ローシェン百物語
それは、エンエンナには珍しく蒸し暑い夜だった。
「誰もいないはずの廊下に、たしかに人の気配がするのだ。耳を済ませば、何かを引きずるような音が聞こえる。だが扉を開けてみても、やはり廊下は無人なのだ」
おそろしいほど真剣な顔で、声を低めてアルタが言う。
「気味悪く思いながらも、彼は騎士としての責任感から廊下へ出た。もしや侵入者か、あるいは誰か不心得者が盗みでも働いているのかもしれん。ランプひとつを頼りに、彼は真っ暗な廊下を歩いた」
隣に座るユユ姫の身体がこちらへ寄ってくる。さんざん暑いと言っていたくせに、私にぴったりくっついてくる。
「気配が向かったと思われる方向へ彼は進んだ。静まり返った夜中の廊下に、彼の足音だけが響く。さきほどの気配はもう感じられない。彼に気付いて隠れたのか――しかし、その周囲に人が隠れられる場所はない。ただ廊下が続くだけだ。どういうことかと疑問に思いつつ、闇にひそむ者がいないか慎重に辺りを見回しながら歩き続け、やがて肖像画の並ぶ区域に来た――そう、ここまで言えばわかるな? 二の宮の東館にある、あの展覧廊下だ」
「…………」
ぎゅっと腕をつかまれた。ユユ姫、本気で怖がってるね。力が強くてちょっと痛いよ。
「ランプの明かりに歴代の王族たちの姿が照らしだされる。彼はなんとなくそれを眺めながら歩いた。そのまま特に問題もなく廊下の端までたどりついて、彼は首をひねった。気のせいだったのだろうか? それとも、さらに先まで行ってしまったのだろうか。だが広範囲に調べるとなると、彼一人では手が足りない。夜番の者に知らせるべきかとひとまず引き返そうとして――ふと、違和感を覚えた」
イリスも真剣な顔で話に聞き入っていた。トトー君はあまり表情が変わらないので、どんな気分なのかよくわからない。ザックスさんは話自体には興味を持ちつつも、あまり怖がっているようすはなかった。そしてハルト様は、何度もグラスを口元へ運び、中身がなくなると落ち着かなげにグラスをいじり回していた。
こうして見るとそれぞれの性格がよく出ているな。
「何かがひっかかる――何が? 彼はもう一度、壁の肖像画を一枚一枚見ていった。そしてある絵の前で足を止めた。百年以上前の王子の肖像だ。狩りで立派な獲物を仕留め、得意気に胸を張っている姿――だが、よく見れば片足のくるぶしから下がなかった」
「……っ!」
ユユ姫が声にならない悲鳴を上げた。痛いいたい、爪が食い込んでるってば。
「そんな絵だったろうか? そんな姿をわざわざ描くだろうか? いぶかしみ、そして彼は思い出した――その王子は己の才気を誇るあまり、兄王を廃して己が成り代わろうとし、反逆罪で捕らえられて西の離宮に幽閉されたのだった。生涯外へ出ることを許されず、脱走を阻むため足には枷をはめられた。それでもあきらめなかった王子はひそかに仲間の手引きで斧を手に入れ、枷をこわして逃げようとした。だが枷はうまく壊せず、滑った刃が足へと落ちた。まだ十分な勢いを残していた斧は、王子の足を半分以上も切ってしまった」
「いや……っ」
ユユ姫は私の肩に顔を伏せてしまった。イリスもごくりと唾を呑む。幽閉とか足切断とか、その辺は実話らしく、ハルト様は心当たりのある顔でうなずいていた。
「悲惨な事故だ。だが王子の執念はすさまじく、それでも離宮を逃げ出した。追手から逃れ、山へ入り込み――しかし途中で力尽きて絶命した。最後は這っていたらしく、彼が通ったあとには血痕が引きずられ、そして中途半端に残っていた足がちぎれて落ちていたそうだ」
途中までとはいえ、その状態でよく逃げられたものだ。出血多量で動けなくなりそうなものだけどね。それだけ執念がすごかったということか。
「……その逸話を思い出し、騎士は鳥肌が立つのを感じた。さっきの引きずるような音は、もしや人が這っていた音なのでは……そんなことを考えながらふと視線を落とすと、絵の真下の床に黒っぽい汚れがあった。ランプの明かりを動かし、よく見てみれば……それは、血溜まりだった」
