結婚報告は宣戦布告 《4》
強盗団一斉検挙に向けて翌日もイリスは朝早くから出ていったので、私はまたお留守番だ。勉強するでもなければ趣味にひたれるツールがあるわけでもなく、ただ客間でぼーっとしているのはさすがに退屈すぎる。昨日は旅疲れもあって一日休養にあてたけれど、今日は少し外へ出てみようかと思った。
好天が続いているので、帽子をかぶった上に日傘を差し、手袋もつけて完全防備だ。かなうことなら日焼け止めクリームもほしいところ。手袋も本当はもっと長いのがほしかったのだけれど、この時季にそんなものは使わないと却下され手首までだ。どれだけ効果が見込めるやらはなはだ心許ないが、ないよりましと思うしかない。
通りがかった女中さんに散歩をしてくると伝えて、私は玄関を出た。
爽やかな風が肌をなでる。輝く緑と青い空が美しい。道端にはマーガレットに似た白い花がたくさん咲いていた。青紫の穂をぴんと伸ばした、涼しげな花もある。小さな蝶やミツバチが花の間を忙しく行き来していた。
館の周りにそびえる塀はなく、せいぜい膝丈くらいの植え込みがある程度だ。開けた視界は解放感にあふれている。ここから庭、この外は道という、単なる目印程度で、部外者を厳格に排除するための仕切りではない。植え込み沿いに外の道を歩いていると、庭側にしゃがみ込んで作業する麦わら帽子を見つけた。広いつばに隠されて顔はよく見えないが、多分昨日の庭師さんだろう。
「おはようございます」
そばまで近付いた時に挨拶をすると、はじめて気付いたといったようすで顔が上げられた。私の姿を見て、またあわてて伏せられる。
「これは……おはようございます」
「……昨日はお騒がせして申しわけありませんでした」
「いえいえ、もうお加減はよろしいので?」
「ええ、大丈夫です」
うちの父より少し年長らしいおじさんは、汚れてもいい作業服姿でありながら、なんとなく品のよさをうかがわせている。穏やかな声が、少しハルト様を思い出させた。
彼の足元には、雑草がこんもりと積み上がっていた。この広い敷地をずっと草引きして回るのか。想像しただけでめまいがするな。ご苦労さまです。
「この館のお庭全部、お一人で手入れなさってるんですか?」
「いやいや、まさか。さすがに一人では手が回りません。ほかにも人がおりますよ」
「そうですか。でもずっとそうやってしゃがんでいらっしゃると、足が疲れません?」
「はあ……まあ、仕方ありません。こういう仕事ですからな」
慣れているのだろうけれど、足腰にくる作業だと思う。私だったら三十分ももたないな。
「しゃがむくらいの高さになる小さな椅子に車輪をつけると、大分楽になると思いますよ。座ったまま移動もできて、足腰への負担が減らせます」
「ほほう、なるほど」
「ついでに椅子部分が収納になっていて、作業に必要な道具を片付けられるとなおいいですね」
ホームセンターの園芸コーナーで売っていた。祖母の庭仕事が楽になるよう、姉弟でお金を出し合って母の日にプレゼントしたよ。草引き手伝う時には自分で使ったけど。
「ほう、いいですな。作らせてみましょうか」
お役立ちアイデアと認められたようだ。返ってくる声にはお世辞でない明るい響きがあった。うん、いろいろ試して使い勝手のいい道具を作ってもらってね。庭仕事だけでなく、畑仕事にもきっと役立つと思うから。
「今日はお出かけですかな?」
「ええ、ちょっと周りをお散歩してこようかと」
村の民家と館は少し離れていて、周囲はのどかな小道と林が続いている。裏手には小川が流れ、その向こうはかなり深い森になっている。
