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90話

 頬に何かが触れた。少しひんやりしているが、どこか温かい。人肌の温もりだ。


 ……ん? 人肌の温もり?


 思考が夢と現実との狭間にあったが、ふと疑問を感じたことで、それは現実へと引き戻される。

 目を開けると、そこには心配そうに俺をのぞく綾女の顔があった。その距離は、彼女の吐息がかかるほどに近い。

 彼女の長い髪からは、爽やかなミント系の匂いが漂ってくる。

「あ、綾女……?」

 なんとか言葉を絞り出す。

 可愛くて、愛しい、大好きな人。

 ようやく苗字から名前で呼ぶことが出来るようになった恋人。

 そのクリっとした目、きめ細かい頬、ほのかに色づく唇、その全てに視線が吸い寄せられる。

 そのとき、彼女が目をぱちくりと瞬かせた。続いて、顔全体がだんだん羞恥の色に染まっていく。

 そして次の瞬間、


「~~っっ」


 言葉にならない声を出して、彼女は俺から離れた。離れた後は、俺に背を向けている。

 少しして、綾女が口を開いた。

「ご、ごめんなさい。その、昂輝の寝顔を見ていると、つい触りたくなってしまって……」

 そのまま縮こまる彼女。

 そうやって照れる綾女も可愛い。

「全然大丈夫、それよりも――――」

 なんでここにいるのか、そう問おうとする。

 しかし、それは綾女以外の声によって遮られた。


「お見舞いよ」


 声がした方を見ると、コンコンと扉をノックしながら佇む七海の姿があった。

「な、七海……?」

「桂君が風邪ひいたって綾女から聞いたから、一緒にお見舞いに行こうってなったのよ。ほら、今日は創立記念日で学園も休みだしね」

「えっ、でもどうやって知ったんだ?」

 そういえば、今日は創立記念日で学園は休みだった。だから、平日のお昼にあたるこんな時間に、七海たちがうちにいることができるのだろう。

 しかし、俺は、七海はおろか綾女にだって風邪を引いたことを伝えていない。

「昂輝のお母さんから聞いたのよ」

 俺の問いに答えたのは綾女だった。

「今朝、昂輝のお母さんからメールが来たの。それで、七海にも連絡して……」

「ほんと。朝起きたら、綾女から『助けて』ってメッセージが来てたときは驚いたわよ。せっかく彼女なんだから一人で行けばいいのにって思ったし」

「だ、だって……」

「大丈夫、大丈夫、ちゃんとわかってるわよ」

 やれやれと七海が呆れたように首を左右に振る。


 なるほど、母さんが言ってた助っ人というのは綾女だったのか。

 それに、綾女が七海を呼んだのも分かる気がする。

 なにせ、病人とはいえ男が一人でいる家に行くのだから、ちょっとぐらい警戒もするだろう。たしかに俺と綾女は恋人だけど、二人のペースというのもあるし。

 とはいえ、自分のためにわざわざお見舞いに来てくれるのは、すごく嬉しかった。


「ま、そういうことなら理解したよ。ありがとね、七海、あや……志藤さん」


 危ない、普通に綾女と呼んでしまいそうだった。

 別に七海には綾女とのことがバレているが、なんとなくまだ名前呼びを避けておいた方がいい気がする。

 ただ、見ると七海は、によによと笑みを浮かべていた。

「あっれ~、別にいいのよ、綾女って呼んでも。さっきも綾女って呼んでたじゃない?」


 ……ん、さっき?


「も、もしかして、見てた……?」

「えっ? 綾女が桂君の頬に手を置いて、二人がキスしそうな距離でお互いを見つめ合っていたところなんて見てないわよ?」


 ……見てないと言うには、あまりにも情景描写が正確だった。


 途端に顔が熱くなる。

 綾女もプルプルと肩を震わせている。

 そんあ二人の様子を見て、七海が息をついた。

「はあ~、二人とも、いちゃつくのもいいけど、少しは周りの目も憚りなさいよ……。あ、そうだ、桂君、水を持ってきたわよ」

 そのまま水が入ったグラスを渡してくれた。

 熱くなった体を冷やすため、もらった水を一気に喉に流し込む。

「ありがとう、喉が渇いていたから助かった」

「いいって、いいって。それじゃ、わたしは綾女とお粥を作って来るわね。桂君、どうせまだお昼を食べてないんでしょ?」

 そういえば、今はお昼だった。

 そうと分かると、熱があるとはいえ、若干おなかがすいてきた。

「なにからなにまでごめん。本当に助かる」

「別に謝らなくていいわよ。そこは感謝さえしておけば。ほら、綾女、行こう」

 七海がううっと唸っていた綾女を引き連れていく。


 俺は、そんな七海たちに、

「ありがとう」

 と、小さく呟いた。


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