楽園の夢
もしもいつか自分がデートをするようなことがあったとしても、普通に映画を観に行くとか遊園地に行くとか、そのくらいしか想像できなかった。まかり間違っても海水浴だの山登りだの、アウトドアなレジャーはしたくない。彼氏がそんなことを望む人なら、きっとその時点で破局だなと思っていた。
……しかし今、私がイリスと出かけるのは、たいてい人里離れた大自然の中ばかりだ。先がどうなるか、本当にわからないものである。
「うわあ」
イシュちゃんの背中から見える景色に、思わず歓声がもれた。眼下に樹海が広がっている。その中を流れる河は、高い山から流れ落ちる滝につながっている。
この山というのが……そもそも、山と言っていいのかどうか。ほぼ垂直に切り立った崖が突然立ちはだかっている。その高さはおそらく二千メートル級。遠目には森の中から柱がそそり立っているような眺めだ。
そんな柱が何本も、天を目指して伸びている。かつて巨大な何かを支えていた名残のような、不思議な景色だった。
「これ、大規模な地殻変動があったのよね? いつ頃のものなのかしら。きっと何千年、何万年の大昔よね。その時代に人類はいたのかしら」
世界遺産になりそうな絶景を眺めながら言うと、うしろのイリスが少し笑った。
「ひと言めがそれか。君は感想も普通の人とは違うんだな」
私は背後で手綱を取る人をふり返る。青い瞳が楽しそうに私を見下ろしていた。
「そんなにおかしな感想? 普通じゃない」
「そうかなあ。こういう眺めを見ると、たいていは『すごい』とか『不思議』とか言って終わりな気がするけど」
「ふーん、過去の彼女たちがそういう反応したわけね」
言ってやるとたちまち端整な顔がひきつって、咳払いでごまかそうとして本気でむせる。はいはい、別に怒ってないですから。元カノもここへ連れてきたことがあるからって、文句は言いませんよ。
「いや、ここへ来たわけじゃ……」
いいよもう、どうだって。
「大昔の地殻変動とか、結構面白い話だと思うんだけど。元カノたちはそういう方面には興味なかったのかしらね」
「そうだなあ。邪魔の入らない静かな場所に行きたいなんて言うから連れてくれば、山や森ばっかりでつまらないとか言われたな……まあ、彼女たちにかぎらず、地殻変動なんて言葉を口にする人間はあまりいないけど」
「そうなの」
それはつまんないね。私は世界の奇景絶景って結構好きだったし、宇宙の神秘なんてのにもそそられた。オタクな人種はたいていそうだと思う。そこから妄想広げてネタにして、というのはよくある話だろう。こっちの人はそういう楽しみ持ったりしないのかな。
「地質学なんてごくごく一部の、学者の中でも変わり者扱いされる人しか興味を持たない分野だからな。それを研究して何になるんだって話で……まあ学問なんてたいていそんなものだけど」
「馬鹿言ってるんじゃないわ。地質学は人々の生活に大いに役立つ分野なのよ。この世界でそういう認識が広がるのは、もっと時代が進んでからなのね」
「ふーん、ならチトセが研究したらいいんじゃない?」
「あいにく、そっち方面の知識も情熱もありません。研究結果を聞くのは楽しいけど」
わかりやすく解説してくれるテレビ番組みたいなものがこの世界にはないから、単なる楽しみとして聞くっていうのがよくわからないらしい。イリスは不思議そうに首をひねっていた。
「まあでも、そのようすだとここはお気に召したみたいだな。またつまらないって言われるかと思ったんだけど、よかったよ」
「街中を歩くより、こういう景色を見る方が楽しいわ。樹海の中を歩けとかあの山を登れとか言われたら速攻帰るけど」
「あの山はさすがに僕にも登れないな」
笑いながらイリスはイシュちゃんを上昇させる。そそり立つ山のひとつへ向かい、その頂上に降り立った。
下から見た印象とはまったく違う、天国と言いたくなる風景だった。けわしく切り立った側面とは裏腹に、頂上はなだらかな大地が広がっている。これだけの高度になると木は育てないのか、丈の低い灌木や草しか生えていない。一面に咲くのは青い花。一大群生地だ。
「わぁ……」
透き通るような薄い花びらの、ポピーくらいの大きさの花が無数に咲いている。一面の青は空を映す鏡のようだ。