「あまり森に深く入り込まれませんように。迷ってしまってはいけませんし、奥の方には危険な獣もおります。まれに館の近くまで出てくることもございます。この時季は食べ物も多いので、まず大丈夫とは思いますが、くれぐれもお気をつけて」
忠告にうなずく。
「わかりました。入り口からのぞく程度にしておきます」
会釈をしてその場を離れる。歩いていくと庭の一角に畑があって、これが奥様専用菜園かと眺める。趣味というには立派な畑だった。今は黄色い実のなる野菜が旬らしい。あれってもしかしてカカ? 調理されたものしか見たことがなかったけれど、あの色にすごく見覚えがある。ナスビみたいな形をしていたんだな。
水やりしていた女性がこちらに気付いたので、会釈する。エプロンに帽子と、これまたのどかな姿だ。会釈だけ返してもらって、話はせずそのまま通りすぎる。
小鳥の声を聞きながらのんびり歩くのは楽しかった。エンエンナ宮とちがって坂がないから楽でいい。ちょろちょろと走っていくのはリスだろうか。ウサギなんかも出てこないかな。
期待して木立の間を見回していたら、こちらに注目している小さな顔がいくつもあった。おお、子猿の群れだ。
「あれ姫様?」
「姫様だ」
「すげー、本物だ」
「ちがうんじゃない? だってお姫様って美人なんだよ」
「でもきれいな服着てるよ」
「姫様って、イリス様の花嫁なんだろ?」
「イリス様あれとケッコンするの?」
「イリス様の方が美人だよね」
……幼稚園から小学校中学年くらいの子供たちだからね。正直すぎるのは許してやるよ。大体あの年頃の男というのは、クソガキと相場が決まっている。
知らん顔して歩き続けると、子猿たちは林から出てぞろぞろと私のあとについてきた。なんだこれ、ハーメルンの笛吹か。
ちらりとふり返ると、好奇心いっぱいの目をさらに輝かせて駆け寄ってきた。私が彼らを見たことで、近付く許可を得たとでも思ったらしい。
「姫様どこ行くの」
「……お散歩をしているだけです。行き先は決めてません」
「じゃあいいとこ教えてあげる!」
頼んでもいないのに、一方的に案内を決定して大きい子が私の前に出る。いちばん小さい子が隣に並んで、もみじの手を伸ばしてきた。
ヒイ! なんか汚れてる! 白いドレスにその手でさわらないで!
つい避けてしまったら、ひどくショックを受けた顔をされてしまった。あー……さすがにちょっと、罪悪感。けっして子供好きではなく、どっちかというと苦手な方だが、こんな小さい子を泣かせたら後味が悪すぎる。
「ごめんね、お手手つなぐのでいい?」
日傘を片手で持ち替えて、空いた手を差し伸べる。でもさっきので拗ねてしまったか、男の子はむっつりした顔で手を出さなかった。
「子供を避けるとは、本性が知れますね」
他の子もためらうようすで黙った時、大人の声が割り込んできた。もうすっかり耳になじんだ声だ。私は来た道をふり返り、近付いてくる青年を見た。
「おはようございます」
本日最初の顔合わせだからと笑顔で挨拶をしたが、レイシュは軽蔑の色を隠すことなく薄笑いを浮かべていた。
「今さらとりつくろっても無駄ですよ。農民の子供相手ということで、ぼろを出しましたね。それがあなたの本性とは、兄が知ったらさぞ落胆することでしょう」
わざわざあとをつけてきて、ようすを監視していたのかね。ご苦労なことだ。
「兄の前ではうまく猫をかぶってだましてきましたか? 彼は女性を見る目がありませんからね、性悪にも簡単にひっかかる。しかし領民を大切に思えないような女性を、兄の妻に迎えることなどできません。このことはきちんと報告させていただきますよ」
