結婚報告は宣戦布告 《6》
賊のことはナジムさんと騎士たちにまかせて母屋へ戻ると、なぜか双子が私を待ち構えていた。
「あ、戻ってきた」
「賊のようすなんか見に行って、何してたの」
これまでほとんど私を無視していたくせに、急ににぎやかに話しかけてくる。気持ち悪いほどの愛想のよさだ。
「大兄出て行っちゃったし、お互い暇だよね」
「一緒に遊びに行かない? この近くを案内してあげるよ」
よく似た顔がにこにこして私を誘う。私も笑顔でうなずいた。
「ありがとうございます。それじゃあ、少しだけ待っていていただけますか? 支度をしてきます」
「いいよー」
「じゃあここで待ってる」
ふたりに見送られて部屋へ戻る。クロゼットから急いで外出用の服を取り出した。
昨日で懲りたし、汚れの目立たない服にしよう。何があるかわからないからね。
男の子があんな顔をしている時は要注意だ。ろくでもないことをたくらんでいる。なりはでかいがあの二人の中身は中学生レベルと見た。絶対何かやらかすに違いない。
普段ならこういうのにはお付き合いしないところだが、ここでそういう選択はできない。彼らはイリスの弟、いずれ私とも義理の姉弟という関係になる。もっと接して少しでもうちとけなければ。
いじめでも何でもどんと来いだよ。こちとら十年以上のキャリアを誇る身だ。あらゆる事態に耐性がある。受けて立とうじゃないか。
色の濃い服を着て、足元にはショートブーツを履く。今日も帽子と手袋装備でいざ出陣――の前に、女中さんに頼んであるものを用意してもらう。受け取ったそれを小さな手提げにしのばせ、玄関へ向かった。
双子は馬を用意して待っていた。
「どっちに乗る?」
馬は二頭。私が一人では乗れないことは承知しているようだ。無理に一人乗りさせるという嫌がらせはしないのか。まだ人目があるからかな。
それぞれの馬をなでてやりながら、なんとなく栗毛の方を選んだ。どっちでもいいんだけど、この子の方がおとなしそうだ。
「レマか。じゃあルーフィと一緒だね」
ニノイがそう言って、さっさと自分の馬にまたがる。私はルーフィの手を借りて馬に乗った。
ナハラでの戦以来だな。エンエンナではあまり馬は使われていないし、私が乗る機会もない。ハルト様やメイに乗せてもらったことを思い出し、ちょっとぼんやりしていたら、いきなり馬が走り出した。
不意打ちでバランスを崩し、あやうく落っこちそうになってルーフィにしがみつく。これも軽い意地悪だろうか。ふたりは笑い声を上げていた。
……ま、この程度で腹を立てるまい。ちょっと驚いただけで、体勢を整えてしまえば別に怖くはない。襲ってくる敵兵もいないから、のんびりしたものだ。
軽い駆け足、という程度の速度で馬はのどかな田舎道を行く。私は帽子が飛んでいかないよう押さえつつ、周囲の景色を眺めた。
開けた風景が物珍しい。山は遠く、どこまでも平らな農地が広がっている。麦畑に野菜畑、向こうにあるのは葡萄畑だろうか。
村の人たちが畑に出て働いていた。ニノイとルーフィは時々手を振って挨拶する。向こうからも陽気な挨拶が返っていた。
双子といっても、見分けがつかないほどそっくりなわけではない。おそらく二卵性なのだろう。どちらも濃い金髪を短くしているけれど、ニノイがほとんどストレートなのに対して、ルーフィは巻き毛だった。瞳はニノイが金茶でルーフィは濃い茶色。ともに青い目の両親からこういう色素の子供が生まれるって、遺伝の不思議だな。祖父母とか先祖とか、いろんなDNAが混ざり合っている。みんな黒髪黒目の日本人だと、親と違う色素を持っていたら家庭争議の元だよね。
年長組が女顔なのに対して、彼らは割と男っぽい顔だちをしていた。ご多分に漏れず結構なイケメンだけれど、イリスとはあまり似ていない。父親似だ。イリスは完全に母親似。あれをもっと優しく繊細に、そして知的にした感じがフェルナリス夫人である。