「いやいや、もうやめて!」
ユユ姫の悲鳴にもかまわず、アルタは話し続ける。
「息を呑み、そしてもう一度顔を上げた騎士が見たものは――絵の中から血が滴り落ちてくるところだった」
沈黙が落ちる。
誰も言葉を発することなく、アルタを見つめている。ユユ姫は私にしがみついて震えている。十分に間を置いて、アルタはしめくくった。
「それ以来王子の絵は下げられ、どこかへ厳重に封印されたと聞く。二度と王子が這い出してこないよう、鎖で絵をしばって鍵のついた箱に収められたそうだ。その箱がどこに隠されているのかは知らん。だが聞いたところによると、今でも箱の中から夜な夜な物音が聞こえるそうだ。斧で鎖をこわそうとする音が……」
「はい、質問」
話が終わったところで私は手を上げた。
「なんだ?」
「せっかく逃げ出したのに、なぜ王子はまた絵の中に戻ってしまったのかしら」
「……嬢ちゃん、そんな身も蓋もないこと聞くなよ」
アルタが肩を落として文句を言った。
「だって気になるじゃない」
「そんなところを気にするのは野暮ってもんだ。そこは曖昧なままでいいんだよ」
大きな手が軽く私の頭を叩く。だって怪談としてはありきたりだもん。ツッコミ入れたくなるじゃないか。
「ったく、どんな話を聞いてもちっとも怯えんな。鋼の心臓か」
呆れた調子で言って、アルタはソファの背もたれに大きな身体をあずけた。つられてみんなも息を吹き返し、場の空気がゆるんだ。
ここは一の宮の談話室だ。仲良しメンバーで集まって、飲み会をしている最中である。ただし私はお酒は禁止され、ジュースだけ。たまには夜更かしして遊ぼうと、王様も巻き込んでみんなでわいわいやっているうちに、怪談が始まったのだった。
こういう季節に、私の国ではどんなことをして遊ぶのかと聞かれて、蒸し暑い夜には怪談がお約束だと答えたためだった。日本の夏の風物詩である。参加者がそれぞれ怪談を披露するという百物語を教えると、まずイリスが乗ってきた。みんなが順番に話をして、今のアルタの話であと残っているのは私とハルト様だけになった。
「チトセは本当に冷静だな。僕はそろそろ背中が寒くなってきたけど」
イリスが苦笑しながら二の腕をさする。騎士が怪談ごときでびびってどうするんだろうね。
「反逆王子の話は実話なんですか? 脱走したのも?」
私が尋ねると、ハルト様は視線をさまよわせながらうなずいた。
「ああ……まあ、たしかにそういう話はある。絵のことは知らぬが……」
「罪人の絵を展示しているっていう時点で眉唾ですよね。普通そういう人の絵なんて飾らないんじゃないですか?」
「うむ……」
「だから身も蓋もないこと言うなっつの」
アルタが顔をしかめてお酒を飲む。いや、話は面白かったよ? 怪談部分よりも元ネタになった実話の方にそそられた。
「そういう、ローシェンの闇みたいな話はこう、くるものがありますね。ハルト様、もっと怖いお話ないですか?」
「……それは、怪談とは言えぬであろう」
「どうしてそんなにわくわくした顔で聞いてるの。反応がおかしいわよ」
ようやく復活したユユ姫が私にクレームをつける。おかしいって、なんでさ。歴史に興味を持っているだけでしょう。マリー・アントワネットのギロチンとか、ヴラド串刺し公とか、できごとだけを抜き出すと残酷で怖い話だけれど、全部ちゃんと背景がある。
「むしろ、ティトシェがどのような話ならば怪談として怖いと認識できるのかを知りたいな」
ザックスさんが言って、そうだな、とみんながうなずいた。
「よし、次はチトセの番だ。とびっきりの怪談を聞かせてくれ」
「ティトの国の人は怪談が好きみたいだから、たくさんあるんだろ……?」
イリスとトトー君が言う。私はうーんと首をひねった。
「どんなのがいいかな……昔から伝えられてる話は面白いけど、怖さはいまいちだしねえ」
琵琶法師とか牡丹灯籠とか四谷怪談とか、物語としては楽しめるけど、あんまり怖いと思ったことはない。
「わたくしは、あまり怖くない方がいいのだけれど……」
ユユ姫は今度は私から離れ、ハルト様の方へにじり寄った。