報告って、単なる告げ口じゃないか、それ。しかも子供を避けただけで性悪呼ばわりとは。なにかね、まともな女はみんな子供好きなものと思い込んでいるタイプか? 男ってそういう幻想持ってるやつ多そうだよね。こいつ女とつきあった経験ないな。
まあ好きにすればいい。私の性格が悪いことも子供が苦手なことも、イリスは全部知っている。別に猫なんてかぶっていない。ほとんど最初から素で接してきたぞ。あれでよく友達になったくれたよね。
私はにっこり微笑みを返して、止めていた足をふたたび動かした。
「ええ、どうぞ。思う存分報告なさってください」
なんかもう、まともに相手するのが面倒になってきた。レイシュに背を向けて散歩を再開する。挨拶もせずイヤミだけ言うんだから、放置しちゃってもいいよね。
レイシュと子供たちを置き去りにして立ち去るつもりだったのに、なぜか彼らは私のあとをついてきた。レイシュが少し遅れて後ろを歩き、さらにその後ろを子供たちがついてくる。なんだこの行列は。カルガモ親子か。
「まだ何かご用が?」
歩きながら顔だけふりかえる。レイシュは仏頂面をしていた。
「用などありませんよ。あなたがすぐに館へ帰ってくだされば、私も面倒から解放されるのですが」
「お暇なんですか?」
「暇なわけがないでしょう、失礼な」
「お仕事を後回しにしてまで報告の材料さがしですか。むしろそっちの方がイリスを呆れさせそうですよ。彼は私の性格について、ちゃんと把握しています。本当言うと今さら報告の必要はありません。止めはしませんが、正直無駄ですね。今日の天気は晴れでしたと報告するようなものですよ」
「…………」
「そもそも二十歳過ぎたいい大人の男性が、告げ口のネタ拾うため女の子のあとをつけまわすって、それもどうなんですか。悪口言いたいなら適当にでっちあげちゃってかまいませんから、お帰りになってくださいな」
こんな調子であとをついてこられたのではうざすぎる。見極めとか言いながら追い出す口実をさがしているのは明らかだし、そういう態度を続けられるといい加減私も愛想をふりまけなくなってきた。それじゃいけないかなと思いつつも、なんでこっちばかりが気を遣わなきゃいけないんだって気分になってしまう。
それでも精一杯遠慮して、なるべく柔らかい口調になるよう気をつけた。これが無関係などうでもいい男だったら、もっと冷たく突き放してやるところだ。
「私がでっちあげで嘘の報告をするとでも? どこまでも失礼な方ですね」
「女性のあとをつけまわすのは失礼でないと?」
「…………」
「姫様、レイシュ様とケンカしてるの?」
「仲悪いの?」
一度は引いてようすをうかがっていた子供たちが、また私のそばまでやってきた。物怖じしない子たちだな。
「レイシュ様はね、大好きなお兄ちゃんをお嫁さんに取られちゃうのが嫌なんです。だからお嫁さんを追い出したいの」
「ええー、レイシュ様わがままー」
「だめだよー」
「コドモだなあ」
「ねー」
やーい子供にコドモと言われてやんの。恥ずかしいね二十四歳。
「ねー、ではないでしょう! そのような理由ではないと言ったでしょう!」
怒るレイシュに言い返すことはせず、ふふんと笑顔だけ返して前に向き直る。さっきの小さい子がもの言いたげに見上げているので、もう一度手を差し出した。今度は黙って手を伸ばしてきて、ちょっと湿ったぬくもりが私の手をきゅっとつかむ。その小ささに内心驚いた。あまり子供の相手をしたことがないから、こんな感覚にもなじみがない。