でも明るい体育会系な雰囲気はそっくりだった。きっとイリスも、十代の頃はこんなやんちゃそうな雰囲気だったんだろうと思わせる。性格も似ているといいんだけれど。
しばらく走って、森の入り口で彼らは馬を止めた。館の裏から続く森で、村の人がよく出入りするのか、小さな道ができていた。
「少し奥にね、ヴィラの木があるんだ。ヴィラって知ってる?」
私を馬から下ろしながら、ルーフィが尋ねてくる。初めて聞く名前なので首を振ると、甘い実をつける木なのだと教えてくれた。
「花もきれいだよ。今なら両方楽しめる」
「木苺で喜んでただろ? そういうの好きなら、きっと気に入るよ」
いかにも友好的に言ってくるふたりに内心警戒しつつ、ともに森へ入る。強い日射しがさえぎられ、ひんやりした土と緑の匂いに包まれた。
こちらの世界で過ごして一年。普段の住処は山の中だし、樹木ばかりの風景には慣れたけれど、でこぼこした妙にやわらかい地面というのはまだ落ちつかない。道があるとはいえ草だらけで木の根が伸びていたりするし、気をつけないと転びそうだ。
「足元気をつけてね。大丈夫?」
「ええ……もう少し、ゆっくり歩いていただけるとうれしいですけど」
「ああごめん、気がつかなかった」
ニノイが手を伸ばしてきて、私の手を引いてくれた。武術の訓練をしているということだったが、なるほど騎士たちと同じ手だ。腕前はどのくらいなんだろうね?
「おふたりとゆっくりお話するのは初めてですね。レイシュさんとは大分お話できたのに、おふたりとはなかなか機会がなくて気になっていたんです」
思いきって私から話しかけると、彼は明るく笑顔で答えた。
「そうだね、賊のことで出かけてばかりだったから」
「だから今日さそってくださって、うれしかったです。もしかして避けられちゃうのかなと思っていましたので」
「あはは、別に避けたりしないよ」
「ごめんね、大兄が帰ってきたの、本当に久しぶりだったからさ。いろいろ話したかったし、一緒にいたくて。それに君は着いたばかりの時体調悪そうだったし、レイ兄が相手してるからいいかなと思って」
能天気そうな受け答えもイリスに似ている。外見より中身が似ているようだ。
――それなら、ちょっとは楽観的になってもいいのかな?
「実は私、ずっと心配だったんです……いくらハルト様の養女になったからって、元は平民ですし、この国の生まれでもありません。フェルナリス家みたいな格式の高いお家の方には、受け入れていただけないんじゃないかと……」
しおらしげに言ってみると、ふたりは顔を見合わせたあと、異口同音にうーんとうなった。
「そこはなあ……大兄がいいと思ったんなら、別にいいんじゃない?」
「父上も母上も、そういうことで人を判断しないよ。レイ兄だって、君が元平民だからって理由で反対してるわけじゃないだろ? まあ身分や家柄だって、多少は考慮するけど、それより大切なのは本人の資質だからな」
答えるふたりの顔に、口先だけの嘘という雰囲気はなかった。思ったより寛大なのかな? たしかにイリスを見ていると、血統重視の権威主義とは無縁そうだ。家族も同じとはかぎらないと思っていたけれど、根本的な部分は似た思想なのだろうか。
「レイシュさんが反対してらっしゃることは、みなさんご承知なんですね」
「ご承知も何も、はっきり言ってるからね。君にも隠してないだろ? レイ兄は人当たりがいいとは言えないけど、けっして陰湿じゃないよ。気に入らないなら気に入らないってはっきり言うから」
……たしかに、そのとおりだ。意外とストレートにぶつかってくるから、もっと陰湿な対応を予想していた私としては、拍子抜けする思いだった。
「まあ、気に入らない理由の半分くらいは大兄を取られたくないってことだろうけどね」
ルーフィがいたずらっぽく言う。屈託のない笑顔に、不思議な思いがする。
「おふたりはちがうんですか? レイシュさんと同じ気持ちになったりしません?」
「さあ、どうだろ」