「きれい……」
私は花のある場所まで進み、身をかがめた。間近で見ても美しい花だ。花びらが二重になっているから、半八重咲きっていうのかな。中心の方は色が淡く、外へ向かうほどに濃くなっている。蕊は金色で、まるで繊細な細工物みたいだった。
摘んで帰りたいけれど、城に着くまでにしおれてしまうかもしれない。それにどうせなら長く花を楽しみたいから、根元の土ごと持ち帰って庭に移植できないかな。
追いついたイリスに提案してみると、軽い苦笑を浮かべながら首を振られた。
「それはだめだ。この花は、ここでだけ見るもので、外へ持ち出しちゃいけない」
「天然記念物なの?」
「天然、記念? よくわからないけど、ここに咲いていることは秘密だぞ。誰にも言わないでくれ」
そんなに特別な花なのか。それともイリスだけの秘密? どういうことなんだろうと私が見つめると、イリスは肩をすくめた。
「これはヘレドナなんだ」
「ヘレドナ!?」
聞いたことのある名前に驚いてしまう。私はあらためて青い花を見た。
「あの眠り薬……というか、毒薬の原料の?」
「そう。ちょっとさわるくらいなら大丈夫だけど、摘んだりはするなよ」
思わず数歩さがってしまった。ヘレドナには色々と苦い思い出があるんだよ。目の前の群生が全体に毒を持つという危険な植物だなんて、かなり怖い。
「びくびくしなくても、眺めているだけでどうにかなったりしないよ」
「……でも、これだけたくさん咲いていたら、花粉とか吸い込んで危険かも」
「今まで具合を悪くしたことはないけどな。直接口にしないかぎり、中毒にはならないよ」
イリスは何度もここへ来たことがあるらしい。それなら、言う通り眺めている分には大丈夫なのだろう。私はほっとしたが、もう花のそばへ寄ろうとは思えなかった。
私たちは花のない場所に腰を下ろした。いつものように、丸くなったイシュちゃんを背もたれにして、並んで青い景色を眺める。
「ここって、誰も知らないとこなの?」
秘密だと、さっきイリスは言っていた。ヘレドナの群生地があると知られれば、きっと大騒ぎだろう。
「多分な。僕も偶然見つけたんだ。こんなとこ、飛竜か鳥でなきゃたどりつけない。だから誰にも見つからず、これほど見事に繁殖したんだろうな」
青の天国は本当にきれいだ。花の正体さえ知らなければ、夢のような風景である。眺めるイリスの目も優しい。
「ヘレドナがこれだけ群生しているとなると、報告すべきなんだけどな……でもそうすると、多分ここは処分されちまう。せっかくこんなにきれいな景色なのに、焼き払うことになるのかと思ったら、惜しくてさ。人間が悪用するのがいけないんであって、花には何も罪はないんだ。ただそこで頑張って生きているだけなのに」
「……そうね」
「こんなとこで咲いてたって、人の暮らしには何も影響しない。樹海に踏み入り、さらにこの断崖絶壁を登ってこないといけないんだ。普通の人間にはまず見つけることすらかなわない場所だよ。公表しなければ、ここが悪用されることもない」
だから黙っていてくれとイリスは言う。私はうなずきつつ、少しばかりの不安も感じていた。
イリスの言うとおり、こんな場所には誰もたどりつけない。黙っていれば、見つかることはない。……普通ならば。
はるか天空にそそり立つ人跡未踏の楽園。花の陰に隠れて、あちこちに鳥の巣があった。天敵から雛を守るのに、ここは最適な場所なのだろう。ちょろり、と岩陰を走る小さな生き物の姿もあった。ネズミのように見えた。人には登れなくても動物なら登ってこられるのか、あるいはここで生まれてここで死んでいく、地上と隔絶した世界で生きている種族なのか。
きっとほかにもたくさんの生き物がいる。人間はいなくても、いろんな命にあふれている。美しい大自然の一部分。
ここを焼き払うなんて、私も考えたくない。でももし、誰かがここを見つけたら――?
絶対に誰にも見つけられないという保証はない。現にイリスが見つけているのだから。普通なら見つからない場所だけれど、飛竜騎士には見つけることができる。
空を飛び、どこへでも行ける飛竜騎士。頼もしい守りの力を、もし悪用する者が現れたら――?