私はジュースを一口飲んで考える。
「テレビの特集は映像あってこその怖さだったからなあ……うーん、みんな訓練やお仕事で泥だらけになったり怪我しちゃったりすることあるわよね?」
「ああ、しょっちゅうだ」
「擦り傷くらいならね……」
「命に関わるような事故は、滅多にないが」
騎士たちがうなずく。
「小さな傷なんて気にもとめないんでしょうけど……もし、傷口から何か異物が体内に入り込んだら、命取りになるから気をつけてね」
「異物って、そんなことになったらわかるだろ」
呆れた顔で笑うイリスに、私は首を振る。
「じっさいにあった事例よ。小さなちいさな、針の先ほどの破片が傷口から血管内に侵入し、血液の流れとともに体内を巡るの。やがて心臓にいたる……本当に小さな破片ひとつで、命を落とすのよ」
「…………」
「あるいは、脳に入り込んだりね。その場合たちどころに異常は起きない。頭痛やめまいがして、原因もわからずどうしたんだろうなって思っているうちに意識を失い、そのまま……」
「いや、それはそれで怖い話だけど怪談とちがうから」
イリスは私の話をさえぎった。
「みんなに重々注意してもらいたくて」
「そういう生々しく怖い話はするなよ。怪談を聞きたいんだよ」
文句を言いつつびびってるね。トトー君やザックスさんも複雑な顔だ。今後は怪我に慎重になるだろう。こんな話がじっさいに起きる可能性はとても低いのだけれど、避けられる怪我なら避けた方がいい。平気だからって無神経になるのはよろしくない。
「手術の際にガーゼや器具を体内に置き忘れたまま縫合しちゃって、何十年もそのままだった話とか……」
「だからそういうんじゃなくて!」
「家に帰ったら留守中に侵入した男が刃物持って家具の下にもぐり込んでいるのが見えて、とっさに気付いてないふりでまた外へ出て通報したとか」
「怪談! 怪談だ嬢ちゃん! 事故や怪我や事件じゃなくて! っていうかそれは嬢ちゃんの経験か!?」
「いえ、ネットで見た話。下手な怪談よりぞくっとしたの」
「たしかに怖いが、怪奇現象を聞かせてくれ」
ぞっとする話をって趣旨には十分合っているはずだ。その証拠にみんな落ち着かない顔をしている。この人たち騎士なのにね。戦いになったらためらいなく人を殺すくせに、私から言わせてもらうとそっちの方がよっぽど怖いよ。
ハルト様とユユ姫は顔を見合わせ、どちらからともなく苦笑した。
「ティトらしいわね」
「幽霊などと不確かなものより、生きている人間の方が怖いということか。真理ではあるな」
私はちょっと肩をすくめた。怪談だってたくさん知っている。でも本気で寒くなるほど怖い話って、なかなか思いつかない。映像や写真という概念がないと通じない話も多いのだ。
「お葬式の最中にいちばん小さい子が誰もいないはずの場所に向かっておじぎしてて、どうしたのって聞いたらおじいさんがいた、って」
「お、おお、それらしくなったな」
「同じような話で、飼い猫が一斉に同じ場所を見てうなり出したとかね。何もいないのに、みんな毛を逆立ててうなってるんだって」
「なんか、実話っぽいな……」
「実話らしいわよ。猫を飼っている人の経験談」
うーん、他に何があったかな。
「タクシーの運転手さんが……ええと、乗合馬車の馭者みたいな人だけど、深夜に乗せた客になんとなく見覚えがある気がして、後方確認のための鏡に映った姿をもう一度よく見たら、死んだ自分の父親だったとか」
「絵に描くのとは別の、風景をそのまま記録しておく技術があるんだけど、あとで見たらおかしなものが写っているっていうのはよくある話だったわ。もうはっきり人相までわかる人の顔とか、一瞬だけ映る誰かの足とか」
「ある怪談をお芝居で演じる時には、必ず決まった神社へお参りをしないといけないの。先にお参りしておかないと、絶対途中で事故が起きるんですって」
話すほどに、みんなの顔から表情が抜け落ちていった。やいやい言っていたイリスやアルタもすっかり静かになってしまった。白けちゃったかな?