つと手を引かれ、道からそれて木立ちの方へ踏み込んだ。ますます足元が危なくなり、歩くペースががくんと落ちる。双子はそんな私を急かすこともなく、調子を合わせて歩いてくれた。
「大兄は俺たちの英雄だよ。ただ、家を出たのが十年前……俺たちが九歳の時だからね」
「大好きだけどさ、なんかちょっと、遠い存在のような気もする。レイ兄の方が身近だね」
なるほど。そういえばそうだ。イリスが竜騎士になった時、彼らはまだ小さかった。それからはたまにしか会えなくなり、兄弟といっても身近な存在ではなかっただろう。
二つしか違わないレイシュとは、また別の想いがあるんだろうな。
「きみは兄弟いるの?」
考えていると、今度はニノイの方から聞いてきた。私に関心を示す質問は、はじめてだな。
「ええ、姉と弟がいます」
「へえ。いくつ違い?」
「姉は四つ上、弟は一つ下です」
「兄弟仲はいい方?」
「よかったですよ。特に弟とは、ほとんどけんかもしませんでしたね。私よりあの子の方がしっかりしていて、逆に面倒見てもらうことも多かったです」
「あはは、お姉さんが弟に面倒見てもらうの?」
「ああ、でもなんとなくわかる。君って、すごく大切にされてきた人って感じだよね」
「平民出身って言うけど、多分いい家だったんだろう? 俺たちが知ってる平民とは全然ちがう。もっと裕福な育ちだよね」
交互に言われて、私はどう答えたものかと困りだまってしまった。たしかにそうだ。現代日本はいろんなことが発達していたおかげで、庶民の暮らしもこことは段違いに裕福だった。中には貧困に苦しむ人たちもいたけれど、一般的な家庭では子供は学校に通うのが当然だったし、真面目に生活していればそうそう食べるに困るようなことにはならなかった。災害とか難病とか、日常を超えた苦難が降りかからないかぎり、生活が苦しいと言いながらもここよりはずいぶん贅沢な暮らしをしていたものだ。
そのちがいを説明しても、あまり意味はないだろうな。この世界の人々から見れば、私は苦労知らずのお嬢様にしかならない。
「だから育ちに関しては、そんなに気にならない。公王陛下のもとで教育も受けているみたいだし、問題ないんじゃないかな?」
「……そうですか」
寛大な言葉に、喜ぶべきなのかもしれない。でも私としては、つい言葉の裏を勘繰ってしまう。育ちに関しては、ということは、他の部分で何か気になるという意味だろうか――なんてね。
道をはずれてから五分ほど歩いた頃、甘い香りが鼻をくすぐった。クチナシの花に似た、濃厚な香りだ。男性の背丈より少し高いくらいの木に白い花が咲き、その陰からクリーム色の実がぶらさがっていた。
この色と形、ものすごく何かに似ているね! 東京土産の定番、バナナなお菓子にそっくりだ。大好物だよ味も似ているのかな。
実は木の上の方からなっていて、下は花ばかりだ。背の高いふたりがひょいひょいと取って、私に渡した。
「ここから皮がむけるから」
教えられたとおりにすれば、柔らかい皮はするりとむけた。中から乳白色の果実が顔を出す。そっと口をつけると、バナナというよりドリアンっぽい味だった。つまり非常に甘い。しかも臭くない。トレヴィアン。
「気に入った? 甘すぎるっていやがる人もいるんだけど、君は大丈夫そうだね」
「甘いものは大好きです」
「よかった。じゃあ、向こうのユルヤームも採ってこようか。これとはまたちがった甘さが楽しめるよ」
森の奥を指差してルーフィが言う。甘味は魅力的だけど、これ以上森歩きをするのは辛いなあ。
「じゃあここで待ってて。そんなに遠くないから、すぐ戻ってくるよ」
「待っててねー」
首をかしげる私にさっさと了解して、ふたりは背を向ける。あ、これはと思ったが、私はそのまま見送った。
……ま、いい。ほぼまっすぐ歩いてきたから、方向はわかる。いざとなったら夜を待てばいいんだし。