……別に、子供嫌いとまでは言わないんだけどね。見るだけなら可愛いとも思うよ。ただうるさく騒がれたり、いたずらをされるのが苦手なのだ。店内を走り回る子供とそれを注意もしない親とか、本当に迷惑で嫌だった。
イリスと結婚するなら、いずれ私も親になるのだろう。自分の子供を持った時、親としてちゃんと教育できるだろうか。それ以前に、なんだかまだ実感もできない。
私自身がまだ子供だと思うからなあ。なのに親になるなんて、現実味がない。結婚を控えた身でこんなことを言ったら怒られるだろうか。
「あのさ、姫様」
大きい子が内緒話みたいに少し声をひそめて話しかけてきた。
「なあに」
「レイシュ様、ツンツンしてるけど本当は意地悪じゃないよ。優しいのに、わざと意地悪っぽくするんだ」
「優しいって言われると怒るんだよね」
「人に見られないように、こっそり助けてくれるの。でも本当はみんな知ってるんだけど、言わないであげてるんだ」
子供たちは笑いながらこそこそと言う。ほほう、つまりツンデレというわけですか。しかもばればれな。子供に生暖かく見守られる二十四歳って。
「たぶんね、姫様がひとりでいたらあぶないって思って、ついてきたんだよ。だってお姫様ってお供を連れてるんだよね?」
「こわい人たちが来てるって、父さんが言ってた。女の子はみんな、家から離れちゃだめって言われて、一緒に遊べないんだ」
「セル村の女の子がさらわれたんだって。ぼくたちも、あんまり遠くまで行っちゃだめって言われてる」
……そうか、この子猿軍団が男の子ばかりなのは、賊のせいだったのか。なるほどと納得する。そしてレイシュがついてくるのは、私の揚げ足取りのためではなかったか。
それならそう言えばいいのにね。ツンデレだから言えないのか。
ストーカー扱いしてちょっと悪かったかな。
「でもイリス様がつかまえてくれるんでしょ? 竜騎士だもんね!」
「イリス様はすごく強いんだよ! 竜に乗っててかっこいいんだ!」
うんうん、知ってる。脳筋だけどね。
「姫様、イリス様が戦ってるとこ見たことある?」
……あるけどね。言っていいのかな。
きらきらと期待に満ちた目を向けられて、少しためらう。あまりリアルに語らず、かっこいいことだけ強調しておいた方がいいかな。
「あるわ。そうね、とても強くてかっこよかったです」
戦いとは殺し合いだ、なんて現実、この子たちに話す必要はないだろう。
「どんなふうに?」
「相手が十人くらいいても勝ってました。竜騎士の中でも特別に強い人です」
「やっぱり!」
子供たちは喜んではしゃいでいる。こうやって現実を知らずに憧れだけでいられる日々が続くといい。
そう思っていたら、私と手をつないだ子だけがおとなしい。他の子と一緒におしゃべりもしないのでどうしたのかと見下ろしたら、おずおずと聞いてきた。
「……ゾクより、強い?」
すがるようなまなざしに、怖がっていたのかと気がついた。多分親がいろいろ話していたんだろうな。もしかしたら遠くへ行かないように、大げさに話して怖がらせたのかも。
私は足を止め、しゃがみ込んで目線を合わせた。たまにアルタがこうやって私の相手をするので、真似っこだ。
「大丈夫、イリスは賊になんか負けないし、ほかの騎士もいるから心配ないわ。きっと数日中につかまえてくれる」
作戦も立てたからね。うまくいけば今夜にも大捕り物が行われるだろう。
男の子はほにゃっと笑い、私に抱きついてきた。うひいぃ! ドレスが! 真っ白なドレスに何かの汚れがぁ!
