結婚報告は宣戦布告 《3》
「姫様、昼食はいかがなさいますか? ご気分が落ちつかれましたなら、召し上がった方がよろしいと思いますが」
客間の椅子でくつろいでいると、マーゴさんがやってきて尋ねた。気分はとうの昔に落ちついている。私は読んでいたものを置き、うなずいた。
「ええ、大丈夫。もうなんともありませんから、いただきます」
「かしこまりました。すぐにお持ちいたします」
そう答えたものの彼女が取りにいくわけではなく、背後の女中さんに目線で指図して向かわせる。マーゴさん自身は室内に残った。
「本当に医者を呼ばなくてよろしいんですか? お顔の色がまだよくありませんが……」
そばまで来て私をのぞき込む。私は手鏡で顔色を確認し、首を振った。
「これで普段どおりです。もともと血色が悪いんですよ」
青白くて幽霊みたいだとか、イリスファンの令嬢たちにはよく陰口を叩かれています。オリグさんの弟子らしくていいでしょ、と開き直ってますよ。
「お倒れになるほどお加減が悪かったわけでしょう?」
「いえ、あれはただの立ちくらみです。病気じゃなくて体質なんです」
夏場は血圧が下がりやすいせいか、かならず立ちくらみするようになるのだ。ちょっとものを拾おうと屈んだだけでくらりとくる。立ち上がった時すぐに頭へ血が昇らず、瞬間的な脳貧血になっているらしい。つまり、血の巡りが悪いと。
「木にもたれようとしたら方向間違って、何もない方へ傾いちゃったんですよ。それで転んでしまって。大きな音を立てたから庭師さんを驚かせてしまいましたけど、本当になんでもなかったんですよ。人に見られて恥ずかしいです」
物音に気付いて覗きに来た庭師さんは、地面に伸びた私を発見して肝を冷やしたらしい。どうもすみません、まぎらわしくて。ぶつけたところが痛くてすぐに立ち上がれなかっただけなんです。
私の説明に一応は納得してくれたものの、マーゴさんはどうしても不安なようで、何度もようすを見にやってきた。イリスの留守中に私に何かあったら大変と神経質になっているのだろう。お仕事があるだろうに、迷惑をかけて申しわけない。
「大丈夫ならいいんですけどねえ……姫様みたいにはかなげな方は初めて見ますもので、うっかり壊れてしまわないかとこわくって」
苦笑しながら言われてしまう。はかなげって、この場合はほめ言葉じゃないな。ひ弱の婉曲表現だろう。
きっとこの田舎では、健康な働き者が好まれるのだろうな。嫁の第一条件は畑を耕せることとか、家畜の世話ができることだったりして。すごくありそう。
でも立ちくらみくらいで言われてもねえ。
「イリスのお母様も繊細そうな方でしたけど。王族の姫君なんですから、私よりずっとはかなげでしょう?」
ハルト様の結婚式でほんの少しだけ顔を合わせた人は、二十歳を越した息子がいるとは思えない、若々しい美人だった。ユユ母様と親戚なだけあって、どこか雰囲気も似ていたように思う。私とちがって本物のお姫様だ。はかなげというなら、あっちが本家だろう。
あの時もっとちゃんと挨拶できるよう頑張っておけばよかったな。いや、本当なら挨拶できるはずだったんだよ。でも式の直後にイリスに連れ出され、帰った頃にはもう日が暮れかけていた。披露宴に大遅刻して周り中から叱られたり冷やかされたり、その日はすっかり挨拶のことを忘れてしまった。後日思い出したものの、向こうもいろんな人と会う予定が詰まっていて、私との時間を取ってもらうことができなかったのだ。
結局それっきりで今に至る。あれでますます印象を悪くしてしまったのではないかと、不安に思っている。
「そうですねえ、奥様もたしかに見た目は繊細そうなんですけど、あれで元気なお方ですから。乗馬がお得意で、領内の見回りに馬車なんてほとんどお使いになりません。大抵馬に乗って出かけられますよ」
「……そうなんですか」
「花を育てるのがお好きで、ついでに野菜も作られて、庭の一角には奥様専用の畑があります」
「……へえ」
「牛の乳しぼりや羊の毛刈りもお上手で。毛刈り競争で優勝なさったこともあるんですよ」
「…………」