私はヴィラの根元に腰を下ろし、残りの実を食べて待った。案の定、ふたりは戻ってこなかった。すぐ戻ると言ったけれど、それは何分くらいを指しているんだろうね。感覚的に、もう三十分は経ったぞ。
知らない森の中で置き去りね。上ふたりがストレートなのに対して、下ふたりはなかなか黒くないか? こういういじめをあんないい笑顔でやらかすとは。
しかし甘く見ないでほしい。このくらい慣れっこだ。最後の修学旅行でもやられたものだ。森に入った時からなんとなく予想していたよ。
不安がまったくないと言うと嘘になってしまうが、パニックを起こすほどではなかった。ちゃんとこういう事態も想定して、手は打ってある。彼らに本気で私害する気がなければ日が暮れる前には迎えにくるだろうし、そうでなくても帰れると思う。最悪、夜になっても私が戻らなければ、イリスがさがしにきてくれるだろう。
ひとりでただじっと待つのが退屈すぎるだけで、それほど困りはしなかった。カームさんと山の中をさまよった時は刺客に追われてもいたから、精神的な負担が大きかったが、今回はそういう心配をしなくていい。木の影に入っていれば暑さや日焼けも気にならない。
根比べだ。のんびり行こう。
――そう構えていた私だったが、困ったことにのんびりもしていられない事態が発生した。
ヴィラは花も実も甘い芳香を放っているため、虫がよく集まってくる。爬虫類は平気だけど虫はちょっと苦手である。それでも害のない虫なら、こっちに来ないよう追い払うだけでよかったのだが、ハチがぶんぶんと大きな音を立ててやってきたものだから飛び上がってしまった。
この音、大きさ、ミツバチじゃないよね。なんだろう、この世界にもスズメバチっている? もっと危険なのがいたりする? なんであれ刺されたくはない。
そっとヴィラの木から離れたが、数匹がどういうわけか私を追ってきた。いやだあ、本当にスズメバチ? 服の色が濃いから狙われるの?
あわてて逃げた私は、うかつにも元来た方向ではなく別の方へ走ってしまった。走りかけて気がつきはしたものの、ハチが追いかけてくるので戻れない。しかたなくそのまま前進し、見知らぬ森の奥へと迷い込むことになってしまった。
幸いハチはそれほどしつこく追いかけてこなかった。羽音が聞こえなくなったことを確認し、私は足を止める。さて困った。ここからちゃんと帰れるだろうか。
まっすぐ戻れば大丈夫だよね。くるりと後ろに向き直って、そっちへまっすぐ……。
まっすぐ戻ったはずなのに、いくら歩いても甘い香りがただよってこない。そこまで遠くへ離れたわけではないのに、こんなに歩いてたどりつけないなんて変だ。つまり、方向を間違えたのか。
……やばいなあ。
どうしたものかとその場で考える。迷ったとはいえ、大した距離を歩いたわけじゃない。ここでじっとしていれば、さがしに来た人の声が聞こえるだろう……多分。
迷いやすい人の特徴は、やたらと歩き回ることだと聞いた。遭難した時はじっと助けを待つ方がいい。ぜったい、イリスがさがしにきてくれるから。
深呼吸をして気持ちを落ち着ける。大丈夫、そんなにひどい状況じゃない。ここで取り乱して泣いたりするものか。
あらためて座れる場所をさがし、持久戦に入る体勢を整えた。しかし悪い時には悪いことが重なるもので、しばらくすると辺りが暗くなり、空に不吉な音が轟き出した。
ええー……この状況で雨まで降るか……。
どうか降らないでくれという願いもむなしく、五分と経たないうちにすさまじい勢いで雨が木の葉や地面を叩き出した。空ではゴロゴロと雷が鳴っている。典型的な夏の通り雨だ。
多分、そんなに長くは降り続かないだろうけれど、ずっと雨に打たれているのは辛いなあ。けっこう痛いし、暑さはどこかへ消え去り、濡れた肌がたちまち冷えてくる。少しでもしのげるようにと大きな木をさがしたが、それはそれで落雷のおそれがないだろうか。って、こんな森の中にいて今さらかな。どうしよう、いくらなんでもこれで雷にまで襲われないよね?
