邂逅
そこはとても暗く、とても明るい場所だった。
寒くて、温かい。
静かで、騒々しい。
カラフルでモノクロ。
存在するものも、しないものも。望めば何でもあった。
矛盾しているはずのものが、一様に調和し一つの世界を織りなしている。
地面がないようで、地面がある場所を、どんどんどこかに沈んでいく感覚を覚える。どこかに向かっている。その度に意識が薄れていくのが感じられた。
まるで砂糖が水に溶けるように、自分の形が曖昧になっていく。少しずつ自分という存在が希薄になっていき、己の輪郭を見失っていく。しかしそれは怖いことではなかった。
今なら何でもできる万能感と、何でもある満足感、そして何かを失ってしまったという寂寥感がとても強く感じられたから。
記憶も朧げになり、自分が誰かも分からなくなってくる。
深い深い海の向こう。何があるとも知れない場所にハヤトは沈んでいった。
これが死だというのなら、心地が良すぎる。
大切な誰かに抱かれているような嬉しさが募り、得体のしれない孤独感が心を満たしていく。けれど、やっぱり父を救えなかったことが悔しくて、それだけが心残りだった。
もうこの海を昇っていく力もない。もうすぐ自分は最小限の何かに変わってしまう。本能的にそれが分かった。
本当は生きたいのに。
やりたいことがあったのに。
父一人助けることも叶わず、死ぬのか。
助けられなかった。
どうか、父さんには生きていてほしい。
もうそれしか望めない。
もう僕には何も出来ない。
諦観じみた感傷に浸っていると、何かが聞こえた。
「―――」
音?
いや、声だ。
けれどハヤトにはその声が誰のものか分からない。
「―――!」
気づけば誰かがハヤトが沈んでいくこの海の表層付近にいた。
その姿をハッキリ見ることは叶わないけれど、ハヤトはそのシルエットに向かって手を伸ばす。そうしなければと、なぜか思った。
次の瞬間、だんだんと力が戻ってくるのが感じられた。春の優しい温もりに抱かれるような安心感と共に失っていた何かを取り戻し始める。
「――ト!」
声が聞こえるようになって初めて、その声の主が今にも泣きそうなのだと知った。
必死に堪えた悲しみの声音はハヤトの心をざわつかせる。
なんだろう。
この気持ちは。
懐かしい。
あの涙を止めてあげたい。
せめてそれだけは。
「ハヤト!」
もうそのヒトの悲しみは溢れそうだった。その決壊寸前の感情がハヤトにも流れ込んでくる。
だからハヤトは取り戻した力で精一杯彼女のいるところまで昇っていく。早く彼女の許に行きたかった。
「お願いっ!起きてっ……!」
どうしてそんなに泣きそうなんだよ。
わかったよ。
今行くから。
少し待ってて。
ハヤトは彼女に逢うべく、この世界を昇っていき、暫くすると視界が暗転した。
†
目を開けた時、目の前にあるものが何なのか、ハヤトには一瞬分からなかった。
明るいとは言い難いが、色が分かる程度の光の中、目を見張った。
まず見えたのは、青銀色の瞳だ。それは深く澄み渡った海のようで、吸い込まれそうな錯覚を覚えるほどの綺麗な宝石のようだ。そして淡い光を浴びて綺羅星か天頂の月の如く輝く、流麗に垂れた白銀の髪。硬質な煌めきとは裏腹に柔らかな毛先が頬を撫でて少し擽ったい。
体の上に重みを感じて、その体温が何故か愛おしい。
瞬間、その目が細められた。どこか幼気な顔が緩められ、優しげな微笑みはどこか安堵しているようだった。
「よかった……っ」
とても美しいと思った。異様なまでに綺麗で可愛らしい少女だと、頭がハッキリしてくると認識できた。そして彼女が夢に出てきた少女であると気づくとなぜか心が暖かくなって、嬉しさが込み上げる。
ずっと失くしていたパズルのピースが嵌められたように、この出逢いが必然に思えてならない。
けれど、ハヤトは彼女を知らない。夢で見たとは言え、彼女の名前も、年齢も、自分との関係さえ知らない。あと少しで思い出せそうで思い出せない。それはあると思って開けた箱の中身が空だったような感覚だ。知っているはずなのに、知らない。それはもどかしくて、とても切ない。
「君は……?」
声が掠れていた。喉がイガイガしていて酷く乾いているのが分かる。痛くて、思うように言葉を発せられない。軽く咳き込んでしまった。
それでも近くにいたおかげか、言葉は彼女に届いたようだ。
「私は、エレナ。ハヤトは覚えてないかも知れないけど、私はまたハヤトに逢えて嬉しいよ」
そう言うと彼女はニッコリと笑った。その花のような笑顔がまたとても可愛らしい。ドキッとしてしまった。しかしそれ以上に彼女がここにいることが安心できた。
でもその笑顔はどこか悲しげで、哀愁を帯びている。