誇りある竜騎士が毒草を悪用する可能性なんて、できれば考えたくないことだけれど、いつの時代、どんな組織にも絶対の正義なんてない。道を踏み外す人間はかならず現れる。これを例に出すのは辛いけれど、じっさいに私の周りでも起きたことだ。メイがまだ私に悪意を抱いていた頃、その葛藤に負けて悪事に加担してしまった。
ほんのいたずらのつもりだったとか、本気で傷つけるつもりはなかったとか、そんな言い訳は通らない。彼女のしたことはまぎれもなく命令違反で、そして犯罪に加担するものだった。
もし、この場所を知り、ただ美しさに感動するだけで終わらず魔が差してしまう者がいたら……?
そんなこと、絶対に起きてほしくはないけれど。
それぞれに個性があり、優しい人もいればちょっと性格の悪い人もいる。でもみんな騎士として誇りを持ち、国のために懸命に働いている。彼らの中から犯罪者が出るかもしれないなんて、そんな可能性を考えるのは申しわけないし、その予防のためにとここを焼き払えば花だけでなくたくさんの命を奪うことになる。それもいやだ。
だからここのことは秘密だというイリスに、異論はなかった。誰にも知られたくないと、私も思う。イリスがここへ連れてきたのは私だけで、元カノたちも知らないというから、私がだまっていれば秘密が洩れることはない。
どうか、誰にも見つかりませんように。もしも誰か、ここに気付く人が現れても、イリスと同じに大切に思ってくれますように。
祈る思いで花園を見つめていると、隣に並ぶ身体がやけにこちらへ迫ってきた。なんだよと思ったら、肩に頭が乗ってくる。見ればイリスはすっかり寝入っている。デート中に居眠りとは上等だな。でも騎士の仕事は言ってみれば肉体労働で、さぞかし疲れることだろう。私は起こさず、そのままにしておいた。
しかし重い。イリスはどんどんこちらへ倒れてくる。大人の男を支えられるほど私は力強くない。このまではイリスに押しつぶされてしまう。
たまりかねて身じろぎしたら、イリスの上体が膝の上に倒れ込んだ。それで目を覚ますかと思ったのに、イリスはごにょごにょ呟いただけで寝返りを打ち、私の膝を枕にして本格的に寝始めてしまった。
おーい。これ、いつまで我慢すべきなの。
「……もう」
口をとがらせつつも、私は膝の上の銀色の頭をなでた。猫を飼っている人が、膝の上で寝られて大変だけど動けないってツイッターに上げてたなあ。あれってこんな気分なんだろうな。困るけれど、起こせない。可愛くて愛しくて、なんだかんだ言ってふれあいがうれしい。
さらさらした髪に指をくぐらせる。ろくに手入れなんてしていない、ものぐさで伸ばしているだけの髪なのに、なんでこんなにきれいなんだろう。うらやましいというよりにくたらしい。私なんて毎日一生懸命手入れしてこの程度なのに。せめて私もストレートだったらよかったな。猫っ毛くせっ毛のせいで、きちんと結んでおかないとすぐ見苦しくなってしまう。下ろしているだけできれいなストレートが心底うらやましい。
男のくせに、と八つ当たり気分でちょっと引っ張ってやる。でもイリスは起きない。それならばと私はいたずらしてやった。話し相手もなく暇なので、せっせと手元の作業に没頭する。
イリスが目を覚ましたのは、それからずいぶんあとのことだった。起き上がった彼は違和感に気づき、頭に手をやる。
「……なんだこりゃ」
ふふん、男振りがさらに上がりましたことよ。おほほほほ。
「チトセ……」
うらめしくこちらを見る彼に、たまらず吹き出してしまった。細い三つ編みをたくさん作り、一部はくるりと輪にしたり、めいっぱい遊んでやったのだ。草で結んだので、頭のあちこちに草を生やしたような格好になっている。ここに鏡がないのが実に残念。素敵な自分をしっかり見せてあげたかった。
「なにやってんだよ」
「イリスが私をほったらかして寝ちゃうからでしょ。膝の上に乗られて動けないし、起きるまで何もせずぼーっとしていろっていうの?」