少し離れた場所に大きく枝を広げた木があったので、そちらへ向かう。さすがにこの段階になると腹が立ってきた。
あいつら、雨が降ることまで計画のうちか?
まさかそこまでは、と思いたいけれど、イリスは天候を読める。雨が降りそうな兆候があれば、こんなふうに遠くまで連れ出さない。
彼の弟たちに同じ特技がないと、なぜ断言できる? もしわかっていて仕組んだのなら、あいつらぜったい報復してやる。
どんな報復が効果的かと考えながら歩いていたら、どこかで人の声がしたように思った。足を止めて耳を澄ます。雨の音がうるくさくてよくわからない。でもかすかに、男の声が聞こえた。
ニノイとルーフィかな。さがしに来たんだろうか。
声がしたとおぼしき方向へふらりと踏み出す。こっちからも大声を出して呼ぶべきか。でも必死に助けを求めているみたいで、あいつらにそんな姿を見せるのは嫌だな。そんなこと言っていられる状況じゃないかもしれないけど、意地を張りたくなってしまう。
だまったまま数歩歩いた時、足元がずるりと滑った。急な大雨で小さな川ができていて、その中に踏み込んだのだ。驚いて踏ん張ったが止まらなかった。ぬかるんだ地面に靴底が滑り、立っていられなくなる。泥まみれになることを覚悟しながらそばのしげみに倒れ込んだが、不運はそこで終わりではなかった。
……そうだよね、私ってひどい目に遇う時は、徹底して不運が続くんだよね。
茂みの向こうはちょっとした段差になっていて、私はそこを転がり落ちてしまった。幸いなことに以前のような高い崖ではなく、すぐに下の地面に到着したが、それでもしばらくは起き上がれなかった。
あーあー……髪も顔も手も服も、みんなずぶ濡れの泥だらけだよ。これ、ユユ母様が昔お気に入りだったっていう服を、わざわざ仕立てなおしてもらったのに。濃い深緑でちょっとくらいの汚れなら目立たないけれど、ここまで泥にまみれてしまってリカバリーできるんだろうか。
くそう、あいつらをユユ母様の前に引きずり出して土下座させてやりたい。いや、こんな事態も想定して、もっと気軽に汚せる服を持ってくるべきだった? 彼氏の実家へ結婚報告の挨拶しに行くのに、そういう心得って必要なんだろうか。
大きくため息をついて地面に手を突っ張る。最低に情けない気分で身体を起こし、怪我がないか確かめた。うんセーフ、擦り傷と打ち身くらいだ。よかった。
とりあえず、双子への報復は崖から突き落としてやることでいいかな?