幼稚園児に文句を言うわけにもいかず、私は内心涙してこらえた。ああこれ、洗濯で落ちるかなあ。
結局子猿軍団とおまけ一名を連れて、森の手前までやってきた。小川に丸太を渡しただけの橋がかけられていて、子供たちは平然とその上を歩いていく。川幅は三メートルもないけれど……落ちずに渡れるかなあ。
「姫様がんばれー」
「このくらいも渡れないのかよ、かっこわるー」
「だいじょうぶだよ、早く!」
口々に声援を送ってくれるけどね、君たちとちがってこっちは踵のあるおしゃれ靴なんだよ。こんな丸いものの上を歩くには適していないのだ。
「……森には入るなと言われませんでしたか」
後ろからレイシュが言う。
「入り口からのぞくだけのつもりだったので、あえてここを渡りたいわけではないんですけどね」
しかし子供たちは行く気満々だ。ここで行かないと拒絶したら、ものすごいブーイングをくらいそうである。
……頑張ってみるか。別に落ちたところで、怪我をする高さでもないし、川の深さだって膝までもない。日射しは暑いくらいだから、濡れても風邪はひかないだろう。
日傘をたたんで脇に抱え、足にからまないようスカートをつかむ。おそるおそる一歩踏み出すと、背後でため息が聞こえた。
「失礼」
なに、とふりかえる暇もなく背中と膝裏に手が当てられる。素早く私を抱き上げて、レイシュはすたすたと丸太橋を渡った。
「おおーレイシュ様かっけー」
「王子様みたいだ」
「おっとこまえー」
「モヤシなのにやるう」
「誰がモヤシですか!」
私を下ろしてレイシュが怒る。子供たちはきゃらきゃら笑って平然としていた。
たしかに、兄弟の中で彼だけは鍛えているようすがない。体育会系な上と下に挟まれて、ひとり文系だよね。
「ありがとうございます」
「……別に。あなたを川に落としたのでは、兄上に叱られますから」
お礼を言うと愛想なく返された。さらに冷たい表情で、
「あの程度も渡れないとはずいぶんとどんくさそうな。もしや馬にも乗れないのではありませんか? そんなことでこの土地を治めていけると思ってらっしゃるんですかね」
私は子供たちに手招きし、団子状に集めてこそっと教えてやった。
「こういう人のことを、ツンデレと言います。表面上はツンツンしてるけど、内心デレているという意味です」
「聞こえていますよ! 何ですかそれは! 誰がデレてなどいるものですか!」
約一名の抗議は、その場の全員に無視された。
「おおー、ツンデレ!」
「ツンデレー」
「レイシュ様ツンデレー」
新しく知った言葉に子供たちは大はしゃぎだ。ツンデレツンデレとくり返す。にやりと笑ってふりかえれば、レイシュは白い頬を紅潮させてわなわなと震えていた。やばい、面白くなってきた。イリスよりいじり甲斐があるかも。
めんどくさい人だとは思うけど、嫌いじゃないかもね。私を気にしてあとを追ってきたり、川に落ちないよう助けてくれたり、なんだかんだ言ってたしかに優しい。きっと本人も複雑な気持ちなのだろう。私をいけ好かなく思い、イリスのそばから追い払いたいが、あぶないと思うと放っておくこともできない、と。
……案外、うまくやっていけるかも。表面上はけんかばかりになりそうだけど、それなりにちゃんとつきあっていけそうな気がする。
弟たちのブラコンぶりをよく知っているはずのイリスが、帰省するにあたって私に忠告したりあるいは励ましたりということはしなかった。何も問題はないとばかりに、家族に紹介できることを楽しみにしていた。参謀室から提供された資料ですでにある程度把握していた私は、相変わらずの無神経だと少し腹も立てたのだが……彼も、わかっていたのかな。けんかするうちに、お互いのことを理解していけるだろうと。
何も考えていないようで、大事なことはちゃんと考えてくれているからね。
今何をしているんだろう。作戦の進行はどんな状況かな。うまくいくといいんだけど。問題が解決したら、ゆっくり一緒にいられるかな。