「……起こせばよかったじゃないか」
文句を言いながらイリスは髪をほどこうとするが、細い束がたくさんあるからちょっとやそっとでは戻せない。ええもう、暇でしたからね。ギネスに挑戦ってくらいに頑張りましたよ。
「いてっ! ああもう、これほどいてくれよ」
「デート中に居眠りした罰よ。そのまま帰ったら?」
「馬鹿言うな! こんな頭で帰ったら隊の連中にどれだけ笑われるか。ここぞと悪ノリしてもっとひどい頭にされちまうよ」
むくれながらイリスは髪をほどいていく。乱暴にするからぶちぶち切れまくっている。せっかくのきれいな髪が切れ毛だらけになるのはもったいないので、私も手伝ってあげた。これだけ細かく編み込んだのに、ろくに癖もつかずすぐまっすぐになるんだからやっぱりにくたらしい。
「まったく……女の子ってなんでこういうことが好きなんだろうな」
ようやく元に戻った頭をなでながらイリスはこぼす。私は半眼になった。
「ふーん、元カノにも髪をいじられたわけ」
「いやっ、違っ……!」
ふん、どうせね。こっちは元カレなんていませんよ。そういう思い出話なんてひとっつもありません。
「ちがうって! 親戚の子が、昔やっぱり僕の髪で遊んで……本当だってば!」
「親戚ね。つまりその子もイリスのことが好きだったんじゃないの?」
「いやその……」
「付き合ってたんだ」
「つきあってない! 妹みたいなものだよ。子供の頃はすごく仲良くしてたから、周りの大人たちが将来結婚させようとか話してたけど、結局そういう関係にはならなくて、僕が騎士になってからはほとんど会ってない」
イリスは懸命に言い訳するけれど、思った以上に重要な情報を聞かされたぞ。なるほど、周りが縁組を考えるような相手だったわけか。つまり、今でもイリスのご両親はその子を嫁にしたいと考えているのではないだろうか。
そこへ私を連れて行ったら、さぞかし反対されそうだなあ。
「ないない、ないから。最近婚約したって聞いたよ。秋に式を挙げるらしい」
……ふーん。
これ以上つっこまれたくないからか、イリスはそろそろ帰ろうと立ち上がった。たしかにお日様も大分傾いた。もう帰らないと城に着く前に日が暮れてしまう。
「チトセ、ほら帰ろう」
イシュちゃんを立たせ、イリスがうながしてくるが、私は立ち上がらなかった。
「なにふてくされてるんだよ」
「ちがいます。動けないの」
「え……」
猫よりずっと重たい誰かさんが乗っかって、長いこと眠ってくれましたからね。もう感覚もないよ。よく耐えたよね、私。
「……スミマセン」
私のうらめしい視線に、イリスは背中を丸めて謝った。
その後私が激痛にのたうち回ることになったのは言うまでもない。びりびり走る電流に耐えながら、絶対にイリスにも膝枕させてやると決めた。同じ苦しみを味わうといいよ!
不穏な話を聞いたのは、それからしばらくあとのことだった。
とある貴族が不審な死に方をしたらしい。いたって健康でぴんぴんしていたのに、ある朝起きてこず、寝床で死んでいるのを発見されたそうだ。病死と片付けるにはあまりに唐突で、毒殺の疑いが持たれた。家族を始め周囲の人物が調べられることになったのだが、その家が現役の飛竜騎士に近い親族だったことが、ちょっと問題になった。
容疑者の中に含まれた騎士は、しばらく隊務から離れることになった。くわしいことは知らないけれど、親族同士でいろいろもめていたらしく、彼にも殺害の動機はあったそうだ。もちろん本人は否定していて、アリバイも証明された。でも騎士本人が手を下さなくても、事情を知っている共犯の可能性はある。真相が解明されるまでは容疑者から外れることができず、けっこう長引いてしまった。
結局、犯人は別の親族で、騎士は本当に無関係だと証明され、飛竜隊としては一安心で終わったのだけれど。
私も胸をなでおろし、その後はすぐに忘れ去った。亡くなった人には気の毒だけれど、政治に関わるような立場の人でもなかったので、解決してしまえばそれまでの話だ。アルタやハルト様もさほど興味は持っていなかった。