もう一度深呼吸しながら立ち上がる。大変な時こそ冷静でないと。パニクったらおしまいだ。
近くに転がっていた手提げを拾い、服についた草の葉や土を手ではらう。もういっそ、この雨を逆利用しようかな。泥を洗い落としてくれていいじゃないか。
開き直って顔を洗ったら、雨足が少し弱くなったのを感じた。さっきまでより音も控えめになっている。雷も徐々に遠のいているようだ。さすが夏の雨、あっという間だ。
しばらく待つと森に鳥や虫の声が戻ってきた。木の間から明るい光が差し込んでくる。雨は細い糸のようになり、やがて完全に消え去った。
髪やスカートの水気をしぼり、手提げからハンカチを取り出す。当然それも濡れていたが、泥がついていないのでしぼって顔を拭く。さて、ここからどうしようとあらためて周りを見回した。
段差はちょっと登れそうにないが、大声を出せば双子に届くかな。迷って雨に降られて転がり落ちた情けない姿を彼らにさらすか。非常にくやしいが、いっとき我慢してこれほどひどい目に遇わされたのだと後で訴える? 待っていろと言ったのに勝手に迷ったんだと言われそうだな。でも明らかに意図的に置き去りにしたわけだし、こっちだって迷いたくて迷ったわけではないし、そこは他者にもわからないだろうか。
今後の対応策を考えてその場でぐるぐるしていると、不意に近くで物音がした。驚いてびくりと振り返る。双子が気付いて下りてきたのだろうかと思ったら、現れたのはもっと小さな人影だった。
「あれ? 姫様だ」
「びっくりしたー、お化けかと思った。なにやってんの」
「うわあ、ドロドロだ。転んだの?」
なんと、昨日の子猿――もとい、村の子供たちだった。今日は三人しかいないが、いちばん大きかった子と小さかった子が揃っている。
「……あなたたちは、あんまり濡れてないのね」
目の前にやってきた男の子たちを見下ろす。それぞれ大きな籠を背負って、彼らは自慢げに笑った。
「雨宿りの木があるんだ! 姫様はすごいね、上から下までびっしょりだ」
「ええ、もう」
私はやれやれと息を吐いた。ひどい目に遇ったが最後はラッキー。これで村へ帰れそうだ。この子たちは外へ出るルートを知っているだろうから、一緒について行けばいい。ニノイとルーフィ? 知らないね、放置決定だ。
「ひめさま、だいじょうぶ?」
いちばん小さな子が私のスカートを引っ張った。この子はたしかティムル君だっけ。
「ありがとう、大丈夫よ。濡れてちょっと寒いけどね」
「あっち、おひさま当たるよ。行こう」
小さな手が私を明るい場所へ引っ張ってくれる。ありがたい、今は日焼けよりぬくもりだ。
「三人とも大きな籠を背負ってるけど、何か採りに来たの?」
三人のうち大きいふたりは鎌も持っていた。いちばん大きい子がスウェンでティムルのお兄ちゃん、もう一人は仲良しのザナンだそうだ。
「そうだよ。木の実やキノコや薬草や、いろいろ」
「父ちゃんと兄ちゃんたちは畑に出てて、母ちゃんは家畜の世話、オレたちは森でいっぱい採ってくる役目」
「……えらいのね」
いちばん年上のスウェンでも十歳になるかどうかといったところだ。小さなティムルを連れて、遊びではなく仕事として森へ来ているのか。
「当たり前だよ。村の子はみんなやってるよ」
「森の恵みが少ない時は、母ちゃんの手伝いしてるんだ」
当たり前と言いながら、子供たちは自慢げに胸を張った。己を省みて、私は少し恥ずかしかった。双子の言うとおり、私は周りから大切にされるばかりで何もしていない。こんな小さい子たちにもかなわない。
結婚したら、私も畑に出なきゃいけないのかな。
いやいや、フェルナリス夫人のは単なる趣味でしょ? 貴族の奥方の仕事は、農民とはまた別だよね?
