4.アデルとイブリン
「もう、どういうことよ。私が侯爵家に行ってアデル様と話し合うなんて。何を考えているの。どうせ私に、身を引けとか、男爵令嬢が身の程を知りなさい、とか言うつもりでしょう」
翌日サイラスはイブリンのところに行き、アデルが会って話したがっていることを告げた。そこからイブリンの怒りが治まらない。
「どうにかして私を排除する気ね。たかが男爵家の私が、次期侯爵夫人とまともに渡り合って勝てるわけないじゃないの。私にあるのはサイラス様の寵愛だけなんだから、サイラス様が守ってよ」
「いや、アデルは君の存在を認めている。俺が通うのにも不便がないように取り計らうつもりでいるんだ」
「嘘よ。きっと何か企んでいるわ。賢いからって私を見くびっているのね。ここから追い出して、もっと酷いところに押し込める気なんでしょう」
「アデルはそんなことしないよ。俺にも、イブリンに誠実であれと言うくらいだから」
「はああ? 正妻だからって、なにその余裕、腹が立つわ」
「いや、アデルの言葉は、そのままだ。裏もないし、勘ぐる必要はない」
「サイラス様ってば、すっかり絆されてるじゃないの。一晩同衾しただけで、もうアデル様の味方なの?」
「違うって。アデルは君を愛人として誠実に遇するつもりなんだ。第二夫人という制度があれば、そうしたかったって言うくらいに」
「結局自分が一番だからこその、上から目線じゃないの」
「それに、俺たちはまだ一夜を共にしていない」
「本当に? サイラス様が手を出さないってどういうことなの。大切にし過ぎて触れないとか言わないわよね」
「違うんだ、そういうんじゃなくて、なんか事務的な会話に終始してたら、じゃあ、また明日、みたいな感じで自分の部屋に戻って行ったから」
「そんなんで跡継ぎを産むつもりでいるの? 私が産んでもいいってこと?」
「いや、両親が賢い子を望んでるんだ」
思わず言ってしまったサイラスの言葉に、イブリンは黙り込んだ。
「イブリン?」
「そうよね。確かに私は賢くないわ。でもそこが可愛いってサイラス様が言ってくれたんでしょう? 私はサイラス様しかいないのに、今さら捨てられたら困るわ」
「だったら俺の可愛い愛人でいてくれよ」
「そう言ってアデル様の方に子が生まれれば、だんだん足が遠のくのでしょう」
イブリンが泣き出した。
「だから、そんなことにならないように、アデルが話し合おうって言ってるんだ」
「嘘だわ。そんな風に愛人のことを考えてくれる正妻がいるわけないもの」
サイラスは話の通じなさに途方に暮れた。
確かに、結婚したばかりの妻を置いてイブリンのところに入り浸れば、本命だと誤解されても仕方がなかった。サイラスにとってはただのピロートークのつもりが、イブリンの中では正妻昇格も時間の問題ということになっていたらしい。
『こんなに愚かだったとは』
サイラスは己の所業を棚に上げて、イブリンを心の中でなじった。
◇
その頃、侯爵家では、アデルが侍女に髪の手入れをしてもらいながら、侍女に貴族社会のあれこれを教わっていた。
「ですからアデル様、あのような小説というのは、現実ではありえないことを、こうであったら良いのにという願望をこれでもかと詰め込んで、世の女性たちの共感を得ているのですわ」
「そうだったのね。私はあれを参考に、頭の中で夜会における想定問題集を作っていたのだけど、使えそうにないわね。受け答えの正解が分からないとなると、私の会話でベルトラン家が誤解を受けたらどうしましょう」
「奥様の場合は、下手に持って回った言い方をなさるより、真っ直ぐ伝えて良いのではないでしょうか。皆様に、アデル様が本当のことしか口にしないと知れ渡れば、誤解などされることはありませんから」
「そうですよ、品位を落とすのは下種な勘繰りをする方ですもの、奥様はどうかそのままでいてくださいませ」
侍女たちは正直で公平で真っ直ぐなアデルに好感を抱き、この前向きで初心な女主人をしっかり支えていこうと決意も新たにした。
◇
その数日後。
サイラスは、絶対に悪いようにしないからと言い包め、イブリンを侯爵家に連れてきた。
「ようこそ、イブリン様。アデルと申します。本日はご足労いただきましてありがとうございます」
アデルは丁重な挨拶をしたが、イブリンの疑心暗鬼は止まず、応接室に通されても動作はぎこちなく、生きて無事に帰れるだろうかと緊張していた。