だから、その少し後に突然イリスが訪ねてきた時も、私は事件のことなんて何も思い出さなかった。
「どうしたの、こんな時間に」
晩ご飯を食べて、お風呂に入ろうかなと思っていた頃だった。部屋の窓が外から叩かれ、開けてみればバルコニーにイリスが立っていたのだ。うしろにイシュちゃんもいた。
「ごめんな。いきなりで悪いんだけど、ちょっとつきあってくれないか」
「今から?」
まだ宵の口とはいえ、これから外出しようという時刻ではない。ハルト様許してくれるだろうか。
「ハルト様には内緒で」
許可は出ないとイリスも思ったのだろう、そんなことを言う。どうもようすが妙だ。
「何かあったの」
こんな時間に来たこともおかしいし、窓からというのも気になる。緊急時以外、一の宮へ竜で直接乗り込むことは禁止されている。普通に誘いに来たなら、イリスは徒歩でやってくるはずだ。
「イリス?」
私は彼に寄り添い、手を伸ばした。頬を包むと、イリスは少しの間目を閉じて甘えるようにする。
「……ごめん、何もないんだ。心配しなくていい。ただ、どうしても今夜、君と行きたくて……無理言ってるのはわかってるよ。だめなら、いいけど」
「ここでだめって言うほど、冷たいと思われてるの?」
いくら私でも、こんなイリスを追い返すほど薄情じゃないつもりだよ。何もないなんて嘘に決まっている。何があってこんなことをしているのか、気になるじゃないか。
「いいわ、行きましょう。ちょっと待って」
私は部屋へ戻り、衣装箪笥から上着を取り出した。夏とはいえ山の夜は冷える。竜で飛ぶならなおさらだ。風邪をひかないよう厚手の上着を着込み、女官やハルト様に気付かれた時のために置き手紙を残していく。多分あとで叱られそうだけれど、今イリスをひとりにしておく方が不安だ。
私を乗せて、イリスはすぐに空へ飛び立った。中空に近い場所に姉月が、山の端には昇ったばかりの妹月が見える。弟月が昇るのは夜明け近くだろう。
月明かりに照らされて空を行く。昼間ほど地上がよく見えないけれど、人里から離れていくことはわかった。どこへ行くのか、何をしに行くのか、私は何も聞かずに黙っていた。今はごちゃごちゃ言わずに、イリスのしたいようにさせてあげたい。
イリスが私に悪いことをするはずがないから、どこへ行くのだってかまわない。そういう意味での不安なんてない。心配なのは、イリスになんとなく元気がないと感じることだけだ。
かなり長く飛んで妹月がずいぶん高くなった頃に着いたのは、いつかの天空の花園だった。
昼間に見に来た時も美しい場所だったけれど、夜に見るヘレドナの群生は本当に夢のような眺めだった。
花がほのかに光っている。照明のような強い輝きではなく、幻のような淡い光だ。夜の闇に浮かび上がる青い花がとても現実のものとは思えず、自分がちゃんと目を覚ましているのかわからなくなる。
「ヘレドナって光るの」
「いや……」
イシュちゃんから私を下ろしたイリスは、地面に下ろさず抱いたまま花園へ踏み込んだ。
「これ言うと嫌がられそうな気がするんだけど」
「……なんかわかった。言わなくていい」
私はイリスの首にしがみついて、絶対に下ろすなと無言で伝えた。イリスがくすりと笑う。
「さすがに鋭いな。心配しなくても、噛んだり刺したりするような虫じゃないんだけど」
「言わないでってば」
蛍みたいなものだと思えば、風情があると言えなくもない。ただし離れた場所から見るならばだ。
野球場より広い面積を光らせるほどだなんて、いったい何万匹いるのだろう。下手をすると億単位? それほどの虫が目の前にいるということを、あまりリアルに考えたくはない。
「より正確に言うと、虫そのものが光るんじゃなくて、月光を反射しているらしい。フィモが現れる時季の、よく晴れて月が明るい夜にだけ見られる現象だ」
フィモという虫なのか。どんな虫なのかな……って、だから想像するな私!