別だと言ってほしい……働くこと自体に抵抗はないけれど、肉体労働は避けたい。そんなことを考えるのがすでに甘えだとは十分わかっている。でも私、肉体でバリバリ働ける自信ないです……。
日射しに当たってどうにか少し温まったけれど、太陽は大分傾いていた。館を出た時点で昼の遅い時間だったから、きっともう夕方なのだろう。夏だから空はまだ明るいけれど、そろそろ家に帰る頃合いだ。
「もう帰る時間でしょ? あなたたちのお仕事も、今日はおしまい?」
さり気なく聞いてみると、子供たちは首を振った。
「まだだよ、あとクラムの実を採りに行ってから」
お、なつかしい名前だ。
「知ってるわ、それ。甘酸っぱくておいしいのよね」
「うん、お酒の材料にもなるんだよ」
「でもこの時季なら、もう終わりなんじゃないの?」
「大丈夫、まだある場所知ってるんだ」
得意気な子供たちに連れられて、私はまた森を歩くことになった。本音では早く帰りたいのだけれど、この子たちの仕事を邪魔するわけにはいかない。クラムの実を採って終わりなら、あと少し頑張って付き合おう。そして村の人に頼んで館まで送ってもらおう。もちろんその際には、双子に置き去りにされたのだとしっかりアピールしてやる。
私の目にはどこも同じに見える風景の中を、勝手知ったる様子で子供たちは進む。蔓植物がびっしりとからみつく木のもとまでやってきたが、そこで彼らは失望の声を上げた。
「なんだこれ、全部なくなってる!」
「ひっでえ……まだいっぱいあったのに」
以前地竜のお母さんからもらい、自分でも見つけた蔓に見覚えがあった。スモモくらいの紫の実をつけているはずの茎には、もうひとつも残っていなかった。
「あら残念、森の生き物が食べちゃったのね」
「……ちがうよ」
スウェンが地面にしゃがみ込んで何かを調べていた。落ちているものを指差して言う。
「人が採って食べた跡だ」
よく見ると、たしかに食べ散らかした跡がある。皮がそこかしこに捨てられていた。
「森の生き物たちなら、こんな食べ方しない。これぜったい人間が食べたんだ」
「そう……じゃあ誰かが先に来ていたのね」
残念だったわね、と言おうとしたら、立ち上がりざまスウェンが怒った声を出した。
「誰だよ、こんなことしたやつ! 森の生き物のために、ぜったい半分は残すって決まりなのに!」
幼い顔が一人前の男に見えた。村人たちの間の、暗黙のルールがあるのだろう。こんな小さい子もそれをきちんと守っているのに、どこの誰が食いつくしたのだか。
「そうなの、ひどいわね。でも今の時季なら森には食べ物がたくさんあるから、鳥や動物も困らないでしょう? もしかしたら、その人はものすごくおなかが空いて倒れそうだったのかも。でなきゃ、こんなふうに食べ散らかしてはいかないと思うの。こっそり採って帰るんじゃないかしら」
「…………」
「許してあげましょう? もしまた同じことがあったら、その時はきちんと調べて犯人を探さなきゃいけないけど」
不服そうな顔ながらスウェンはうなずく。同様に気落ちしている他の二人もはげまし、私は村へ帰ろうと言おうとして――言えなかった。
「ありがたいねえ……許してくれるのかい、優しい子だ」
気味の悪い猫なで声が背後から聞こえ、首筋に冷たいものが当たる。
「ついでに、もう少し優しくしてくんねえかい? そうなんだよ、お兄さんたちはすっげえ腹ペコなんだ」
子供たちからも悲鳴が上がった。どこに隠れていたのか、突然現れた大人の男たちが、ナイフを手に取り囲んできた。
小太りの茶髪、片目を隠した陰気な黒髪……。
「その籠の中身、全部よこしな」
背後から私にナイフを突きつけて、子供にカツアゲしようとしているこの男はきっと赤毛だろう。
なんてこった。
イリスが調べに行った、もう一組の賊は、こんなにも近くにいた。