乗馬はともかく、園芸も貴婦人の趣味の範囲として、乳しぼりと毛刈りってナニ。それ貴婦人のたしなみ? 先代の王妹殿下でしょ? なんかおもいっきり田舎ライフ満喫してないか。
だめだ、負けてる。なんの勝負かわかんないけど、ものすごく負けてる気がする。
もしやイリスの脳筋は母方の血なんだろうか。イリスも毛刈りやらせたら早そうな気がする。(ただし雑)
「普段見ているのが奥様なもんですから、あれが普通みたいに思ってしまって。間違ってましたかねえ」
「さあ……」
どうなんでしょうねえ。私もそんなに貴婦人の知り合い多くないですから。
力なく笑ってごまかすしかない。そうこうしているうちに昼食が運ばれてきた。イリスが伝えてくれているのか、ちょうどいい量だ。ちゃんと全部いただいて食後のお茶で一服していると、また部屋にマーゴさんがやってきた。
「お食事はお済みですね。お客様がいらしてるんですけど、もしよろしければ姫様にお目通りをと希望されています。いかがいたしましょう?」
はて、と私は首をかしげる。
「私にですか? どなたでしょう」
「この家の親戚の方です。イリス坊っちゃまがお戻りになったと聞いて会いにいらしたんですが、あいにくお留守ですからね。せめて姫様にご挨拶をとおっしゃってるんです」
む、親戚か。それは無下にはできないな。今後のことを考えると、ちゃんと挨拶しておかねば。
「わかりました。どちらでお会いします? この部屋へお呼びするべきでしょうか。それとも私が応接間へ出向く方が?」
「姫様のご身分を考えますと、こちらへ呼ばれるのでいいと思います」
身分ね。それってつまり、対等もしくは目下なら出向きべきということか。
「お呼びする方が礼にかなうのかと思って言っただけです。ちがうのでしたら、応接間へ出向きます」
「よろしいのですか?」
「ええ」
私は立ち上がり、姿見の前で身なりを確認した。軽く髪をなでつけ、リボンの角度を整えて部屋を出る。
マーゴさんに先導されて応接間へ向かえば、レイシュが先に来ていた。彼に会釈して中へ踏み込むと、ひとりの女性がひざまずいていた。
「わざわざご足労をおかけして申しわけありません。こちらはソフィア・ウルム・バーデンと申します」
レイシュが紹介した。
「父と彼女の父親が従兄同士でして。家も近いので、我々と付き合いが深いのですよ」
「そうですか。はじめまして、ソフィア様。佐野千歳です。どうぞお立ちくださいませ」
胸の前で両腕を交差させてひざまずくのは、貴人に対する最敬礼だ。王女との対面ということで、そういう礼を取ってくれたらしい。私にうながされてようやく上げられた顔は、二十歳を少しすぎたくらいの、とてもきれいな人だった。
イリス達との血縁をなるほど感じる。きりっとした意志の強そうな美貌に、サファイアブルーの瞳。髪は濃い金茶色で、強くうねっている。
……これが「ソフィア様」か。
気になる存在について、調べる暇もなくご本人がおでましだ。名前を聞いた時から私は内心ものすごく緊張していた。
元カノと今カノの対面だからね! なにこれ修羅場? やだー。
「お初にお目にかかります、姫様。バーデン家のソフィアにございます。突然の不躾なお願いを快く聞き入れてくださいまして、心よりお礼を申し上げます」
形のよい唇から発せられる声は、高すぎず低すぎず耳に心地よい。はきはきとした知性を感じさせる話し方だ。立ち上がり、おじぎする所作も優雅でありながらどこかきびきびとして気持ちいい。できる大人の女性、という印象だった。
……うう、勝てる気がしない。
「三年ぶりにイリスが帰ったと聞いて顔を見にきたのですが、朝からさっそく出かけていますとか。本当は彼から姫様を紹介していただきたかったのに、困った人ですわ」
ソフィアさんは明るい口調で言う。私はやんわり微笑みで返し、彼女に座るよううながした。おたがいソファに落ち着き、向かい合う。レイシュは少し間を開けてソフィアさんの隣に座った。
「レイシュさんからお聞きではありません? イリスは領内に賊が出没しているとの報告を受けて、調べに行ったんです。ソフィア様と行き違ったことは残念でしたけど、大事なお仕事ですよ」
「あら、そうなんですか。そう、あなたの差し金ね」