「雨が降ったら見られないのね?」
「ああ。この時季は雨が多いから、運が悪ければ一度も見られずに終わる。フィモは短命で、十日もしないうちに消えてしまうからな」
そうか。なら今夜は、とても貴重な機会だったんだな。虫とかリアルに考えず、滅多に見られない景色を楽しめたと思っておこう。
「だから今夜誘ったの?」
「……ああ」
イリスは静かな顔でうなずく。他の日ではだめだったのだと、そういう理由で納得していい流れだ。もちろん、それだけではないとわかっていたけれど。
だったら事前に話があってもいいはずだし、罰される危険をおかして一の宮へ忍び込むような真似はしないだろう。なにより、イリスはもっとわくわくした顔で迎えに来るはずだ。今夜の彼にそんなようすはまったくない。穏やかな顔をしているけれど、いつもの能天気さは感じられず、どこか落ち込んでいるように感じられた。
聞くべきか、聞かない方がいいのか、わからない。悩みがあるなら聞いてあげたいけれども、私には知られたくないと思っているかもしれない。どうしようとずいぶん悩んだが、結局イリスに話したがっている様子がまったく感じられないので、私はだまっていた。
イリスはいつもはっきりしているからね。私に何か聞いてほしいなら、そういうそぶりを見せる。でも今の彼は、ただ静かにこの世界を眺めていたいだけに思える。それなら私は何も聞かず、彼に寄り添っていよう。ひとりで来るのではなく私と共に来たがったのだから、そばにいるだけでいいのだろう。
「……きれいね」
イリスの髪に頬を寄せる。伝わるぬくもりがなぐさめになるように、より近くへと身を寄せる。
「ああ」
「来年も、見られるといいわね」
「…………」
イリスは首をめぐらせ、私の頬に唇を寄せた。ぬくもりが肌をすべり、唇にやってくる。ついばむような口づけを何度もくりかえし、最後は私の肩に顔を伏せた。
自分で気付いているのかな。これ、落ち込んだ時の癖だよね。いったい何に落ち込んでいるの。また何か大きな失敗をやっちゃった?。
抱きしめた腕で、私はイリスの髪をなでる。何も聞かず、彼も何も言わず、長い時間私たちは光の花園にたたずんでいた。
夜明け頃に宮殿に帰り着き、案の定ハルト様に叱られて、しばらくイリスは面会禁止を言い渡された。でも仮眠を取った後、私は一の宮を抜け出して飛竜隊へ向かった。
やっぱりイリスのようすが気になる。何があったのか、本人から直接聞かなくても、飛竜隊へ行けばわかるかもしれない。
そう思って行ったのに、騎士たちはほとんどが不在だった。留守番役の人に聞いてみると、ヘレドナの群生地が見つかったので、飛竜騎士に処分が命じられ、みんなで向かったのだと教えてくれた。
どうして突然イリスが迎えに来たのか、私は理解した。楽園が失われることを知って、最後に見に行きたかったんだ。そして落ち込んでいたわけも……きっと、イリス自身が報告したからなのだろう。
秘密にしておきたいと言っていたイリスが、なぜあの場所のことを報告したのか。いろいろ考えて、ようやく私は先日の事件のことを思い出した。あの殺人事件に使われた毒も、ヘレドナだった。
疑われた騎士は結局無関係だったけれど、イリスは悩んだんだろうな。そして今後も、もしかすると誰かに発見され悪用されてしまうかもしれないと考え、報告することにしたのか。
今頃、楽園は炎に包まれているのだろうか。美しい花はすべて焼き払われ、鳥や小動物たちも住処を失い、またはともに命を失っているのだろうか。フィモたちも焼かれ、次の世代を残すこともできなくなったのか。
どうして、と思った。そんなことをする権利が人間にある? ただ静かに、懸命に生きているだけの命を、都合の悪いものと一緒にあるからとまとめて奪い去るなんて。
「嬢ちゃん、ここで何してる」
飛竜隊の片隅で騎士たちの帰還を待っていると、やってきたアルタに見とがめられた。
「ゆうべ抜け出して、ハルト様に叱られたんだろうが。しばらく外出禁止のはずだぞ」
「…………」
「若い恋人同士に野暮は言いたくないがな、お互い立場があるんだし節操も大事にするべきだと思うぞ。大体、そんなにしょっちゅうくっついていたいなら、さっさと結婚すればいいだろうに」
呆れた顔でアルタは近付いてくる。返事もしないでいる私をのぞき込み、首をかしげた。
「燃える想いに突き動かされてって顔じゃないな。なんだ? 逆にイリスとけんかでもしたか?」
「……ちがいます」
私はため息をついた。
「ヘレドナの群生地を処分するよう命じたのは、アルタですか?」
