甘やかなとまり木《2》
仮眠のつもりだったのにぐっすり眠り込んでしまったようで、目が覚めたのはずいぶん遅い時間だった。
眠気と格闘しながら布団の中でもぞもぞする。そういえば晩餐どうなった? なんで誰も起こしてくれなかったんだろう。
「うー……」
呻きながら渾身の力で起き上がろうとしたら、するりと頭をなでる手があった。
「眠いならそのままで。もっと休んでいてかまいませんよ」
「……(いたの?)」
まだ頭が半分眠っていて、ちゃんと目を開けられない。頭を動かして優しい手にすり寄って、どうにか彼の存在をたしかめた。
「少し熱があります。疲れが溜まっているのでしょう。わたくしも無理をさせてしまいましたし」
「……(そうですね、まったくもってそのとおりです)」
ため息で同意すると、くすりと笑う気配がした。
くり返しなでてくれる手が心地よい。髪から頬へ優しく滑っていく。男性の手とは思えないほどになめらかで柔らかい。眠りと覚醒の狭間を漂いながらぬくもりを楽しんでいると、意識はゆっくり覚醒の岸辺へ打ち上げられていった。
ベッドサイドのランプだけが灯る暗い寝室の中、カームさんは私の隣に膝を伸ばして座っていた。手元には本がある。
「……こんな暗いとこで読んでたら目を悪くしますよ」
私は布団に手をついて身体を起こした。爽快な目覚めとはいかない。全身がだるかった。
「寝過ぎましたね……」
「身体が求めていたのですよ。気分はいかがです? お腹が空いているなら、すぐ食べられるよう用意はさせてありますが」
「あー……」
目を覚ましたばかりで空腹はあまり感じない。正直食べたい気分ではない。でも夜を抜くと空腹時間が長すぎて身体に悪そうだな。
「……スープかお粥みたいなのが、あれば」
手櫛で髪を整えながら答える。カームさんはうなずき、サイドテーブルの小さなベルを鳴らした。すぐに女官が戸口に現れる。
「食べやすい汁物を」
「かしこまりました」
侍女たちはもう退出しているだろう。今城内で動いているのは、夜番の者たちだ。指示を受けて彼女は下がっていき、しばらくして温かいスープを持ってきてくれた。
野菜や穀物、細かくした肉がたくさん入った、食べるスープだ。栄養ありそう。多分私用の料理長特製なんだろうな。面倒かけてすみません。
ベッドで食べてこぼしたら嫌なので、椅子へ移動する。カームさんも本を置いてついてきた。女官に頼んで、ランプの明かりを増やしてもらう。
特に会話もなく、私は黙々とスープをいただいた。
穏やかな時間だ。でも今日は少し、気持ちが沈んでいる。昼間のできごとがまだ心の端に引っかかっていた。
「明日の予定は外して、一日休養を取りなさい。すでに周りの者には伝えてあります」
食べ終わった頃合いを見計らい、カームさんが言った。
「多分、朝には平熱に下がりますよ。このくらいなら長引きません」
「そこで無理をすれば、余計に具合を悪くするでしょう? 今は特に重要な公務もないのですから、体調が優先です」
「でも、明日は……」
言いかけた唇を、そっと触れた指先が止める。カームさんは微笑みながら首を振った。
「明日はわたくし一人で行ってきます。留守居役をお願いしますね」
「…………」
私は口をとがらせながら、空になった器とスプーンをテーブルへ下ろした。すぐに女官が下げて、代わりにお茶を置いてくれる。そうして退出していき、部屋には私とカームさんだけになった。
「不満そうですね」
「不満というわけじゃ……ただ、そこまでしなくてもと思って」
明日からしばらくの間、都から少し離れた土地へ向かうことになっていた。もちろんお仕事だ。公王夫妻臨席で行われる行事がある。
「体調について、きみの自己申告はあてになりませんからね。それにテルミナになど行ったところで、さして楽しめませんよ。あそこは旧派閥の支配力がいまだに根強い土地ですから」
目的地のテルミナは、カームさんにとってアウェイな土地だ。先代公妃の出身地で、内乱時には敵対派閥だった。異母兄を退けて即位したカームさんに、表面上忠誠を誓ってみせてもまだ火種はくすぶっている。そんな土地への訪問なんてお気楽な遊びになるわけがない。何が起こるかわからないと、シラギさんや近衛の幹部たちもピリピリしていた。
だからこそ、一緒に行きたかったんだけどな。
「別な意味楽しみじゃありませんか? 何を仕掛けてくるのか、お手並み拝見って思ってるでしょ」
「それはきみでしょう」
