間じゃないの」
そして少女は秘密を明かす――。
こんにちは。本日も本小説をお読み下さりありがとうございます。やっと今回エレナの秘密の一つが明らかになろうとしています。彼女が人間ではないということはどういうことでしょうか?これは空想科学です。ですのでエレナが人工知能ということも考えられますが、彼女には感情があります。そして人工知能は感情を演じるだけの存在ということを考えれば彼女は人工知能ではないのです。では、一体何でしょうか?
今回の解説ですが、電気自動車は未来でもガソリン車には敵いません。夢がない話ですが普及率は精々三割くらいだと私は思います。電池コスト、航続距離、充電時間、充電インフラなどを考えると民間営業自体が難しいように思います。技術と金があれば別でしょうが、そんな技術や金を持っている企業は限られてしまい、競争力があまりないかもしれません。つまり技術の進歩が遅れます。でももっといろいろな事情が絡み合う可能性もあります。
スタングレネードについても解説したいのですが、これってここではなんか言ってはいけない気がします。知りたい方は自分で調べて下さい。設計図さえあれば材料は学校の理科室で手に入るのではないでしょうか?化学反応を繰り返せば作れるとは思います。絶対にやらないで下さい。
ファイヤーマンズキャリーは本当に消防士や自衛隊で採用されていたと思います。どんなものかは調べれば直ぐに映像付きで出ると思われます。しかしこれをやると担がれた方は腹部が圧迫されるので非常時以外はやらない方が懸命です。それでも憶えておけば災害時や何かが起きた時に役立つでしょう。
最後に色んな所の諜報機関を書いたのですが、彼らが直接的に動くことはありません。関係ない人たちを巻き込みます。というか広い意味で巻き込まれない人はいません。今の私たちもです。彼らは秘密が多くて小説では描けないのですが、たぶんこれくらいはやるだろうと思って書きました。正直なところ、諜報機関は動くだろうとは思っているのですが、どこの機関なのかは正直私も分かっていません。
ちなみに今の日本はスパイ天国なんて言われますが、恐らく日本側もそのほとんどの動きを掴んでいます。ですがいろいろな理由があって強気になっていないんです。たぶん。
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