「ああ、その話か。たしかにイリスから報告を受けて、ハルト様や宰相に伝えたよ。相談の結果、やはり処分すべきという結論になった。万一のことがあっちゃいかんからな」
「……でも、あそこには鳥や動物もたくさんいたのに」
どうしても声が責める響きになってしまう。アルタは眉を上げた。
「行ったことがあるんだな。そうか、そりゃ残念に思うだろうな。花だけ見る分には、ヘレドナはきれいだからな。しかし……」
「残念なんじゃなくて、残酷だって言ってるんです」
苛立って私はアルタの言葉をさえぎる。人間の勝手でたくさんの命を奪ったことを、私はひどいと言っているのに。
「ヘレドナだけでなく、あそこで生きていたものがみんな死んでしまう……そんなことしていいんですか? アルタはなんとも思わないの?」
「…………」
息を吐き、アルタは私の前にしゃがみ込んだ。いつもうんと高い場所から見下ろしてくる目が、私の視線より低くなる。
「そうだな、残酷だ。いいとは思わんよ。竜騎士に道を誤る者なんて絶対に現れないと、自信を持って言いきれないことも情けないと思う」
陽気な大声ではなく、静かにアルタは私に言い聞かせる。
「巻き添えになる生き物たちには本当に申しわけないし、かわいそうだな。けどな、それでも放置するわけにはいかんのだよ。ヘレドナがどれだけ危険な植物かは、嬢ちゃんもよく知っているだろう。一株あるだけでもまずいのに、村ひとつ収まるほどの場所一面に咲いているんだぞ? とうてい放っておくことはできん。わかってくれ」
わかりたくない。そんな理屈にうなずきたくない。
私は唇を噛んでだまっていたけれど、一方で理解もできる自分がいやだった。
同じことを私も考えたのだ。もしも誰かがあそこを見つけて、悪用することを考えてしまったらと。
自分で誰かを殺すことはなくても、ヘレドナを売ってお金にすることを考えるかもしれない。どこの国でも栽培が禁止されているヘレドナは、裏で取引している闇商人には高値で売れる。お金に困っている人がヘレドナを見つければ、誘惑に負けてしまうかもしれない。
起きるとは限らない「もしも」の話。そんなことのために生き物たちの命を奪うだなんて、ひどすぎる話だ。あまりに身勝手で罪深い、地獄に落ちそうな行いだ。
でも絶対にないとも言いきれない可能性だった。人が社会を作って集団で生きている以上、危険の種が芽吹かないよう見つけ次第つぶさなくてはいけない。可能性を知りながら放置するのもまた罪だ。
騎士たちが戻るのは日暮れ頃だと言って、アルタは私を一の宮に連れ帰った。沈む私を心配して女官たちやユユ母様が覗きに来、帰ってきたハルト様にもどうしたのかと聞かれたけれど、私は気分が悪いと言って早々に寝室に引きこもった。
同じ議論をハルト様にもふっかけようとは思わなかった。そうしたところで、返ってくる答えも同じだろう。それにもう、終わってしまったことだ。今さら騒いでもどうにもならない。
イリスが報告しなければ……でも、誰かに罪を犯させないために、処分しておかなければいけなかった。
「失礼いたします」
遠慮がちな声がして、女官が扉から顔を覗かせた。
「イリス様がお越しですが……お会いになられますか?」
面会禁止のはずなのに、取り次いでくれたようだ。私があんまり落ち込んでいるから、ハルト様が気を変えたのかな。
通してくれるように頼み、寝室を出る。すぐにイリスがやってきた。
帰還して、そのまま着替えもせずに来たようだ。服に草の汁がついていた。
「ごめんな」
私と顔を合わせた彼は、苦笑して謝った。
「君には言わないでおこうかと思ったんだけど、ずっと隠せる話でもないしな」
「……どうして報告したの」
残酷とわかっている問いを口にしてしまう。青い瞳が伏せられた。
「……この間の事件で、いろいろ考えた。あいつを信じたかったけど、もしかしたらと思わずにはいられなかったよ。そんな疑いを持ったこと自体がすごく嫌だったし、この先も起こりうる可能性だと思ったら、このまま黙っているべきなのかどうかわからなくなった」
「…………」
「竜騎士が悪事に手を染めることは絶対にない――そう断言できればよかったんだけどな。でも竜騎士だって人間だ。他と何も変わらない、普通の人間なんだ。絶対なんて保証はできない。いつか、間違いが起きてしまうかもしれない。その可能性を知りながら知らん顔するわけにはいかなかった……誰かに、間違いを起こさせたくなかった」
イリスが私を抱きしめる。私をなぐさめるためではなく、彼自身がすがる思いなのだと感じた。
「僕は、飛竜隊から罪人を出したくなかったんだ。そのために罪のない生き物たちを犠牲にした。身勝手で、ひどい話だ」