ハヤトはその笑顔を知っていた。父も同じような笑顔をする時があったのだ。思い出話をすると決まってそんな顔をしたのを覚えている。だからハヤトは心配になって彼女の頬に手を伸ばした。
「ぇ?」
彼女は少し驚いた顔を浮かべる。予想外のことだったのだろう。
「大丈夫?」
彼女の頬がほんのり赤く染まる。すると今度は嬉しそうにはにかんだ。
「もうっ、それは私のセリフなのに。でも、ありがとう。ハヤトこそ大丈夫?」
「ああ、大丈夫みたいだ」
手を開いたり閉じたりして感触を確かめる。足先にまで意識を巡らせても問題はなさそうだ。痛みもないし、普通に動かせる。
その時、場違いなほど大きな聞き慣れた声が聞こえてきた。
『ハヤトさん、大丈夫ですか!?意識は!?記憶は!?ちゃんと継続してますか!?』
声の主を探すと床にハヤトのメガネ端末が丁寧に置かれてあり、そこから声が響いているようだった。声の主は言わずもがな、《アサヒ》である。そしてこの光源はハヤトの端末であるらしい。
「問題ない。特に痛みもないし」
『そう、ですか』
少し意外そうな声音だったが、それでハヤトも疑問に思った。
どうして自分は助かったのか。
すごい衝撃を受けたことしか記憶にないが、あれは間違いなく瓦礫が激突した衝撃だろう。それで今痛みがないのは不自然過ぎはしないか。
走っている時に落ちてきた瓦礫が意識を奪ったと考えると当たったのは頭部付近になるのだが、それでは生きている理由が説明できない。
物というものは、落下すると高い位置にあった時の位置エネルギーが運動エネルギーに変換されて、人体に致命的な衝撃を与えるものだ。
例えそれが小さくても舐めてはならない。速度さえあれば数グラムの弾丸だって人を瞬殺できるのだから。
そんなことを思っていると、今度は呆れたような声で《アサヒ》が言った。
『それよりいつまでそんなことしているんですか?人目がないからって大胆ですねぇ?』
「「?」」
一瞬、何を言っているのか分からずエレナとハヤトは目を見合わせた。パチパチと目を瞬かせ、首を傾げる様は絶妙なほどまでにシンクロしていたのだが、それに二人は気づかない。
そして自分たちの今の体勢を把握してハヤトとエレナはやっと何を言われたのか理解し、同時に顔を真っ赤に紅潮させた。
今二人の体勢は、ハヤトが地べたに仰向けに倒れており、その上にエレナが馬乗りに乗っている状態だった。顔の位置も近く、容易に互いの息吹が感じられる。少し古い言葉を使えば、それは床ドンというやつだ。
そんなに密着していることに、今更気づいた二人は慌てふためいてしまう。
「ご、ごめん!?」
「う、うんッ!?」
二人は直ぐに離れて背を向き合う。あまりに恥ずかしくて互いに顔を向けられそうになかった。
ハヤトは、エレナの華奢で柔らかい四肢の感触と、非凡な美しさを併せ持つ彼女を意識せざるを得ない。折れそうなほど細いのに、しっかりとした肌の弾力があり、暖かな体温が心地好いとさえ思ってしまった。扇情的な気持ちを抱いたことに罪悪感を持ちつつ、ハヤトはそんなことに気づけなかった自分に後悔し、今までに感じたことがないくらい恥ずかしかった。
そしてエレナも、ハヤトの細くも、部活で鍛え上げられた硬い筋とゴツゴツした体格を意識してしまった。顔も彼女が知る幼子のものではなく、爽やかさを感じる少年のそれだ。かっこいいと素直に思った。けれど、一番恥ずかしかったことは自ら彼に馬乗りに乗って、それを無自覚でいたことである。変な女と見られるのではと思えて、後悔と共に羞恥で穴に入りたい気分だった。
やはり青春真っ只中に生き、碌に異性と触れ合ったことがない彼らには刺激が強過ぎたらしい。
二人共早鐘のように鳴り続ける心臓の音が相手に聞こえないか気が気でなかった。
その様子を《アサヒ》は微笑ましく、面白そうに眺めているようで、見えないのにからかっている彼女の姿がハヤトの脳裏にははっきりと浮かんだ。
『初々しいですねぇ』
「ほっとけ……」
顔を向けることが出来ない。それでも気になってチラチラと相手を覗き見てしまう。
ハヤトが見て、やはり一番目を惹かれるのはその腰まである艷やかな白銀の髪だ。
丁寧に編まれたサイドの三つ編みをハーフアップにしている髪型に紫色の髪留めと紅色の紐が映えている。ここまで綺麗な銀髪は初めて見たかも知れない。染めたというより元々そういう色だったと思える色合いだった。
宇宙にある星々の輝きがそこにある。
そして彼女は顔だけでなくスタイルもとても良く、どうしてもそういう場所に視線を持っていってしまう。
悪いとは思っているのだが、そういう年頃だから仕方ない。
目が合った。
咄嗟に二人は視線を逸らす。それを何度か繰り返した。
そして、二人は出逢った――。
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