アデルの方は、とにかく直球で大丈夫だと侍女から言われていたので、何の前置きもなく本題に切り込んだ。
「イブリン様は、サイラス様とお心を通じ合わせておいでのことと存じます。つきましては、サイラス様の心の拠り所として、愛人の座に収まっていただくことになりますが、この件についてイブリン様から何かご希望があれば伺いたいと存じます」
イブリンは答える前に、右斜め前に座るサイラスを見た。
応接室に入った時、テーブルの向こうのソファにアデル、対面してイブリンが座った。サイラスは迷った挙句、テーブルの短い辺のところに椅子を運んできてそこに座った。傍観する構えだ。
サイラスはイブリンからの、これはどう答えるべきなの、という縋るような眼差しに気付かないふりをして、テーブルに視線を落とした。
『ちょっと、どう答えたら良いか分からないんだけどっ!』
イブリンがあまりにサイラスの方ばかり見るので、アデルがサイラスに話を振った。
「サイラス様、もしイブリン様の希望をお聞きになっているのなら、代わりに話していただけませんか?」
「い、いや、ここは俺が口を挟むべきじゃないだろう? イブリン、言いたいことを言ってごらん」
サイラスは背中に冷や汗を流しながらそう言った。気まずいことこの上ない。
サイラスが後押ししても、イブリンは言葉を発するのをためらっていた。
「イブリン様は、ずいぶん遠慮がちな方でしたのね。じゃあ、私の方から一つずつ確認しましょうか」
『ほら、きたわ。どうせ身を引けとか言うんでしょ。手切れ金の額で落としどころを見つけましょうってことね。あーあ、僅かばかりのお金をもらったからって、これからどうやって生きていけばいいのよ。たかが男爵家の三女に帰る場所なんかないし。修道院だって、まとまったお金がなきゃ無理でしょ。侯爵家の嫡男だなんて、相手として高望みし過ぎたわ』
などとイブリンが諦めモードで感慨に浸っていると、
「まず、最初にお聞きしたいのですが、イブリンさんはこの先ずっと、サイラス様の愛人として一生を過ごす覚悟がおありですか?」
「一生?」
「ええ、そうです。今はサイラス様も、世間の女性に憧れの目で見られるような外見ですけれど、加齢と共に腹に肉が付き、顎は弛み、髪は白髪か薄くなっていくことでしょう。これは人間として誰しも避けられない現実です。そうなった時も、イブリン様はサイラス様を温かく迎え入れることができますか。それとも、そんなになる前に、別の人生を歩みたいと思いますか」
イブリンは、まじまじとサイラスを眺めた。考えてもみなかった。自分の容色が衰えるのは分かっていた。だからこそ、捨てられるかもしれない愛人などの立場ではなく、安心できる地位が欲しかった。それが妻の座だ。サイラスの魅力が衰えることなど想像もしていなかった。
「それは、愛人など辞めておけという忠告ですか」
イブリンは、アデルが単なる嫉妬から聞いているのではないのかもしれないと思った。
「いいえ、愛人を辞める必要はありません。どんな愛人生活を過ごしたいのかという意味です」
「そんなこと、あなたに心配されるようなことではないと思うのですが」
「いいえ、これは私の采配の範囲内の話です」
「はあ? どこの世界に愛人の世話を任される正妻がいるのよ」
「後宮のある国では、側室たちの管理は、普通に正妻の管轄下にあります」
「それは制度として整った国の話でしょう。この国では愛人なんて、秘めやかで表に出ない日陰者の存在でしかないじゃない。なんで貴女が出張ってこようとしてるのよ」
イブリンは、サイラスとの間に無粋に割り込んで来ようとするアデルに苛立った。
「夫の下半身の管理は妻の仕事です」
平然とアデルが言ったので、イブリンは絶句した。
「アデル? いくら何でもその言い方は・・・」
サイラスが恐る恐る話に入ってきたが、アデルとイブリンの冷めた視線を受けて口を閉じた。
「イブリン様、私は家と家の契約で、このベルトラン家に嫁いできました。侯爵夫妻から認められ、後を継ぐことができるようにその仕事を習い始めています。今さら後には戻れません」
「何よ偉そうに。そんなこと分かっているわよ」
