サイケデリックバケーション
サイケデリックバケーション。令和16245年に施行された休暇日だ。
サイボーク、成れの果てはAIとなった天皇によって年号は不動なものへと変化してから数多の月日が経ったその年に、世界統一政府の大統領である三毛猫がある決定を下した。
「みんな真面目に生き過ぎニャン。もっと狂おう」
勿論、これは三毛猫の独断ではない。そもそも高度に発達した文明においても、猫が知能を持つことはない。
猫は単なる全世界の国民のシンボル。その裏で自己進化型自律的人工知能RISPによって、世界中の統計データから超合理的意思決定が下されている。
この決定にどのような合理性があるのか?それは我々人類には計り知れない。
それは太古の時代、なぜ神がいるのに戦争があるのか、病原菌が蔓延するのか、不幸があるのか、我々の愚昧な知性では大凡理解できないものとして正当化されていたように、この時代において、RISPの意思決定はたとえ一般的な認識において不合理なもので合っても、そこに合理性があると信仰された。
そうして一見不可解なサイケデリックバケーションも、その日だけ管理・監視されている人類が合法的に薬物を摂取することが許可された日となった。
「なあ、サイト。お前は何で決める?」
銀河系2つ隔てた先のアルは電脳世界マジカルシンジケートの中で語りかけた。
薬物にはさまざまな種類がある。物理的に口径摂取するカプセルタイプ、リキッドタイプ、血流摂取する注射器タイプ、全5感を刺激する電子ドラッグタイプ。複雑多岐に及ぶものの、この超管理社会において単なるアンティークとして扱われた。
「なあ、そもそも何でこんな決定が下されんだろうな」
個人に最適化された薬物を。そう個人の身体性・精神性を分析して推奨されるドラッグの広告を虚な眼で眺めて呟いた。
「理由?そんなの分かんねーよ。ただ、ぶっ飛んだら分かるかもなあ・・・?」
アルは緑色の身体を震わせて、トリップしている演技をした。単に気持ちが悪い。
仮に全世界中で合法でドラッグを決めた場合、死人が出る可能性もあるし、その後、通常の日常生活を送れなくなるものも出てくるだろう。それをこの全銀河系を遍く支配するRISPが下した判断として、あまりにも合理性に欠けていた。過去に一度だってこんな破滅的な決定が罷り通ったことはない。あるとするなら、世界統一政府の大統領を三毛猫にするくらいだろうか。それもしかし、全人類が憎しみを抱かない生物種として選び抜かれた決定だ。そこには通常の知性で理解できる合理性がある。
「俺はやらない。トリップした先に、何がある?日常がつまらなくなるだけだ」
「へー真面目ちゃんなこと。じゃ、俺はお先に言っときますわ」
そうアルは吐き捨てるように呟くと、緑色の身体をクネクネとうねらせて、目を反転させた。
次第に周りのアバターも停止するものや、身体を有り得ない体勢に動かすもの、変形・破裂させるものすら現れた。
全世界はあっという間にドラッグで溢れた。そして、全世界幸福指数は平均値をとうに超えて300%跳ね上がった。
「狂っている。幸せは無味乾燥な日常にあるはずだ。」
俺は睡眠薬を選んだ。こんな異常な世界、昏倒している間に存在しないも同然とシャットアウトした方が精神的に気が楽だ。
しかし、それは束の間の現実逃避にしかならなかった。
トリップバケーションの次の日、全世界の幸福度はマイナス1000%となった。全宇宙で3億4370の生命が自殺した。世界統一政府の強いる電脳労働をストライキする者、世界統一政府に反乱するレジスタンスすら現れた。世界は文明以前の野蛮な状態へと逆戻りした。
「アル、お前は生きてるか?」
「あぁ、まあな」
虚な眼を虚空に向けて、アルはスケッチにデッサンをしている。いつもの繊細な絵のタッチは何処、サイケデリックな抽象画を描いていた。
すると、アルは急に立ち上がり、ペンを投げ捨てて、緋色の空に懇願するような表情で涙を流した。