「つまんなかった? こんなありがちな話じゃ怖くないか」
「それでありがちって、チトセの世界はどんなとこだよ……」
イリスがドン引きの顔で言う。
「どこの世界にも怪談はあるってことよ。こうしてみんなも話しているじゃない……ああそうだ、この百物語ってね、最後の一人が話し終えると参加者が増えているのよ。知らない顔はないはずなのに、確実に一人多いの」
「やだ、いないわよね? 誰もいないでしょう?」
ユユ姫がハルト様にくっついて周囲を見回す。わからないから怪談なんじゃないか。みんな知ってる相手なのに、誰かが一人多い。
「怪談をすると霊が寄ってくるらしいから、もしかするともう来ているかもね」
「いやああああ」
派手に怖がってくれるのはユユ姫だけだ。男どもは苦笑して、でもこっそり周囲を見回していた。少しはぞくっとした? 楽しんでもらえたなら何よりです。
「じゃあ最後にハルト様、締めのお話をお願いいたします」
「……チトセの話の後では、どうにもやりづらいな。それに最後の一人が話し終えてはいかんのだろう?」
「いいえ。むしろ途中でやめる方がまずいかと」
「そう言われるとますます気になってくるが……では、あれを」
すっと上げられた手が窓を指差す。つられてみんながそっちを見た。私も見た。暑いのでカーテンを寄せたまま、窓は全開にされている。その向こうは真っ暗な庭だ。何も見えない闇を背景に、青白い姿が浮かび上がっていた。
「――っ!」
これには全員驚いた。私も驚いた。げっそりとやつれてやせ衰えた顔が、外からこちらをのぞき込んでいる。
「……その顔でいきなり現れるなよ!」
アルタがわめく。青白い人影はゆらりと動き、掃き出し窓から中へ入ってきた。
「遅くなりまして。盛り上がっているようですな」
飄々とやってくるゾンビ顔に、みんな一斉に脱力した。なんというタイミング。私はハルト様をちょっとにらんだ。
「示し合わせていたんですか?」
「いや、まさか。私もついさっき気がついて、驚いたのだ」
笑って答えるけれど、ちっとも態度に出しませんでしたよね。意外とお父様がいちばん胆が太いのかもしれない。
「間の悪い時に来てしまいましたかな?」
「悪いよ、めちゃくちゃ悪いよ!」
「本物の幽霊が現れたかと思ったよ……」
「はまりすぎだな。オリグ殿も、なにゆえ庭から来られたのです?」
オリグさんを迎えて、みんな八つ当たりな文句を言っていた。ザックスさんの問いに、オリグさんは首をかしげた。
「女官が、こちらから行った方が早かろうと教えてくれましたので」
「まあ、誰かしら。そのような案内をするなど、おかしな話ね」
ユユ姫が眉を寄せる。たしかに、こんな夜なら遠回りでも玄関から入れられそうなものだが。
「さて、名は存じませぬ。かなり年嵩の女官でした」
んー? 誰だろう。年嵩って具体的に何歳くらいだ。一番年長は女官長で五十代前半、その次が四十代半ばだったはず。でも女官長ならオリグさんは知っているよね。じゃあ下の……。
「実は私も不思議に思っておりました。どう見ても七十にはなっていそうな老婆でしたが、そのような女官がおりましたでしょうか? おまけに、到着して振り向けばもう姿がないのです。私を案内してまた戻ったのでしょうか。年の割におそろしく素早いことです」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
みんな言葉を失って黙り込んだ。なにそれ、典型的な怪談なんですけど。
百物語をやっていたことなんて、オリグさんは知らないはずだ。それらしい話をでっちあげて怖がらせようなんて、考えないと思うのだが。
本当にそんな女官がいたのかと問い詰められて、オリグさんは飄々とうなずいていた。この人は平気な顔をしてだましてくるからわからないけれど、なんとなく嘘はついていないんじゃないかと思う。しつこく聞かれることに不思議そうにしていた。
結局、暗いせいで見間違えて、じっさいより年上に勘違いしたのではないかという話になり、それ以上の追及はなされなかった。みんな無理やり理屈をつけて納得したがっていたようだ。でも私は、後日こっそり女官長に聞いてみた。
「ああ、それは先々代の陛下にお仕えした女官ですよ。たまに仕事を手伝ってくれるのです」
当たり前の口調で返ってきたのは、驚くしかない内容で。
「害はないから大丈夫ですよ」
あっさり言って女官長は仕事に戻っていく。私は心から実感した。騎士よりも王よりも、女官長がいちばん強い。尊敬するしかない。
この話と庭の片隅にある小さな慰霊碑のことは、いつイリスたちに教えてあげようね?
《ローシェン百物語・終》
書く予定はなかったのに、急に思いついて書きました。季節ものですからね。