ソフィアさんは隣のレイシュをちらりとねめつけた。
「差し金とは言葉の悪い」
「賊の調査なんて、騎士たちに行かせれば済むことじゃない。わざわざイリスを出向かせて、姫様をお一人にするなんて」
「ろくに帰ってこないんですから、こんな時くらい働いてもらわないと領民たちの信頼が得られないでしょう。まるで嫌がらせでやっているかのような言い方はやめてください、兄上のためですよ」
「どうだか」
遠慮のないやりとりに、なるほど親しい関係なのだなと感じる。イリスと仲がよかったということは、当然弟たちとも親しくしていたのだろう。ブラコン兄弟も彼女のことは疎まなかったのかな。レイシュにソフィアさんを毛嫌いする気配はない。
「それは失礼いたしました。でしたら、イリスが戻るまで待つべきだったのでしょうけど、どうしても姫様にお会いしたくて。あつかましくて本当に申しわけありません」
茶目っ気ものぞかせてソフィアさんは言う。私にできるのは、微笑みをキープすることだけだ。
「いいえ、することもなくぼんやりしていただけですから、声をかけていただいてうれしかったです」
「朝に具合を悪くしてお倒れになったと……ご無理をお願いしたのでなければよいのですが」
「無理に決まってるでしょう。遠慮してほしいと言ったのに」
私が答えるより早くレイシュが言う。ふうん? 彼がそんな気を回してくれていたのか。
「だから、おうかがいを立てて無理そうなら出直すって言ったじゃない」
「その時点で相手に気を遣わせてしまうとは考えないんですか」
「おふたりともお気になさらず。倒れたのではなく、転んだだけですから。ちょっと立ちくらみを起こして、うっかり何もない方へもたれかかってしまったんです。別に具合を悪くしたわけではありませんから、何も問題ありません」
私の言葉にふたりは言い合いをやめて、こちらへ向き直る。その顔を見て気付いた。レイシュは気を回してくれたんじゃなく、単にソフィアさんにつっかかりたかっただけだな。イリスを相手にしていた時と、同じ顔だ。
……ふうん?
「立ちくらみって、十分具合が悪いのではありません?」
「体質なんですよ。病気でも何でもないので、気にする必要はありません。急に立たないよう注意すればいいだけなんですが、時々忘れてさっさと立ち上がってしまうんです。今日はそれで転んでしまって。でもスカートが汚れただけですから」
あとぶつけたところが痛いけど、青タンはドレスに隠れて見えないのでオッケー。
「そうですか……イリスが自ら求婚した相手と聞いて、いったいどんなお方なのかとすごく興味があったのですけど、こんなにかよわい方だったとは正直驚きです。イリスってば、自分はがさつで無神経なくせに、女性の好みは正反対だったのね」
頬に手を当てて後半独りごとみたいに言う。私は少し笑ってしまった。
「さあ、どうでしょう。私に偏食を直せ、運動しろとやいやい言っていましたから、そうでもない気がしますけど」
「まあ、姫様にそんなことを」
「彼と出会った時はまだ王女ではありませんでした。ご承知のとおり、私はハルト様に拾われた身です。その後いろいろあって最終的に養女となりましたが、生まれは庶民です。むしろイリスの方がずっと身分が上でしたのに、それを感じさせない態度で接してくれて。私が新しい環境になじめるよう、いろいろと助けてくれました。今でこそ婚約者ですけど、はじめは友達一号でした」
私のいちばん最初の友達。人との関わり方を教えてくれた人。叱られたりケンカしたり、いろいろありながらここまで来た。
乗り越えてきた道があるから、お互いを伴侶として選んだ。でも好みって言うなら、多分イリスは元気な人が好みなんだろうな。ソフィアさんのような。
「そうですか……外国の方だとはうかがっていましたけど、でも庶民というのは意外ですね? 貴族かよほどに裕福なお生まれではないかと思いましたわ」
「いいえ、ごく平均的な家庭の生まれでしたよ」
「ではあなたの立ち居振る舞いや話し方などは、この国へ来てから学ばれたのですね? 庶民をよくぞここまで教育したものです。王宮の教育係は実に優秀だ」
横から口を挟んだレイシュは、大変はっきりわかりやすくイヤミだった。ソフィアさんがちょっと彼をにらむ。