抱き合ったままソファに腰を下ろす。私は何度もイリスの背中をなでた。引き寄せれば彼は抵抗せず身を倒してくる。膝の上に頭を乗せて、だまってなで続けた。
自然保護とか動物愛護とかを掲げる人々には、さぞ非難される行いだろう。私だって残酷だと思うし、ほかに方法はなかったのかと思わずにいられない。でもそんなこと、イリスだってさんざん考えただろう。悩んで落ち込んで、それでも騎士として彼は報告することを選んだんだ。
誰かが彼を責めるかもしれない。少なくともイリス自身が責めている。だから私は、責めないでおこう。
つらいことだから、せめて私は彼を甘やかして、なぐさめたい。
窓へ目をやれば、月の光が差し込んでいた。今夜も空は晴れて、月が輝いている。でももうあの場所に、月光を受けて光る花園はない。
失われた楽園を思うと悲しかった。二度と見られない、本当の夢になってしまった。
やるせなく切ない思い出だけが残される。罪悪感と引き換えに手に入れたのは、人の未来に対するほんの少しの安心だ。
その後私があの場所を訪れることはなかった。生き物たちへの影響を最低限にするため焼き払うことはせず、ヘレドナを抜き取るだけで済ませたらしいが、そうすると残った根からまた生えてくる。定期的に除草に赴くことが決められ、それ以外での立ち入りは厳しく禁じられた。もとよりあそこへ行けるのは飛竜騎士だけだけれど、それも一人での行動は固く禁じられ、かならず事前に報告をしてから複数人で行くことと決められた。
ヘレドナを駆逐するようにと、繁殖力の強い植物も移植された。いずれ青い花に代わって別の花が群れ咲くようになるかもしれない。それまでにどれだけの時間がかかるのか、そこにまたフィモが集まるのか、私にはわからない。
ある夜、私は夢を見た。青い花園を眺めていたら、いつの間にか花の中にまぎれる虫になっていた。
ごく短い間しか生きられない私は、番う相手を求める。オスはたくさんいるけれど、私が求めるのはただひとりだ。明るいお日様の笑顔をさがし、花の中をさまよう。どこにいるの? 早く見つけないと、私の時間が尽きてしまう。
焦りながら必死にさがして、ようやく彼の姿を見つけ出す。私たちは再会を喜び合い、子孫を残して共に命を終えた。
子供たちは地中にもぐり、長い時を過ごす。地上に嵐が来ても日照りが起きても、大地に守られていつか光の中へ戻る時を待つ。
目を覚ました後、セミの話と混ざったなと思ったけれど、あとで聞いたらフィモも幼虫は地中で暮らすとのことだった。だったらあの場所でも、まだ生き残っているだろう。ただ来年成虫が地上に出てきても餌になる植物がろくになく、すぐに死んでしまうことになる。どれだけの命が次の世代へとつながるのか、絶滅してしまう前に草地が復活するのか、自然のたくましさに期待するしかない。
その話をすると、なぜかイリスは照れていた。
「子供か……うん、君が望んでくれるなら何人でもほしいな。頑張るよ」
抱きしめようとしてくるのをどついて撃退してやった。頑張らんでいい。そんな話をしたんじゃない。
落ち込んでいたのはほんの少しの間で、もうイリスはいつもの能天気だ。そんな顔の下で実はいろいろ考えているのは知っているし、あの場所のことはきっといつまでも忘れないのだろうけれど、もう表に出すことはしない。そういう人だって知っているから、落ち込んだ時に私を頼ってくれたのがちょっぴりうれしかった。
また頼ってくれてもいいよ。落ち込むようなできごとが、そうそうあっても困るけどね。
「男の子と女の子両方ほしいな。どっちが先でもいいし、何人でもいいんだけどさ。君は? 何人くらいほしいと思ってる?」
だから今は無視していいよね。こういう調子に乗っている時はほっといても大丈夫。
「女の子はやっぱり君に似てるのかな。きっと可愛いだろうな。嫁になんて出せないよ。ああでも、きっといつか誰かに持ってかれるんだろうな。ハルト様のお気持ちがちょっとわかってしまったよ。男親って辛いな……って、あれ? チトセ? どこだ? おーい」
生まれるどころか仕込む前から親馬鹿って、どんだけよ。
呆れつつ、つい想像してしまった私も馬鹿かもしれない。いつか子供に天空の楽園の話をしてあげたいなんて、そんなことを考えたりして。
子供が大人になった時、あるいは孫世代、もっと後の子孫の誰かが。
飛竜騎士となり、美しく復活したあの地を訪れるかもしれない。今度はもう命を奪う必要もなく、立ち入りが禁じられることもなくなる。青い花は咲かないけれど、たくさんの花が咲き、月の夜には虫たちが恋をする。
そんな未来があることを、ひそかに願う私だった。




