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111話

 終章


 あれから一週間もたたないうちに、退院することができた。

 俺は、その間、たくさんの検査を受けた。

 結果はどれも問題なし。病気が完治した証拠だ。

 急な回復に医師たちも驚いていた。

 俺が病院で目を覚ました後、綾女とは一度も会っていない。なんでも記憶の混濁がみられるとのことで、綾女も検査を受ける羽目になったからだ。

 しかし、俺は綾女の今の状態を知っている。なにせ、自分が経験したことがあるのだ。

 二、三年分の記憶の喪失。

 綾女は星華学園高等部に進学してからの出来事を全て忘れていた。

 当然、俺や七海たちのことも。


 退院して自宅に戻ると、俺はベッドの隅でうずくまっていた。

 何もする気が起こらない。何も考えたくない。

 綾女が自分と過ごした日々の記憶を失った、その現実が俺の心を押しつぶした。

 もう彼女は自分の知っている綾女ではない。恋人だった綾女ではない。

 笑いかけて、怒って、恥ずかしがって、そんな綾女を見ることはできない。

 愛する少女の喪失が心の真ん中にぽっかりと穴をあけた。


 トントン


 その時、部屋の扉がノックされた。

「……はい」

 徐に扉のもとまで歩き、ドアノブを引く。

「晃くん、顔色わるいわね」

 母さんが心配そうに見つめてきた。

「うん、ごめん。綾女のことでちょっと参ってて」

「そう……」

 母さんも綾女のことを知っている。俺が病院で全て話した。

 母さんは俺の話を聞いた時、綾女に駆け寄って泣いていた。

「えーっと、なにか用かな?」

「あっ、そうそう、これ、綾女ちゃんから受け取っていたの。今までなかなか渡す機会がなかったから、遅くなってしまったんだけど」

 母さんが一つの便箋を差し出す。

「綾女が、俺に……?」

「ええ。魔力を移す前に渡されたの」

 差し出された便箋を受け取る。

「わかった、ありがとう」

「晃くん、落ち込みすぎないようにね。といっても難しいと思うけど」

「うん、母さんも気を付けてね」

 その後、母さんは一階に下りて行った。


 扉を閉めて、俺は勉強机へと向かう。

 便箋はパステルピンクを基調としていて、アクセントにハートが描かれた女の子っぽいものだった。綾女が使いそうな柄ではないため、これはおそらく病院の売店で急遽取りそろえたものなのだろう。

 便箋を開け、中身を取り出す。

 中には一枚の手紙が入っていた。

 記憶を失う前の綾女が書いたということで、俺の心臓が高鳴る。

 綾女は俺に何を残してくれたのだろう。

 几帳面に折りたたまれた手紙を開け、そこに書かれていた文字を追う。


 ―――拝啓

 昂輝がこの手紙を読んでいるということは、私はあなたを救うことができたのかな。

 そして、私は昂輝のことを忘れちゃっているのかな。

 私が魔力を昂輝に移そうとするとき、この魔導は私の記憶を代償にしないといけないんじゃないかって気がつきました。

 もちろん、昂輝との記憶を失いたくはなかったし、昂輝は私が記憶を失ったら、自分を責めてしまうんじゃないかとも思ってしまったけれど、私はこの魔導を使うことに決めました。だって、あなたをどうしても助けたかったから。

 先に謝っておくね。ごめんなさい。


 それでは、謝ったことだし、あとは昂輝に感謝の言葉を述べていこうと思います。


 まず、私が魔導を暴走させたとき助けてくれてありがとう。

 あのときのあなたの腕の中はとても温かかったです。


 体育祭のとき、私を見つけてくれてありがとう。

 昂輝が見つけてくれたおかげで私はリレーで勝つことができたし、みんなとの距離を縮めることができました。


 七海たちと引き合わせてくれてありがとう。

 七海たちは私の友達になってくれました。私が記憶をなくしたこと、七海たちにはうまく伝えておいてね。


 星華祭で一緒に演奏をしてくれてありがとう。

 あの演奏で、私は魔導を使う自分が好きになれました。


 お祭りで告白してくれてありがとう。

 告白を横取りされたのはちょっとショックだったけど、最高に嬉しかったです。


 そして、このこともお礼を言っておかないといけないね。


 十年前、私の命を助けてくれてありがとう。

 今ここに私がいるのも昂輝のおかげ。

 本当に、本当にありがとう。


 昂輝が元気だったときは、恥ずかしくてなかなか言えなかったけど、昂輝には感謝してもし足りないくらい感謝してる。

 まだまだ足りないけど、ここでできる限りお礼を言っておくね。


 最後に、これだけ伝えておきます。


 記憶をなくしても、私は必ず昂輝をまた好きになります。だから、クリスマスの日に学園の屋上まで来て。

 待ってるから。

                                敬具―――


 書かれた言葉をたどっていくにつれて、涙がこみあげてくる。

 頬から落ちた雫が、手紙の文字を黒くにじませる。


「……っ、……っ」


 堪えることができなかった。

 こちらこそ綾女にお礼を言いたかった。

 でも、いつまでも泣いているわけにはいかない。

 今日の日付は、十二月二十五日。綾女が学園の屋上で待っている日だ。


 俺は、すぐに制服に着替え、行ってきます、と家を飛び出した。


          ***


 ガチャンッ


 屋上のドアを開けると、そこには綾女がいた。

 いつかと同じように歌を歌っていた。それはまさに祈りをささげる聖女のようだった。

 俺が来たことに気づき、綾女が振り返った。


「ごめんなさい、この場所があまりにも気持ちのいいところだったから、つい歌ってしまったわ。えーっと、桂昂輝くん、で合ってるのよね?」


 綾女は一枚のメモ用紙を持っていた。たぶん、記憶を失う前の綾女が自分のポケットに今日のことを書いたメモ用紙を忍ばせていたのだろう。


「うん、俺は桂昂輝。今日はここに来てくれてありがとう」


「で、桂くんは私にどんな話があるのかしら? このメモにはクリスマスに桂昂輝から話があるから学園の屋上に来て、と書かれていたのだけれど」


 綾女はメモ用紙をひらひらと振って見せる。


 話か……


 綾女は、手紙の中で、記憶をなくしてもまた俺を好きになる、と書いていた。

 それならば、言う言葉はこれしかないだろう。


「唐突だけど、もしよければ、俺を志藤さんの恋人にしてくれませんか?」



 ―――これは、少し不思議で甘酸っぱい俺と「綾女」との物語。



          ~完~

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