私の言葉に、カームさんはおかしそうに笑った。
「わたくしの小鳥は実はとても好戦的ですからね。愛らしいばかりと思って迂闊に手を出せば、鋭い嘴で容赦なく突ついてくるのだから。テルミナへは慰問と鎮魂のために向かうのです。そのような態度は禁物ですよ」
しれっとおっしゃるご本人こそが、きっと内心あれこれたくらんでいるくせにね。いかにも清廉な天使みたいな顔をして、よく言うよ。
国が滅びかねない内乱時代を二度とくり返さないよう、平和への誓いをたしかめる慰霊祭――って、元の世界でも似たようなことしていたなあ。それ自体は意義のある行事だけど、関わる人々がどんな思惑を隠し持っているのか、二十一世紀の日本と違ってリヴェロはまだまだ安心できない。
「……ウルディク様がもっと立派な王子様だったら、旧派閥は今も国いちばんの勢力を持っていられたでしょうにね」
肖像画でしか知らないカームさんのお兄さんは、今はシーリースの外にある小さな島で暮らしている。船がつけられる場所の少ない断崖絶壁ばかりな島で、外部との交流を一切断たれて厳重に監視されている。ようするに島流し状態だ。
「乱れた国を建て直そうと努力してくれる人だったなら、カームさんも王位は望まなかったのでしょう?」
「そうですね。もしそうなら、わたくしは兄の補佐に回ったでしょう。国が良くなるのであれば、誰が王であってもよかった……兄も悪人というわけではないのですが、主君と仰げる方ではなかった」
ウルディク王子は自堕落な人物で、国や民の未来よりも自身の享楽にばかり関心を持っていたらしい。一族にいいように甘やかされ操られ、とても次代をまかせられる人物ではなかったそうだ。そのため国の未来を憂えた有志たちがカームさんの支援に回り、先代公妃派から政権を奪い取った。ウルディク王子を処刑せず島流しで済ませたのは、せめてもの温情だ。
俯瞰すればカームさんが新公王として立ったのは当然の流れだし、リヴェロのための最善策だった。でも権力を奪われた旧派閥にしてみれば業腹な話だ。まだまだ当時の中心人物たちが残っているわけだし、テロやクーデターが起きたって不思議ではない。
ウルディク王子が生きている限り、彼を担ぎ上げて政権奪回しようと考える者はいなくならないだろう。カームさんの治世には、不穏の種がいくつも潜在していた。
本当は好きな絵を描いたり音楽を楽しんだりして、気楽に暮らしたいだろうにね。現実は平穏とほど遠く、国内の臣下たちにさえ常に神経を使って駆け引きしなくてはならない。王様なんてそんなものかもしれないが、気の毒な人生だ。
だから私は、この人の治世を支えられる力になりたい。旧派閥に付け入る隙を与えないためにも、たしかに世継ぎは必要だ。私の血筋じゃだめなら――そもそも産めないなら、お妾さんを迎えることも検討すべきなんだろうな。ペルラ夫人はいけすかないが言い分には一理ある。このままでは下手をするとウルディク王子の血筋を後継者に、なんて意見が出てきかねない。夫婦間の小さな問題ではなく、国家レベルの政治問題だ。結婚したら奥さん一人であってほしい、なんて現代日本人的な考えは捨ててしまわなければいけないのだろうな。
配下に命じて、ふさわしい女性をさがしてもらおうか。人格、身分、血筋、健康面、あと厄介な親族がいないこと――いろいろ条件を絞ると難しそうだなあ。
「チトセ? 具合が悪くなったのではありませんか? もう寝台に戻りましょう」
なんとなく黙り込んだ私に、カームさんが言ってきた。私は首を振って立ち上がった。
「寝る前にお風呂に入ってきます」
最低限顔を洗って歯磨きしないと寝られないよ。できれば頭も洗いたい。遅い時間だけどお風呂の用意をしてもらわねば。
「ではわたくしもご一緒に」
「来なくていいです」
いそいそとついてきそうなカームさんを、ここは冷たく突き放した。今夜はゆっくり静かに眠らせてほしいよ。これ以上疲れさせないで。
「風呂に入るだけですよ」
「入りたいなら一人で勝手に入ってください。私は私で入りますから」
「……冷たい人」
わざとらしくいじけてみせる王様に、色々心配している自分が馬鹿みたいな気がしてきた。なんだかんだ言ってこの人、人生を楽しんでいそうだ。
カームさんが出発してからは、暇な日々が続いた。
