第94話:時
その錆びたロングソードを握った瞬間、ロードの身体から痛みが消えた。
ロードが初めて見るその剣は、名前も分からなければ能力も分からない。
見た目はボロボロで今にも折れてしまいそうに思えたが、ロードはその剣から強い力を確かに感じていた。
それと同時になんだか懐かしく、そして温かく、まるで何かに優しく包まれているような、そんな感覚をロードは覚える。
何故手帳がひとりでに動いたのか、何故勝手に剣が飛び出したのか、何故身体の痛みが消えたのか、それはロードにも当然分からない。
だが、もうそんなことはどうでもよかった。
「うぉぉッ!」
「ぬぅぅッ!」
赤い刃と錆びた剣がぶつかる度に激しい火花が散る。
ゼノは困惑していた。
互いに片腕しかなく、互いに傷は深い。
だが、それでもゼノの魔力はまだ残っており、傷口は既に魔力で塞いでいる。
肉体の強さも魔族であるゼノの方が遥かに上であるし、さらにそれを魔力で強化している状態。
対するロードの身体はボロボロで、残された魔力もほとんどない。
腹部には血の刃が突き刺さり、流した血の量からしても生きていることすらありえない状態だった。
「はぁッ!」
「ぐっ……!?」
ロードの蹴りがゼノに突き刺さり、ゼノの膝が折れる。
体勢を崩しながらも下から繰り出したゼノの斬撃を、ロードは左足で持ち手を踏んで防ぎ、ガラ空きの左側から錆びた剣を振り下ろす。
ゼノはつい咄嗟に黒い魔力でそれを弾くが、瞬間黒い魔力がゼノに襲い掛かった。
「がはッ……!」
自身の魔力に殴られたゼノは顔を仰け反らせ、間髪入れずにロードの斬撃がゼノの肩口に突き刺さる。
ゼノは反射的に後方に下がり致命傷は免れたものの、斬られた左肩からは大量に血が噴き出していた。
「あ、ありえぬ……あってはならぬッ!」
ゼノは明らかに押されていた。
ロードの傷口から滴っていた血は何故か止まり、彼の動きはゼノを遥かに凌駕している。
さらにロードの斬撃をその身に受ける度に、ゼノは言いようのない奇妙な感覚に陥っていく。
ゼノの斬撃は全く当たらず、どんなに先読みした攻撃もロードに全て躱されてしまう。
それどころか、ゼノが刃を振るおうとした時には既にロードが一瞬で移動しており、まるで自分の時だけが取り残されているような錯覚さえ感じ始めていた。
そうして何度もその身に錆びた剣が打ち込まれ、その度に魔力を使い傷を塞いでいく。
スキルを使って血を固めてしまうと周りの関節や筋肉まで固まってしまう。
剣としては優秀なのだが、その使い勝手の悪さと黒魔術の汎用性の高さが、何千年もスキルを使わなかった大きな要因だった。
そのせいで魔力はどんどん失われ、遂には傷を塞ぎ切れなくなり始めていた。
何合目かの打ち合いの最中、突如としてロードの右膝が折れる。
痛みがなくなったとはいえ、失った血や体力が回復した訳ではなかった。
その隙をゼノは逃さない。
剣を持ったまま地面に右手を突いたロードの首に、ゼノが握る赤い刃が振り下ろされる。
完全に崩れた体勢。間違いなく当たるとゼノは確信する。
だが、そこにいた筈のロードは一瞬でその場から消え、ゼノは背中を斬り裂かれた。
「あっ……がっ……!?」
完全に避けられない体勢の筈だった。
仮に避けられたとしても地面を転がったり、後ろに飛び退いたりするのが精々だっただろう。
だが、消えたのだ。
そして一瞬で背後に回り、ゼノの背中を斬りつけていた。
「があッ!?」
再びロードの斬撃を真正面から受けたゼノはよろよろと後退し、気付けば鎖に縛られたレヴィの真下にまで追い込まれていた。
魔術は使えず、剣では勝てず、その力の全てが打ち砕かれた。
まるで歯が立たないというその現実に、ゼノはそれを拒否するように身体を震わせる。
それを認めないように、認めてはならないように、認めてしまえば自分という存在が消えてしまうかのように。
「ありえぬ……ありえぬッ! 人間が……人間風情が余に勝つなどあってはならんのだッ! 人間は悪だ! この世から消えなければならない! 何故人間だけが得をする……何故人間だけが神の加護を与えられる!? こんな理不尽があっていいのか……弱いというだけで神に守られるなどということが! それでは……それでは魔族は何の為に生まれてきたのだ!? 人間は殺さねばならない……人間は抹殺しなければならない……人間は……人間はッ!!!」
最早狂気に近い異常な憎悪。
ロードがそれに違和感を覚えた刹那、ゼノは魔力を足に集め高く跳んだ。
それは本来なら、ゼノが絶対に行わないであろう行動。
しかし、その異常なまでの憎悪が彼を狂わせる。
ゼノはレヴィの髪を掴み、その首に赤い刃を突き付けた。
「動くなッ! 動けばレベッカの首を切り裂く!!」
「ゼノ……あなたは……!」
「黙れレベッカ! 負けるよりはいい……人間に負けるよりは! たとえ屈辱にまみれようともッ……人間は殲滅せねばならんのだ! レベッカよ……貴様はやはり人間を殺す為の道具であったッ……やはり余の選択は間違っていなかったのだ!」
「いや……あんたは間違っている」
「なんだと……!」
ロードは静かにその場で佇んでいた。
そして、彼は魔力を剣に込める。
