帰宅
ハヤトとエレナは合流して母の迎えをマンションの外で待っていた。あと数分ほどでやって来るらしいので、少しだけ暑いのを我慢すればいい。
しかし蚊が多くて鬱陶しい。さっきから何匹叩いたことか。
「エレナは蚊に刺されないのか?」
さっきから特に蚊を気にしていないエレナが不思議で、刺されたところを掻きながら問いかけてみる。するとエレナは思い出したように蚊を探すように周囲と自分の身体に目線をやった。
「う〜ん。私って蚊に刺されないんだよね。私の血は嫌いみたい」
「羨ましい……」
あの刺された時の、一日も続く痒みとなかなか引かない腫れに悩んだことが無いなんてたくさんの人から嫉妬を買いそうだ。現にハヤトも少し嫉妬している。
刺されたことが無いということは付きまとわれたりもしないのだろう。あの聞いただけで全身の産毛が弥立つモスキート音も聞いたことがないのかもしれない。
本当に羨ましい。
近くにいると思うだけで集中が欠けて勉強も何もかもが疎かになってしまうから、自分もそういう体質がほしいと切に思った。
そしてふと彼女の足元に視線が向いてそこにある荷物が目に入った。
「なあ、その荷物はなんだ?」
エレナの傍らには旅行用の大きなカバンに肩掛けカバン、更にはスーツケースまである。どこかに旅行に行くと言われても信じてしまいそうな荷物の量だ。
「これは私の私物だよ。ずっとここに住んでたんだけど、ハヤトの家に引っ越すことになったから持ってきたの。もちろんもうお母さんには話してあるよ」
「ああ、なるほど。そうだよな」
姉なのだから一緒に住むのは当然だろう。今までが普通じゃなかっただけで。
でもほとんど相手のことを知らない赤の他人同然だから、美少女と言っても過言にならない容姿の彼女が家に来ると思うだけで変に緊張してしまう。
掃除しとかないと。
そう、ハヤトは心の中で決めたのだった。
そして先程白井から貰った父の手帳のことを思い出した。
「そう言えばさ、エレナ。さっきこんなのを貰ったんだ。」
「ん?」
ハヤトは手帳を学校のカバンから取り出してそのメッセージが書かれたページをエレナに見せた。それを彼女は暫く読んでいたが、読み終わると直ぐにそれを閉じた。
「……め」
小さく呟いたその言葉をハヤトは聴き逃してしまった。というより小さすぎて聞こえなかった。
「エレナ?」
「だめって言ったの!」
急に彼女が声を荒げたことにハヤトは吃驚してしまった。どうして彼女がそんなに拒絶するのか分からない。それでもハヤトにはエレナの眼差しがひどく悲しげなものに思われた。
「ごめん。大きな声出しちゃって。……でも、私は賛成できない。ううん。したくない」
「……わかった。…………ごめん……」
エレナは手帳を返して顔を背ける。まるでもうこの手帳を見たくないという風に。
ハヤトとしても理由は分からずとも彼女を悲しませてしまった罪悪感でいっぱいだった。だから直ぐに手帳を仕舞い、これから彼女の前では出さないことにした。
しかしそれでも父は知らないといけないと言っている。だから今は無理でも時間を掛けていつか話し合おうと決めた。
「あ、来たよ」
エレナの言葉に顔を上げると遠くに見慣れた車のシルエットが見えてきた。それが昼の日差しに照らされて陽炎を生み出している空気を押し退けてやって来る。そしてハヤトたちの前に止まり、窓が開かれるとそこには母がいた。
「お待たせ。暑かったでしょ。早く乗って」
「うん。でもこれをトランクに入れないと」
「ああ、そうね。じゃあ、開けるから冷気が逃げないうちに入れちゃって」
ハヤトも手伝うために重いスーツケースを持って後ろに運んだ。トランクを開いて荷物を入れていく。
ふと中を覗き込むと後部座席に座って丸くした目を向けてくる花楓がいた。そしてそのままハヤトとエレナの両方を見比べるように視線をキョロキョロと向けて無言を貫いている。しかしその顔は天変地異でも起きたかの如く狼狽しているのが見て取れた。
流石に無視できず、荷物を乗せながら問いかけた。
「どうした?なんかあったか?」
「?」
エレナも不思議そうに花楓を見つめ返す。
しかし花楓は特に何も言わず正面を向いてしまった。それにハヤトは違和感を覚える。いつもの彼女だったらここで何も言わないなんてあり得ない。何かハヤトの想像の斜め上を行く言動をしてくるイメージがあるからだ。
例えば、ここで、
「お、お、お兄ちゃんがお嫁さんを連れてきたぁぁぁぁっっっ――――――――!!??」
とか言ってきそうなものなのに。
やはり花楓も父の死に衝撃を受けて本調子ではないのだろう。
しかし一つだけ気になることがあった。本当に気の所為かもしれないが、彼女が前を向く瞬間、ハヤトを睨んだ気がする。全く身に覚えが無いからやはり見間違えに違いない。
そう思うことにした。
「ハヤト、エレナ。早くしなさい。冷房が逃げるでしょ?」
「あ、ごめん」
母に言われて開けっ放しにしていたことを思い出し、慌ててトランクを閉めた。そして二人が乗り込むと車は眩んでしまいそうな日差しの中を進んでいったのだった。
因みに《アサヒ》のことを思い出したのは、その後の諸々の行事の手伝いで忘れていたために次の日の深夜だったりする。
そして普通でない平和な日常がやってくる――。




