第90話:愛
「う……あ……!」
ゼノの魔剣に切断された肘から先は地面へと落ち、少し遅れて血が溢れ出す。
自身の一部が離れるという初めての光景とその激痛に、ロードの思考は現実に追いつけないでいた。
対するゼノが負った傷もかなり深く、ブリューナクによって脇腹は抉られ、フラガラッハが突き刺さった左腕は動かず、タスラムが貫いた肩には穴が空いた。
しかし、ゼノの黒魔術は既にそれを塞いでしまっている。
もっとも、フラガラッハによる傷だけはいかにゼノとて治癒することは出来ず、その左腕はピクリとも動かない。
ゼノは魔術によって創り出した黒い翼で羽ばたきながら、左腕を必死に抑えるロードを睨みつけていた。
「これだけの傷を負ったのはいつ以来か……」
ゼノの顔は一見穏やかに思える。
だがその実、彼の心にはロードに対する凄まじい憎悪が湧き上がっていた。
「がっ……あっ……!」
ゼノが繰り出した本気の拳が、ロードの腹に突き刺さった。
ただの拳ではない。
ゼノの魔力を集約した、一撃必殺の魔拳である。
かつて竜族の長を叩き潰したその拳が、ロードの骨を砕き内臓にもダメージを与えていた。
背中を突き抜けた衝撃は大気を震わせ、その一撃がどれ程の威力かを物語っている。
ロードを右腕の拳で持ち上げたまま、ゼノは邪悪な笑みを浮かべて口を開いた。
「なぁ、ロードといったかな? 貴様の処刑方法を決めてやったぞ。再教育が終わった後……レベッカの手で貴様を殺させてやる。嬉しいだろう? 愛する者に殺されるのだ……これ以上の至福はあるまい?」
その言葉にロードの背筋が凍る。
肋骨は粉々に砕かれ、内臓の損傷により口から大量の血を吐き出しながらもロードは手帳に手を伸ばす。
エクスカリバーさえ呼び出せれば傷は治せると、必死に手を伸ばした先にある筈の手帳は、既にゼノの黒い魔力に握られていた。
「うっ……か、かえ……!」
「やはりこれか。なるほど……この手帳の中に伝説の武具が入っている訳だな。さて、いつまでもゴミを触っているとこちらまで穢れてしまうなぁ……ぬうらぁっ!」
ゼノはロードを地面に向けて全力で投げつけた。
ロードは背中から地面に叩きつけられ、その衝撃で地面に大きなひび割れが出来る。
「ぐぁっ! あ……か……」
再びロードは骨が砕ける音を聞き、その衝撃で意識が飛んだ。
それでも身体が勝手に動く。
レヴィを助ける為、彼は無意識に立ちがった。
しかし、一歩踏み出しただけでバランスを崩し、ロードはそのまま前のめりに倒れこんだ。
「レ……ヴィ……今……い…………」
今度はうつ伏せの状態から必死に身体を起こそうとするが、大量の血を失ったうえに全身いたるところの骨が砕けてしまったその身体に、再び立ち上がる力は残されていなかった。
手帳は奪われ、ソロモンは左腕とともに血に濡れている。
ブリューナク達はゼノの黒魔術によって封じ込められロードの下へと戻れない。
唯一タラリアだけはそこにあったが、ロードが動けなければ意味がなかった。
それでも彼は意識のないまま何度も立ち上がろうとし、その度に倒れては少しずつレヴィに近付いていく。
すぐそこにいる筈の2人は、魔王という強大な壁に阻まれていた。
身体も心も縛られた彼らに、ゼノは憎しみを込めて嬉しそうに語り出す。
「貴様には誰かを救う力などない。特別だと勘違いしてしまった……ただの人間だ。だが喜ぶがいい。貴様は魔の女王となるレベッカの生贄として……その命を捧げることが出来るのだからなぁ。貴様を殺させることで、レベッカは真の魔族となるのだ」
ゼノはレヴィの近くまで飛ぶと、彼女の髪を掴んで強引にロードを見せる。
「嬉しいだろレベッカ。自分の手で愛する者を殺せるのだぞ? 今すぐ殺してやっても構わないのだが……貴様に譲ってやろう。余の優しさに感謝せよ。あー……それにしてもレベッカよ……安い魂であったなぁ? フハハ……フハハハハハハハハハハハハハハハハハ!!」
レヴィの虚ろな瞳から涙が溢れ出す。
「嬉しいかレベッカよ! よかったなぁ……フハハハハ!」
ゼノは嬉しそうに笑い続ける。
ロードは血だまりの中で……遂に動かなくなった。
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私は夢を見ていた。
すごく短かったけど、すごく幸せな夢。
私には好きな人がいて、その人と一緒に旅をした。
すごく……幸せだった。
多分それ以上ないくらいに。
ううん、きっとない。
私が心のどこかで望んでいたことを、その人が全部叶えてくれた。
一緒に歩いて、一緒にごはんを食べて、一緒に寝て、一緒に起きて、一緒に戦って、一緒に勝った。
泣いたり笑ったり……ちょっと怒ったこともあったかな?