そう、彼はこの剣の能力を理解し始めていた。
それはかつて、彼を救ったある人物と同じ力。
「もう分からないかもしれないが、あんたが捨てたものは……何よりも大事なものだったんだよ」
「黙れ……黙れッ!」
ゼノの身体から黒い腕が再び生え、その全てがロードに向けられる。
「妙な真似をすればこいつを殺すッ! 余が捨てたものだと……? 戯言をほざくな! 余は全てを手に入れる……その為に余は魔王となったッ!」
黒い腕から魔力の塊が溢れ出す。
「じゃあ……それが間違いだったんだろう」
「知ったような口を利くなぁぁぁぁぁッ!!」
刹那放たれた魔力の砲弾がロードに迫る。
だが、ロードに当たる直前でそれは止まった。
いや、それだけではない。
ロード以外の全てが止まっていた。
天井から落ちる砂埃も、全てを凍らす猛吹雪も、ゼノの動きも、レヴィの涙も。
彼はタラリアで空中を歩く。
一歩一歩踏みしめるように、そして確実に大切に駆け上がる。
そこに辿り着くまで、彼はどれほどの絶望を味わったのだろう。
何度も自分を責めた。
何度も後悔した。
何度も彼女に謝った。
そうして全てが静止した時の中で、彼はようやく彼女に追いついた。
「はっ!?」
ゼノが気付いた時、既に彼女はその呪縛から逃れ、誰よりも愛する人の腕に抱かれていた。
「待たせたな……レヴィ」
「ロード……様っ……」
離れていたのはほんの数日だった。
だが、彼らにとっては永遠とも感じられた時を超え、ようやく2人はその身を寄せる。
レヴィはロードの傷をいたわるように彼を抱きしめ、彼もまた剣を握ったまま精一杯残された腕で彼女を抱きしめた。
ゼノは動けなかった。
何故ならレヴィを縛り付けていた鎖が、今は彼を縛り付けていたのだから。
「な、あ、ま、魔力がッ……馬鹿な……なんっ! 何故!?」
ゼノは色々なものに縛られていた。
その身を縛る鎖だけではなく、地位が、種族が、思想が、魂が……その全てが彼を捕らえて離さなかったのだろう。
「余は……人間を……!」
未だに憎悪を口にするゼノに、ロードは背中を向けたまま口を開く。
「だからあんたは負けたんだ……憎しみは……決して力にはなり得ない……!」
その時、城が大きく揺れた。
ゼノが最後に放った魔力により、ギリギリで崩壊を免れていた城が崩れ始めていたのだ。
天井や壁に亀裂が入り、城は断末魔の叫びを上げる。
その時、ロードの身体から力が抜け、彼らはゆっくりと地上に降下し始めた。
「うっ……ごめ……レヴィ……」
「ロ、ロード様っ!?」
その手から錆びた剣が滑り落ちる。
レヴィを助け、魔王を無力化したことで緊張の糸が切れたのだろう。
満身創痍の肉体を支えていた精神が限界を迎え、彼はレヴィに身体を預けるように気を失った。
「くっ……!」
彼が気を失ったことで、空中で彼らを支えていたタラリアの力が解除されてしまう。
鎖によってレヴィの魔力は奪われており、魔術を使えない彼女はロードを抱えて地面に足から着地した。
「ぐうっ!」
なんとか彼を抱えて地面に降り立つことが出来たレヴィだったが、ずっと縛られていた身体にはなかなか力が入らない。
それでもレヴィは気を失ったロードを背負うと、なんとか足を踏み出して歩き始めた。
こんな自分の為に必死に戦ってくれたロードの為にも、ここで終わる訳にはいかないと彼女は気力を振り絞る。
「皆様を集めないと……!」
レヴィが床に転がっていた錆びた剣を掴んだその時、ロードと同じような懐かしさをその剣から感じた。
「これは……どこかで……? いや、今は……!」
城の崩壊が間近に迫り、レヴィはそれを考えることをやめた。
瓦礫が降り注ぐ中で手帳を拾い、散らばっている武具達を集めていく。
その時、謁見の間に空いた穴からブリューナク達が現れる。
ゼノの魔力が消えたことで解放され、ようやく彼らは主人の下へと舞い戻ることが出来たのだ。
「皆様……中へ!」
3つの伝説は彼女が差し出した手帳の中へと入り、ロードが身につけているタラリアとソロモンを除く全ての武具が手帳の中へと戻された。
「よし、これで……!」
「レ、レベッカァッ!」
「ゼノ……」
身体中をがんじがらめに縛られたゼノは、空中からレヴィ達を睨みつけていた。
必死にもがいていたようだが、彼自身が言っていたように、巻き付けられたその鎖は仮に彼が万全でもそう簡単には破れない。
ましてや左腕が動かず、身体中に重傷を負った今の状態ではまず不可能だった。
鎖はゼノから力を奪い、彼の傷口からは血が流れ出している。
それは既に致命傷だった。
「貴様は魔族ッ! 何故それが分から……」
「黙れゼノ。私はもう魔族じゃない」
「な、なんだと……?」
「私の名前はレヴィ。人間のレヴィだ」
瞬間天井が崩れ、ゼノをぶら下げていた鎖ごと下へと落下していく。
「余は……余は魔王……!」
「違う……お前はゼノだ」
ゼノは崩壊した床を突き抜け、まるでどこまでも続くような闇へと消えていった。
彼女は少しだけ悲しい目をした後、彼を哀れむように呟く。
「瓦礫の中で眠るがいい。お前の城が、その名の通り墓標となるだろう……」
彼女は謁見の間に背を向け、ロードを背負い歩き出した。




