109話
「すみません、遅くなりました」
綾女は、病室に入ると軽く頭を下げる。
予定よりも一時間ほど遅くなってしまった。
そろそろ日付が変わろうかという時間帯にまでなっている。
「全然気にしなくていいわよ、綾女ちゃん」
咲希さんは優しく微笑んだ。
さっきまで眠っていたのだろうか、病室の電気が消されていた。
月明かりだけが窓から差し込み、昂輝と咲希さんを照らしていた。
「これから、昂輝に私の魔力を移譲します」
「うん、わかったわ」
すると、咲希さんは握っていた手を離して、他の椅子に移動した。
綾女は昂輝のそばに行く前に、まず咲希さんの正面に移動する。
「咲希さん、昂輝が目を覚ましたらこれを渡してくれませんか?」
差し出したのは便箋だった。その中には、先ほどの時間で書いた手紙が入っている。
それを見て、咲希さんは戸惑いの表情を浮かべた。
「えっーと、この手紙は綾女ちゃんが直接渡した方がいいんじゃない?」
ゆっくりと首を振る。
「いえ、直接渡すのは恥ずかしいので」
少し嘘を混ぜた。
恥ずかしいというのも、もちろんある。でもおそらく、この魔導を使えば、自分が直接手紙を渡すなんてできないだろう。
「……じゃあ、綾女ちゃんのラブレターは、晃くんにしっかり渡してあげるわね」
ここで軽口を挟んでくるあたりがこの人らしい。でも、この軽口のおかげで少し気分が楽になった。
「……ありがとうございます」
これで心残りはない。
咲希さんのそばから離れようとする。
「綾女ちゃん、晃くんをよろしくね」
「……はい」
ベッドに近づく途中、窓から夜空が見えた。
どうやら今日は満月の日らしい。
十年前、昂輝が自分に魔力を与えてくれたときも満月だった気がする。神様もなかなか粋なことをしてくれるものだ。
綾女は、昂輝のそばに腰かけた。
彼は静かに眠っている。その寝顔に止め止めない愛おしさを感じる。
「昂輝……」
思わず声が出てしまった。
その時、彼の瞼がピクリと動いた気がした。
自分の声に反応してくれたのだろうか。もし反応してくれたのだとしたらすごく嬉しい。
本当になんでこんなにも彼を愛してしまったのだろうか。
できることならば、彼との記憶を失いたくない。彼との日々を忘れたくない。
でも、自分が愛したのはこんな風に眠り続ける彼ではない。
自分のそばで笑ってくれて、自分を励ましてくれる彼だ。
もう彼に残された時間は少ない。それは、彼がオペ室に連れていかれたことで痛感した。
彼を救うことが出来るのは自分だけで、彼を救うことが出来るタイミングは今しかない。
綾女は昂輝の手を優しく握った。
握った手から彼の体温が伝わってくる。
彼のぬくもりを感じていると、眠っているはずの昂輝が自分の手を握り返してくれた。今度は確実に自分に反応してくれている。
「もう……ばか」
こんなときに嬉しくなるようなことはしないで欲しい。決心が鈍ってしまいそうになるから。
自分の頬を冷たい雫が伝ったのを感じた。
この雫には、一体どちらの感情が含まれているだろうか。悲しさだろうか、それとも嬉しさだろうか。どうせだったら後者のほうがいい。
「昂輝、今、私が助けてあげるからね」
ふうっと息をつく。
そして、
「【接続】、
《―――――――――――♪♪》」
いつか屋上で彼と会った時のように、あの曲を奏でた。