元々私も一緒に出かける予定だったから、他の公務が入っていないのだ。勉強はしているけれど、この機会に休養すべきと周りに薦められ、あまり長時間の授業はない。貴族たちの招待も断って久々の引きこもり生活だ。せっかくなので配下の密偵部隊にお妾候補をピックアップしてもらって、検討など始めてみた。
カームさんに憧れる令嬢は山ほどいるし、国母となれるならたとえ妾でも大喜びで飛びついてきそうな人も多い。しかし第二の旧派閥みたいになられても困るので、周辺の関係まで含めて見るとなかなか適任者が見つからなかった。
「子供だけ産んで大人しく引き下がっていろ、なんていうのも身勝手で傲慢な言い分ですしね……」
報告書に目を通してため息をつく。持ってきてくれた文官は苦笑した。
「そのようにお気を遣われてはよけいに難しくなるだけかと。政治的にはいたしかたのない話ですし、そこを飲み込める女性こそが適任かと存じます」
「そうですけどね……」
世継ぎ世継ぎって言うけど、結局それって子供を道具みたいにしか見ていない話だし、母親になる人も産むための道具扱いだ。自分で始めた調査とはいえ、時々ふと自己嫌悪に陥ってしまう。
「まだそれほどお悩みになられずとも。公妃様はお若いのですから、今後御子をお産みになる可能性は十分ございます。今の段階で焦る必要はございませんでしょう」
「私はまだ若いですけどね。これから身体が丈夫になるかもしれませんけど、陛下はすでに三十代ですから。あまりのんびりしすぎるのもいけません」
「……いえ、陛下とてそう気にするほどでは……女性が三十代になるのとはわけが違います」
ふっと笑って私は報告書を机に下ろした。
「たしかに男性は自分で産むわけじゃありませんから、年を取っても負担はありません。でも、確実に生殖能力は衰えていくんですよ」
「せ、生殖……」
「これは医学的根拠に基づいた話です。あんな顔してらしてもすでにおじさんの域に片足入りかけているんですから、あまり呑気に構えてぐずぐずしていたら、気がついたら四十代とかになりますよ」
「お、おじさん……」
文官の顔がどんどん引きつっていく。気持ちはわかるが見た目に惑わされるな。どんなに美形でも年々おっさんになっていくんだよ。意識が若々しくたって、生命の理には逆らえない。誰もが確実に年を取っていくのだ。
「それに、生まれてから成長にかかる時間も考慮しないと。あまり遅くにできても不安でしょう?」
「は、はあ……」
「公妃様、少々陛下に対して不敬なお言葉ですよ」
いちばん年上の侍女、ルーチェが苦い顔で割って入った。
「ロウシェン公様とて三十代後半で王子を儲けられたではございませんか。公妃様はご心配がすぎます。まだまだ大丈夫ですとも」
力を込めた言葉に、周りのみんなが真剣な顔でうんうんとうなずいた。カームさんをおじさんと認めたくないんだな。現実から目を背けるのはよくないと思うなあ。お父様だってうまくいったからよかったけど、実はけっこう不安視されていたんだよ?
「調べるのでしたらお妾候補などよりも、公妃様がお丈夫になるための秘策こそが最も重要です! お食事はずいぶん頑張ってらっしゃいますけど、やはり量が少ないですし、運動も必要ではございません? 改善の余地は山ほどございます」
「こういった問題は精神的な負担も大きく影響するのです。まずはお悩みを放り出して、のんびりなさるのがよろしいのでは」
「そうそう、陛下がお戻りになったら、お二人で休暇を取れないかご相談なさいませ。どこかの静養地でのんびりすごされれば、心も身体も洗われてきっとよい方へ向かいますとも!」
ツッコミやら願望やらの混じった意見が次々飛び出してくる。こうなるともう落ち着いた話はできない。私は文官に下がっていいと言おうとした。
ちょうどその時、別な文官があわてたようすで飛び込んできた。騒々しい物音に侍女たちも口を閉じて振り返る。カームさんに目をかけられている若手の文官は、非礼を詫びる余裕もなさそうにこちらへ近付いてきた。
「なにごとですか」
ルーチェが私の前に立って彼をさえぎる。そこでようやく我に返ったか、文官は立ち止まって姿勢を正した。
「し、失礼いたしました。その、つい先ほど報せが入りまして……どうか、落ち着いてお聞きくださいませ」
「なんですか?」
何かよくないことが起きたようだ。私は覚悟をしてうながした。
人に落ち着けと言っておきながら自分がいちばん動揺している文官は、何度も唾を飲み込んで深呼吸をくり返したあと、ようやく口を開いた。
「陛下が……行方不明になられた、とのことで」