「そう言っていただけるということは、いちおう合格点に達しているということかしら? 戻ったら先生たちにお礼を言っておきましょう」
私はにっこり笑顔で応じる。この程度の厭味で動じませんよ。王都にはもっとあからさまな貴族がたくさんいますからね。
私が平然としているのが気に食わなかったか、レイシュはむっと口元を引き結んだ。いちいち顔に出すなんて、わかりやすい人だね。最初は難儀な曲者タイプかと思ったのに、やっぱりイリスの弟だ。基本正直っぽい。
くすりと、ソフィアさんが笑った。
「おっとりしてらっしゃるかと思えば、案外強気ですね?」
「まあ、そんな。不愉快な態度でしたら、お詫びいたします」
「いいえ、ちっとも。もっとどんどん言っておやりなさいませ。この子たちには遠慮したら負けですよ。今は王女でいらっしゃるんですし、イリスが望んだお方ですもの、堂々としてらっしゃればいいんですわ」
「ソフィア」
「取り繕ってるつもりでしょうけど、ばればれよ。まったく、いい年していつまで兄離れできないのかしら。イリスはもうあなたたちの面倒ばかり見ていられないのよ。三年帰ってこなかったのだって、あなたたちを独り立ちさせるためよ。寂しいのなら、あなたもいい人を見つけて結婚するのね」
「やめてください。兄上といいあなたといい、人を子供扱いしているのはそっちじゃないですか。私はもう、そんな稚拙な感情でものごとを判断しません」
腹立たしげにレイシュは立ち上がった。
「フェルナリス家にふさわしい花嫁ならば、心より歓迎しますよ。領主夫人となって兄上を支えてくれる人が、我々には必要なんです。そのための見極めをしているだけですよ」
言い捨てて、ぷいと応接間を出て行く。ソフィアさんが呆れた息を吐き出した。
「申しわけありません、姫様にお断りもせず勝手に席を立つなんて。あれのどこが大人だというのかしら。ちっとも子供っぽさが抜けてないじゃない」
「ソフィア様は、レイシュさんより年上でいらっしゃるんですか? ……いえ、すみません、なんとなくお姉さんっぽい感じがしたので」
「正解ですわ」
失礼な質問だったかもしれないが、気を悪くするようすも見せずソフィアさんはうなずいた。
「わたしは二十五歳、イリスとレイシュのちょうど中間です」
「そうですか……最初はレイシュさんより下かなと思ったので、お話ししていてあれっと思って」
私より七歳上ということか。うーん、どうやっても対抗できる気はしないな。
「ニノイとルーフィは少し年が離れているでしょう? なので子供の頃は、わたしとイリスとレイシュが一緒に遊ぶことが多かったですね。そのうち双子がやってきて、結局子守になったりもしましたけど」
「一度だけ、イリスから聞いたことがあったんです。親戚に仲のいい子がいたって。髪をいじって遊ばれたとか」
「ああ――だってくやしいと思いません? 男のくせにあんなにきれいな髪で。おばさまと同じ銀髪というのもうらやましかったし、さらさらのまっすぐな髪もうらやましくてなりませんでしたわ」
「わかります」
つい本気でうなずいてしまった。そうか、この人もくせっ毛に悩む一人なんだな。あ、ちょっと親近感。
「おまけに女の子よりずっと可愛い顔をしていて、腹が立つからリボンを結んでやったんです。本当に女の子になっちゃえって」
楽しそうに思い出を語る彼女こそが、私にはうらやましかった。私の知らない昔のイリスを、ソフィアさんはたくさん知っているんだな。そして成長したふたりは、やがて恋仲になったのか。
……結婚まで考えていたのに、どうしてだめになったんだろう。また気になってきた。でもさすがに今彼女に、そこまで聞くことはできない。
「そういえば、姫様は髪を伸ばされないんですか?」
もやもやしかけていたタイミングだったので、なにげない質問にも神経がささくれた。
「私は短い方が楽でいいんですけど……周りは伸ばせと言いますね」
「結婚を控えた方なら当然ですわね。既婚の女性が公式な場へ出る時には、髪は結い上げるものですもの」