でも、その人は全部受け止めてくれた。
そして、私がいれば他に何もいらないって……そう言ってくれた。
私も同じだった。
その人さえいれば何もいらない。
本気でそう思っていた。
でも、その人の顔も名前も思い出せない。
すごく頑張ったけど、どうしても思い出せなかった。
その人がいたことは覚えている。
なのに……それ以上は出てこない。
私は旅に出ていたような気がする。
誰かと一緒だったような気もするし、1人だった気もした。
何を目的にしていたかは分からない。
でもやっぱり誰かが側にいた気がする。
すごく大事な人がいた。
そうだ……間違いなくいた。
私に色々な感情をくれた人がいた。
すごく温かくて……それに包まれているとふわふわしてしまう。
けど、そんな大事な人なのに名前が思い出せない。
顔も出てこない。
すごく大事な人なのに。
なんで……思い出せないの……?
なんで私は泣いているんだろう。
すごく悲しいのは分かる。
目の前で笑っている人はすごく楽しそう。
でも、私は悲しくて……悔しかった。
なんでそういう感情になったのかは分からない。
でも、自分が許せなかった。
なんで許せないのかは分からないけど。
声が聞こえた気がした。
聞いたことがある……すごく大好きな声。
その顔も知ってる。
大事な人だった気がする。
すごく切ない気持ちになった私の目から、勝手に涙がこぼれた。
そうだ……私はこの人を知っている。
覚えている。
忘れるものかと……思っていた人だ。
でも、名前が出てこない。
この世界で一番好きだった筈なのに……どうして?
なんで思い出せないの?
悔しい……悔しいっ……!
こんなに好きなのに……!
愛しているのに!
なんで愛する人の名前を忘れなきゃいけないの!?
嫌だ……嫌……あなた様は私の……!
あなた……様……?
そうだ……その人は……。
ずっと一緒にいるって……言ってくれた……。
私が誰よりも慕う方……。
もうやめて……。
もう起き上がらないで……。
あなた様が苦しむ姿を見たくないっ……!
もう嫌だ……こんなの嫌だ……!
あなた様とずっと一緒にいたかった。
あなた様とずっと一緒に過ごしたかった。
あなた様とずっと一緒に年を重ねたかった。
あなた様とずっと一緒に歩きたかった。
あなた様とずっと一緒に……私は生きたいっ……!
やっと思い出したから……私は……あなた様のことを……!
だから……死なないで……お願い……!
「ロード様ぁっ!!!」
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誰かに呼ばれた気がした。
けど、よく分からない。
俺は何をしていたんだっけ……。
思い出せない。
なんだか真っ暗で何も見えないけど……ここはいったい……。
『人の子よ』
え!? だ、誰だ……!?
『そなたは何をしている』
えっ? な、何を? 俺は何をして……あっ……。
戦ってたような……何かと……。
なんでかは分からないけど……戦ってた気がする。
『そなたは何の為に戦っている?』
な、何の為って……それは……何かを守る為……だった気がする。
『そなたは何を守っている?』
それは……すごく大切なものだ……きっと。
『そなたの大切なものとはなんだ?』
……愛する人だ。
『そなたはここで終わるのか?』
いや、いかなきゃ。
『そなたに勝利の導きがあらんことを』
ありがとう……。
ところであなたは?
『そなたを呼んでいる者がいる』
ああ、そうだった……!
レヴィの声が聞こえたんだ!
『また会おう担い手よ。願わくば……いや、今はよいか。仮初めではあるが力を持っていくがよい。そして生命魔法をより深く知るのだ』
こ、これは……!?
『さぁ、いくがいい……そなたの道を』