「けれど、私は世間知らずです。この先とんでもない失態を犯したり、子を産めないこともあり得ます。そうした時、私の立場も万全ではないのです。離縁され、子爵家に戻ろうにも、弟が継いでいるでしょう。結婚もしているかもしれません。そうした時、私はどうなるか考えてみました」
「アデル様は勉強ができるんだから、働く道はあるでしょう」
「世間はそれほど甘くはありません。けれど、実際問題として、両親の研究を手伝ったり、家庭教師の道がないわけでもありません。でも、その程度です」
「だったら私なんか、なおのこと愛人を辞めたら生きていけないわよ」
「だから、愛人をやりながら、何か自分でできることを考えてみませんかという趣旨だったのですけど」
「私にお金を稼げっていうの? 何もできないのに?」
「稼ぐことが目的というより、退屈じゃないのかなというのが最初の考えでした」
「そうね、いずれ侯爵様となれば忙しくなって、サイラス様の訪れも減るでしょうね」
「いえ、忙しいからこそ、癒しが必要かもしれません」
「いつまで私を癒しと思っていただけるでしょうか」
サイラスは、正妻と愛人の間に座って、ひたすら居心地の悪い思いをしていた。どちらの顔もまともに見れず、なんとか穏便に終わってくれと祈っていた。
イブリンはもう、サイラスを見ていなかった。
「じゃあ、アデル様は、本当に私がサイラス様の愛人のままでも良いと思っているの?」
「ええ、私の至らないところを補っていただければと」
「ふうん。でもそれって、口先だけで何とでも言えるわよね」
「では、生活の保障をする契約を結びましょうか?」
アデルはどこまでも本気のようだ。イブリンはここにきて、ようやく警戒を解いた。イブリンが肩の力を抜いたことで、サイラスも気を緩めた。
「では、終身契約にしますか」
「それは死ぬまで経済的に面倒をみてもらえるということですよね」
「そうです」
「子供を産んでもいいわよね」
「それは認められません」
「なんでよ!」
「サイラス様の子であるという証明ができません」
「失礼だわ。私が他の男と浮気するとでも思っているの」
「間違いなくサイラス様の子と証明ができたとしたら、侯爵家で預かり、私が養育することになります。あるいは、私が子を授かることができなければ、イブリン様に侯爵家に入ってもらって、サイラス様のお子を産んでもらうようお願いするかもしれません。その場合も、育てるのは私です」
「そんな、私の子を私が育てられないなんてあんまりだわ」
「サイラス様の子でなければ産んで育てても結構です。ただし、その子の養育費は支払うことはできません」
「酷い! それじゃあどちらにしても、私は子供を育てられないじゃないの」
「そういうことも含めて、一生サイラス様の愛人でいる覚悟はあるかとお聞きしたのです。我が子を持てば、将来その子に老後をみてもらうことができるかもしれません。それを期待できないから、終身契約にしようというのです」
「なんでよ。愛人だって子供を望んで良いでしょう?」
「その子が後ろ指差される未来があるとしたら?」
「どういうこと?」
「イブリン様とサイラス様が、どんなに純粋に想い合ってお付き合いをされていたとしても、傍から見ればただの浮気で、サイラス様が結婚してからの行いは明らかに不倫です。不倫をするような女性の産んだ子が、本当にその男性の子であるか疑う人も出てこないとも限りません。世間には庶子もたくさんいるでしょうけれど、庶子であることすら疑われることもあるのです」
「そんな・・・」
イブリンは、改めて突きつけられた事実にショックを受けた。愛されているのは自分だと、アデルより上に立った気でいた。それが、こんなに自分の未来を閉ざす様な行いだったなんて。
子供を産むこともできない。できたとしても、その子の未来が明るいとは限らない。
イブリンは、若さと明るさと美貌だけでなんとかなると思っていた過去の自分の愚かさに打ちひしがれた。男爵家の家族も皆、学生時代だけの夢と諦めるように言ってきた。愛人なんて将来どうするのだと、冷静に諫める親の声など無視した。
後悔がさざ波のように押し寄せてきた。
「そこで提案なのですが」
イブリンの葛藤や悔恨など気にも留めず、アデルが落ち着いた声音で話しかけてきた。
「今度は何?」
「愛人をいつ辞めても良いように、店を持つのはいかがでしょうか」
また話は思わぬ方へ転がりだした。
読んでいただき、ありがとうございました。