ユユ母様からも言われているし、伸ばそうとは思ってる。でもそうすぐに伸びるものじゃない。暴漢に切られてざんばらになったのを整えると、ぎりぎりショートボブなくらいにまで短くなってしまった。あれから数ヶ月、まだ肩にも届かない。
「女の子らしいおしゃれがお好きそうですのに、短い髪がいいとは意外なお言葉ですね。でもそのドレスだって、髪が長い方が似合うと思いますよ」
どうということのない話題のはずなのに、やけに気落ちしてしまう。日本人としては、髪の長さなんてどうでもいいはずなのにね。ドレスが似合ってない――イリスにも似合わないと言われているような気になってくる。
くせっ毛とはいっても、ソフィアさんの髪は艶やかできれいだった。うねりながら肩から背へと豊かに流れ、とても華やかに見える。私の中途半端なくせっ毛じゃ伸ばしたところであんなふうにはならない。色は黒……というか、これまた中途半端な褐色だし。いっそカームさんのような漆黒だったらミステリアスな魅力があったかもしれないのに。ただ地味なだけで全然きれいじゃない。
髪以前にソフィアさんの美貌には逆立ちしてもかなわないから、気にしてもはじまらないんだけど。
竜騎士団でのイリスの働きぶりやエンエンナ宮のことなど、中央の話をソフィアさんは聞きたがった。内心のもやもやを隠して、私は彼女の話に合わせる。公平に見ればソフィアさんは礼儀正しく、友好的だった。私を庶民生まれと見下す態度は少しも見せない。終始なごやかに会話が進み、初顔合わせの正しいお手本というひとときだった。ブラコン兄弟たちに見習ってほしいくらいだ。
でも彼女が帰ったあと、私はひどく疲れた気分になってしまった。
多分、嫉妬しているんだろうな。イリスの元カノというだけでも落ちつかないのに、容姿から何からコンプレックスが刺激されまくりだもの。彼女の言葉にいちいちひっかかりを覚えては落ち込んだ。それを隠して無理に明るく話していたものだから、もうぐったりだ。今日はこれ以上誰とも話したくない。
まだ日の高いうちから、私は布団にもぐり込んだ。具合が悪いと言えば、女中さんたちも遠慮してくれる。眠ったふりで人との接触を拒絶した。
イリスは私と婚約し、ソフィアさんは他の人と結婚する。ふたりがつきあっていたのは昔の話で、もう関係ない。今さら気にする必要はないし、気にしてもどうにもならないのに、なんでこんなにうじうじしてしまうんだか。
自分に自信が持てないのが、ここでも影響しているんだろうな。なんて、客観的に考える部分もある。落ち込む一方で冷静に分析していたりして、我ながらおかしなものだ。
紐で綴じた分厚い書類の束を引き寄せる。親族の一覧に、ソフィアさんの名前もあった。でも簡単な関係図だけで、イリスとつきあっていたという情報はなかった。参謀室もそこまでは調べられなかったのか。
どうして彼女と結婚しなかったのかは、イリス本人に聞くしかないのかな……。
目を閉じていると、寝たふりのはずがとろとろと本物の眠りに引き込まれた。そのままぐっすり寝入ってしまい、目が覚めると室内はすっかり暗くなっていて、晩餐の時間もとうに過ぎていることを悟らされた。
……お風呂入りたいな。
空腹はそれほど感じない。それよりも、寝汗をかいて気持ち悪かった。エンエンナ宮では気が向いた時にすぐ入浴できるけれど、ここではそういうわけにはいかない。この館に温泉のお湯は引かれていない。
私は枕元のベルを鳴らした。近くで待機していたのか、すぐに女中さんが入ってきた。ランプに明かりを入れ、私のお願いを聞いてお風呂の準備をしに出て行く。入れ代わりにイリスがやってきた。
「目を覚ましたんだな。気分はどうだ?」
具合が悪いと聞いて心配していたらしく、私の顔をのぞきこむ。額に手を当てられ、私は首を振った。
「別に、なんともない。ちょっと疲れて寝てただけ」
「昼間にソフィアが来たって聞いたけど」
「うん。けっこう長い間お話したから、しゃべり疲れちゃって。それで横になったらうっかり寝入っちゃった」
「朝に倒れたのは?」
それも聞いたのか。
「倒れたんじゃなくて、転んだの。いつもの立ちくらみよ」
今度はいきなり立たなかったよ。起きてからしばらく座っていたから、もう大丈夫。私はゆっくり立ち上がり、着替えを用意しにクロゼットへ向かった。