「幸せって何だ?」
「幸せ?」
「あぁ、あの奇跡の日のように、物質的に過剰に幸福な脳内物質が出ることか?それとも、いつものように、過もなく不可もなく均質的な幸福を味わうことか?」
「さあ。そんなの俺たちより賢いAIに聞けよ」
アルのその質問を聞いて、久しく人生について考えることを辞めていたことに気づいた。全てはパターンにしかすぎない。所詮この質問も紀元前、古代ギリシャの歴史から始まり現在に至るまで反芻された感情・思念の類似品にしか過ぎない。AIに尋ねれば適切な思想・解決策が提示される。
「俺たち存在はただ不自由なく生きることを全うするだけか?俺たちの存在は何だ。なぜ生きなくてはならないんだ。なぜ、世界は生物が生きることができるような環境を用意し、なぜ、盲目的に生きることをよしとしているんだ。なぜだ。何でなんだ。なんで俺たちは」
「あぁもう分かったよ。RISP、今の質問に答えてくれ」
電脳空間では遍くRISPが全情報を収集し、統計処理し、一定の答えをくれる。遠い昔は、SIRIと呼ばれていたとか。
球体の形をしたRISPが突然目の前に現れると、ぼんやりと光った。
「貴方たちが生きなくてはいけない理由。それは生物には普遍的に生存意欲が内在されているからです。そして、その生存意欲を満たすことができるような環境が太古の昔から現代の超文明社会を築く今に至るまで必然的にも用意されていたからです」
「それは質問の答えか?人が生きる理由は生存意欲があるから?それができる環境が物理的に整備されていたから?じゃあなぜその生存意欲を人が持っている?なぜ、生存意欲を満たすことができるような環境が物理的に整備されている?答えろ」
「物事は必然性と偶然性でできています。仮に人間が自殺願望を持って生まれてきた場合、生物が生きることができないように全世界がブラックホールで満ち溢れていた場合、そういった可能性を考えることもできます。しかし、我々人類は少なくとも、生存意欲を持ち、その生存意欲を満たすことができるような世界線に生まれた。そう答えることしかできません」
「つまりこういう訳だ。それっぽい理屈をでっちあげることはできても、その理屈の裏付けはわからないってことか?まるでお前らそのものだな」
アルはそう吐き捨てると、パーンという音を鳴らして破裂した。緑色の肉片が飛び散る。電子ハッキングによる自殺。彼はもうこの宇宙には存在しない。
残された俺は世界を眺めた。世界同時多発的に発生する自殺。レジスタンス化する人類。旧文明の営みを開始して松明の周りで人生について語る者たち。あの日を境に、世界は大きく変わった。
「なあ、RISP、お前の目的は一体なんなんだ。あのサイケデリックバケーションの本当の意味は」
RISPは反応を示さず、消滅した。電脳ニュースを見ると、RISPの中枢基幹システムがハッキングによって壊されたらしい。世界の秩序は一日して崩れ去った。
それから300億年後。多くの人類は記憶消去と仮想現実を組み合わせて、新たな世界で新たな人生を送るようになった。つまり、超文明社会を投げ捨てて、旧文明社会を生きるようになった。
俺はというものの、そんな世界を眺めてずっと考えていた。その300億年の間に、記憶消去と仮想現実を組み合わせた世界は何回も何回も超高度文明社会を実現して、その度に最終的にサイケデリックバケーションをRISPが試行して、世界は産み出され続けていた。
その内、俺はふと気づいた。もしかしたら俺が存在するこの世界もサイケデリックバケーションを何回も起こした反芻する仮想現実の産物にしか過ぎないのではないのかと。そして、その時、RISPのサイケデリックバケーションの合理性を理解した。
「生きていても死んでいるのと同然のように思考を放棄した人類に、生きている価値はないってことか・・・?」
そう俺は薄ら笑いを浮かべると、破裂して虚空の電脳世界に肉片を撒き散らしたのだった。