子供たちに案内されて、少しだけ森の中を歩いた。ここも領主館の敷地扱いになるらしいが、村の人も自由に出入りすることを許されているそうだ。基本的に食糧は自給自足で、畑で作った作物と育てた家畜でまかなわれる。でも食糧が足りない時は森で狩りもするそうな。子供たちの解説に、私は以前に聞いた話を思い出した。
「イリスから狩りに行って遭難しかけた話を聞いたことがあるんですけど、あれってここだったんですか? 冬場で、吹雪の中を出かけたそうですね?」
問いかけると、レイシュが「うっ」と息をのんだ。
「大変だったそうですね。私も凍死しかけた経験があるんですけど……というか、その時に手当てをしてくれたのがイリスで、昔弟が同じように凍死しかけたので処置の仕方を知っていたと話していました」
「…………」
レイシュの目が私からそらされる。苦しげな表情に、いじるネタにはできないかなと考え直す。どうも、笑い話にできる雰囲気ではない。
「……そうです、兄上のおかげで私は生き延びました」
黙殺されるかと思ったが、レイシュは素直に認めた。
「それまでの私は、どこへ行くにも兄上のあとをついて回っていました。でもあの時に、もうやめようと決めました。私は兄上のようにはできない。武術も苦手だし体力もない。足手まといにしかならない……だから、違うことで兄上の役に立とうと決めたんです。いずれ領主を継がれる兄上の補佐ができるよう、勉学に励み領内のことに目を配って――なのに、兄上は竜騎士になると言ってウルワットを出て行ってしまった。はじめの頃は休暇のたびに帰ってきてくれたのに、最近は滅多に帰らなくなり、知らないうちに婚約までしてしまった。相手は公王陛下の養女ですって? 三の宮に屋敷を賜るですって? では、いつになったらここへ帰ってきてくれるんです? おまけにあなたは妻として兄上を支えるのではなく、仕事をしたいなどと言う。目茶苦茶です。領主の仕事はどうなるんです。こんな婚約、絶対に認められません」
憤りを吐き出す勢いでレイシュは言う。
「私が兄上を独り占めしたいわけではない。この土地から、ウルワットから奪わないでいただきたいんです。あなたではだめだ。ますます兄上が遠ざかる。ちゃんと領主の仕事を理解して、兄上とともにここへ来てくれる人でないと」
私に目を戻してきつく見据えてくる。その目をまっすぐ見返しながら、私は首をかしげた。
「領主を継ぐかどうかは、私が口を出す問題ではありません。イリス自身がご両親や領民の人たちと話し合って決めることでしょう。先日もお話ししたとおり、私はイリスの選択に従います。彼が領主になると決めたなら、もちろんここへ移り住みますよ」
「それを兄上に勧めてくれるわけではないでしょう。あなたはあなたで仕事をしたいと言い、公王陛下も遠くへはやりたがらない。それでは兄上が戻ってくることを選ぶと思えない」
「……私は、この国の価値観をまだよく理解できているとは思いません。だからこれは、あくまでも私の国の価値観ですが」
ずっと手をつないでいた子が、おびえたように私にしがみついてくる。話の内容は理解できないながら、対立の雰囲気に不安になったようだ。その頭をなでてやる。
「職業の選択は本人の自由、というのが基本でした。そのままこちらでも適用できるとは思いませんが、イリスの場合健康な兄弟が三人もいるんですから、かならずしも彼が領主にならなければいけない、という理由はない気がします」
「なにを勝手な!」
「さっきから聞いていると、あなたはイリスの気持ちを度外視しているようですね。竜騎士って、一般の騎士よりこだわりの強い人たちの集団ですよ。腰かけ気分で入隊する人なんていませんし、それでやっていける場所でもありません。竜騎士を希望した時点で、イリスの中から領主を継ぐという道は消えていたかもしれません」
「そんな……っ」