「それより、賊の調査はどうだった? 逮捕できそう?」
「ああ、まあ……一ヶ所に居つくんじゃなく、あちこち移動してるみたいだから、ちょっと人手をかけて探さなきゃいけないけど、まあなんとかなるだろう」
「ふーん……人海戦術より、囮作戦の方が早くないかな」
私の荷物は女中さんたちがすでに開いて、衣類はクロゼットに移されている。お風呂上がりは寝間着になりたいけど、誰かと話すことになるかもしれないし、寝る直前まではちゃんとした格好でいるべきかな。せめていちばん楽なドレスにしよう。柔らかな薄絹がすとんと流れ落ちる型だ。ハイウエストだけどしぼっていないので、身体をしめつけない。見ようによってはネグリジェみたいにも見える、緑のドレスを引っ張り出す。
襟は繊細なレースだし袖にリボンもついているし、ネグリジェよりはずっとちゃんとした服だけどね。まあ外出用ではない。部屋着だ。
「囮作戦か、そうだなあ」
履物も室内用の柔らかい布靴にしよう。おしゃれ靴って、ずっと履いてると足がくたびれる。
「過去の被害状況は調べたんでしょう? どういう状況が襲われやすいかはわかったんじゃないの?」
「それはな。でも討伐に乗り出してることは向こうも勘づいてるだろうから、用心深くなってるはずだ。一度に全員で出てはこないだろう。一部をつかまえても他の連中を取り逃がすことになっちまう」
「被害っていうのは、金品を奪われるだけ? それとも人を殺しているの?」
忘れちゃいけないのがお風呂上がりのスキンケア。いろいろ新調してもらうついでに、高級化粧水もねだっちゃったよ。保湿の香油とセットで用意する。美人は無理でもせめてお肌は美しく。
「うん、まあ……」
「……なに?」
イリスの返事が歯切れ悪くなったので、私は手を止めてふり返った。イリスは首を振り、笑って答えない。ああ、そうとう嫌な被害が出ているな。私に聞かせたくないと思うような――ということは、女性が被害を受けたとか? そうだね、金品を奪われるだけとは限らないか。
「囮でおびき出してつかまえようとするんじゃなくてね、襲われたら一目散に逃げるようにして。荷物が残されたら、賊はこれ幸いと持ち去るでしょう。GPSが仕込まれてるかもなんてこっちの人は考えないし」
「ん? うん……?」
「置いていく荷物はお金と食糧。肉の加工品やチーズとかを売りに行く風に装って」
「……うん」
「もちろん、仕掛けをほどこした食糧よ。毒にしてやりたいところだけど、もしさらわれた人がいるなら口にしちゃう可能性があるし、時間差で気付かれてもまずいから眠り薬で」
「…………」
「小麦粉の袋なんて持っていくかしらね? 賊って自分で調理する? 持っていきそうなら細工がしやすいんだけど」
「細工って」
「袋に小さな穴を開けておいて、中身が少しずつこぼれるようにしておくの。夜光石ってあるでしょ、あれを細かく挽いて小麦粉に混ぜて。あとは夜になるのを待てばいい。奪ったものを食べていれば賊たちは寝込んでいるでしょうし、そうでなくても闇にまぎれて近付いて、一斉に取り押さえられるわね?」
「……はい」
イリスはうなずき、くしゃりと髪をかきあげた。
「明日さっそく用意させるよ」
私もうなずいた。賊たちが用心していても、地の利はイリスたちにある。囮にうまく引っかかってくれさえすれば、逮捕できるだろう。
「それはともかく、風呂の前に食事をしておけよ。空きっ腹で入ったらまた貧血起こすぞ」
「……あんまり食べたくない」
「じゃあ風呂もなしだ」
「…………」
むくれる私にイリスは笑う。頭をぽんと叩いて、とっておきの殺し文句を口にした。
「農家から木苺をいっぱいもらってきたんだ。ちゃんと夕食をとったら、明日きみの好きなお菓子にしてもらおう」
木苺タルト、木苺ソースでクレープ、いやそれとも生地に混ぜてロールケーキとか。もちろんクリームたっぷりで。シンプルにシロップ漬けも捨てがたい。乾燥させてフルーツクッキーとか。
「はいはい、じゃあ食べような」
イリスに背中を押されてテーブルへ向かう。いつの間にか、マーゴさんが食事の用意をして待っていた。




