五十九 藤原秀衡
治承4年(1180)、以仁王の乱をきっかけに、全国に巻き起こった反乱の嵐。
平家の処置が迅速苛烈を極めたため、当初速やかに鎮定されるであろうと思われた反乱は、平家の、富士川の合戦での大敗北によって、先行きの見えぬ天下大乱の様相を呈す。
朝廷を抑え、いまだ畿内西国の覇者である平清盛。
坂東を平定し、平家の追討軍を破った第六天魔王、北条政子。
そして、いま一人。
天下を舞台とした覇権争いの打ち手たる資格を持つ者が居る。
奥州の中枢、平泉にあって天下の動きを静かに見守る男の名は、藤原秀衡。
奥州藤原氏の三代目。東北の地に未曾有の繁栄をもたらした英主である。
◆
治承4年11月末。奥州平泉、伽羅御所。
奥州の主、藤原秀衡が住まう館にも、雪の気配が忍びよっていた。
――奥州が雪に閉ざされるまで、あとわずかか。
白い息を吐きながら、藤原秀衡が夜天を仰いでいると。
「――よき夜にございます」
ふいに、忍ぶような声が聞こえてきた。
「……ふむ」
唐突な声に、奥州の主は眉をひそめた。
供の者は近くにない。さりとて、無粋者の侵入を許すほど甘い警備ではない。
「誰か」
館の外の闇を見渡して、藤原秀衡はつぶやくように問う。
「坂東の――北条政子の影でございます」
「……ふむ。あの魔王尼殿の」
言葉の端に淡い驚きを乗せながら、藤原秀衡はつぶやく。
帝を擁する平家に反旗をひるがえし、10万騎の大軍相手に勝利を収めた坂東の魔王の名は、奥州にも鳴り響いている。
「して、魔王の影殿は何用で参られた」
「源義経という男が、秀衡殿にとってどのような存在か……それをたしかめに」
闇よりの声は、そう答えた。
答えを聞いて、藤原秀衡は口の端に皮肉の笑みを浮かべる。
「影殿よ。この平泉をどう見た?」
「……北の都」
闇からの答えに、奥州の主は満足げに笑う。
「平泉は我が国、我が都、奥州藤原氏が三代をかけて築きあげた、この世の浄土よ。病み疲れ、朽ちようとしておる京なぞ、わしはいらん」
男の言葉は、大言ではない。
この頃の平泉は、豊富な砂金と大陸にまで及ぶ貿易で栄え、人と活気で満ち溢れていた。
繁栄の都をつくりあげた北国の王の、それは誇りから出た言葉だ。
都に頭を下げるのも、院近臣の娘を娶ったのも、源氏の御曹司を飼っていたのも、すべては奥州の、平泉のためだ。
だからこそ。
藤原秀衡は、それを壊しかねない源義経という存在に、恐怖を覚えた。
「義経は……あれは魔物よ」
実感を込めて、奥州の主は吐き捨てた。
「魔物、ですか」
「あやつは……この平泉の平穏に、最後まで馴染まなんだ。武を磨き武者を集め徒党を成し、院宣を盾に軍を成す……その魔にあてられて、多くの兵がやつに従った……せがれまでもが、な」
藤原秀衡は天をあおぐ。
義経の存在は、奥州を二つに割った。
義経軍の動きを、世間はこちらの指示によるものと思うだろうが、制御など効くはずがない。
逆に、義経が勝てば勝つほど、勝利の美酒に酔った奥州の民は、義経の意見をこそ善しとするようになるかもしれない。だからこそ、捨てた。
「あの男は戦しか、京しか目に入っておらぬ。あれぞまさしく――京の魔物よ」
吐き出して、奥州の王は庭に背を向ける。
「影殿よ。どうかよしなに」
◆
一方、越後国。
国府を占領し、国司館を春までの仮住まいと決めた源義経のもとに、商人の吉次が、政子からの手紙を携えてやってきた。
「かっかっか、魔王娘からの文か」
面白そうにのぞきこむ源為朝を睨みつけながら、義経は政子からの手紙を読む。
読み進めるにつれて、義経はわなわなと肩を震わせはじめ、最後には文を床にたたきつけた。
「あの娘ぇ……ふっざけるなっ!」
「よ、義経様?」
「義経よぉ、なにを怒ってんだ?」
言いながら、源為朝は床に落ちた文を、素早く拾い上げた。
奪い返そうとして飛びかかる義経を片腕で突き放しながら、源為朝はじっくりと手紙を読む。
「えーと……なるほど、都はかなり悲惨なことになってるらしいな。かっかっか……まああの魔王娘らしい上から見たもの言いだが、特に――」
言いかけて、源為朝は苦い笑みを浮かべた。
「ああ、こりゃ怒るわ」
「な、なにが書いてありますので?」
恐る恐る伺う吉次に、源為朝は肩をすくめて言った。
「妹をやるからうちに来い、とさ」
「……それが、これほどまでに怒るようなことなので?」
「惚れてんだよ、この坊主は。あの魔王娘にな。まあ当たり前だが魔王娘のほうは眼中にない――あぶねえな!?」
激高した義経に、手に持つ手紙を太刀で両断され、源為朝は抗議の声を上げた。
手を引くのがすこしでも遅れていれば、腕ごと断ち斬られていたところだ。
「黙れ! あることないこと広めよって! おれはあの娘のことなど眼中にないわっ!」
「いまさら過ぎねえか? その強がり」
「うるさい! 畿内が飢饉? それがどうした! おれでは無理だというのなら、あの娘の目が節穴だと教えてくれるわっ! 国衡! 国衡を呼べ!」
義経が大声で叫ぶ。
ほどなくして、気の利いたものが呼んできたのだろう。少壮の武者が駆けつけて来た。
「国衡、ここに!」
藤原国衡。
藤原秀衡の庶子であり、義経率いる奥州軍をまとめる中心人物の一人だ。
「国衡、越後をやる!」
「は、越後を、ですか」
いきなりの言葉に、藤原国衡は目を丸くした。
「そうだ。わしはこれより騎馬武者のみ1500を率いて越中に向かう!」
「正気ですか!? ほどなく北陸道は雪に閉ざされますぞ!」
「だからどうした? こんなところでじっとして居られるか! 雪で身動きとれんようになるまで、攻めて攻めて攻め進んでやるわ! 国衡は雪解けを待って追いついてこい!」
そう言うと、義経は同行する武者の選抜と戦支度を国衡に命じた。
ついていけず、呆然とその様子を見つめる吉次の肩に、ぽん、と手が置かれた。源為朝だ。
「かっかっか、そういうわけだから、吉次よ。秀衡殿にはよろしくと伝えておいてくれよ」
どう考えても貧乏くじだった。
◆
その頃、伊豆では。
「くっくっく、義経、為朝を我が騎下に加えれば、我が軍はまさに無敵!」
「政子、馬鹿なこと言ってないで論功行賞を進めろ!」
「……ちゃんと上手くいくのでしょうか?」
“わしのかんがえたかっこいい坂東軍”を想像して悦に入る政子と、忙しく書類を運ぶ宗時を見ながら、北条保子は北の方を仰ぎ見てつぶやいた。
藤原秀衡……奥州藤原氏の三代目。鎮守府将軍。奥州17万騎を率いる東北の王。
藤原国衡……藤原秀衡の庶長子。一族の信望厚く、武勇に優れた「他腹の嫡男」。