「知り合いに、騎士を目指していたけど家を捨てる気になれなくて、結局ふっきれなかったと話していた人がいました。職人の息子さんだったんですけど、弟に万一のことがあった場合自分が帰るしかないから、国に命を捧げる騎士にはなれなかったと。その人は自分の夢より家を選びましたが、イリスは騎士になる方を選んだ。つまり、何かあった時には命を捧げる覚悟をしていたんです。多分そう決断したのには、あなたたちの存在が大きかったのだと思いますね。自分がいなくなっても弟たちがいる。領主の仕事についてよく学んでいる次男と、元気な三男四男と。故郷のことは安心してまかせられるって、思っていたんじゃないでしょうか」
「そんなこと……っ」
「話し合いが足りていないとは思いますがね。自分のしたいこと優先で飛び出してしまったイリスと、結局彼を自分の近くにしばりつけたいあなたと。どっちもどっちです。まずちゃんと、兄弟で話し合いなさいな。私に文句を言うのは、それからにしてください。イリスが騎士になった時、私はまだこの世界にいなかったんですから」
「……世界?」
どうでもいい部分を聞きとがめてレイシュが眉を寄せる。めんどくさくなりそうなので話を打ち切って背を向けたら、向こうの茂みで何かしていた子がうれしそうに戻ってきた。大事そうに何かを包んだ手を私に向けて差し出す。
「いいもんあげる!」
……こう言われて素直に手を出すほど間抜けじゃないぞ。小学生男子のお約束ないたずらが脳裏をよぎる。ええ昔はよくいじめられましたよ。
だまって見ていると、小さな手の隙間からにゅっと顔を出したものがいた。それはなんとか拘束から逃れようと、必死に身をよじり暴れている。
……トカゲの顎の下なんて見た人、そうそういないんじゃないかな。基本地面にいる生き物だし、人影がさすと素早く逃げちゃうものね。ふーん、顎の下はちょっと黄色んだ。
「いやがってるわよ。かわいそうだから放してあげなさいな」
私はそっと人指し指でトカゲの頭をなでた――ら、カプリとかみつかれてしまった。うん、パニクってるだろうからね。この手が敵じゃないなんて、トカゲにはわからないよね。脅かしてごめん。しかしかなしいほどに痛くもかゆくもないな。
「……姫様、平気なの」
「ええ、ちっとも感じません。トカゲって歯はあるのかしら……あるわよね。カタツムリにあるくらいなんだから、トカゲにだって歯はあるわよね。でも全然何も感じないなあ」
トカゲはまだ私の指をくわえている。これ、どうしよう。手を引いたら両方から引っ張ることになるんじゃない? こんなはかないトカゲの身体、あっさりブチっといってしまいそうで怖い。
「――なにをしているんです!」
いきなりレイシュが飛び込んできて、私の手を引っ張った。あ、と思ったが、驚いた男の子が手を開いたのでトカゲは無事に逃げていった。よかったよかった、あやうく大岡裁き失敗版になるところだった。
「早く手を洗って消毒を! 薬! 薬は……ああ館へ帰らねば!」
レイシュは一人であわてている。彼に手をつかまれたまま、私はさっきの男の子を見下ろした。
「あれ、毒トカゲ?」
男の子はだまって首を振る。そうだよね、そんなわけないよね。
本当にモヤシだな。田舎の子のくせにトカゲごときで何をあわててるんだか。
「レイシュ様、本当にだめだね」
「姫様の方が強そう」
「ぜんぜんびっくりしなかったね」
「うちの姉ちゃんもミルゼもユーリもみんな怖がったのに。姫様本当に女か?」
「ちがうんじゃない? 胸ないし」
私はにっこり笑い、可愛いクソガキどもに教育的指導をくれてやったのだった。
「ゲンコツなんてやっぱりお姫様じゃねー!」
――その夜、イリス指揮のもと賊の潜伏場所に騎士たちが踏み込み、強盗集団は捕らえられた。連れ去られていた村の娘も発見され、親元へ帰されたそうだ。
ここしばらくの不安が解決して、人々の顔は明るかった。ニノイとルーフィはしきりにイリスの活躍を自慢していた。討伐に参加した騎士たちも、イリスがいたおかげでずいぶん早く解決することができたと、口々に称賛していた。
まずは万々歳――と、言っていいのかどうか。
みんなが安堵する中、イリスがどこか難しい顔をしていたのが、私には気になった。




