1.サイラスとアデルの婚約
ユベール子爵家のアデルは、冴えない容姿をしていた。
くすんだ茶色でくしゃくしゃの髪に、ぼんやりした薄茶色の目。おまけに縁が太いメガネを掛けているため、顔の印象が、ほぼメガネだ。背は低めだが、その背筋はピンと伸び、歩く姿は颯爽としていた。
王立学園では、いつも両腕で書物を抱え、教室と図書室と教師の研究室を行ったり来たりしていた。
そんなアデルが、学園で一、二を争うモテ男のサイラスと婚約したというので、周りは大騒ぎになった。
「おい、サイラス、本気かよ。あのアデル嬢と婚約したって」
「本当だよ。両家の親同士の顔合わせも済んだし、書類も交した。彼女の卒業と同時に結婚するよ」
サイラスの言葉に耳を傾けていた女生徒たちが、恨みとも妬みともつかない悲鳴を上げた。
サイラスは、艶のある金髪にアイスブルーの瞳で一見冷たそうだが、話してみると案外気さくで友人も多い。おまけに由緒ある侯爵家嫡男となれば、貴族学園に通う女の子たちにとっては、もしかしたらギリギリ手が届かないこともないかもしれない憧れの王子様だった。
この国では、かつて貴族の子女は幼い頃から婚約者を決めることが慣例となっていたが、結婚式を挙げる頃には取り巻く環境が変わったり、本人同士の相性が致命的に悪く婚約の解消や破棄が続くようになったことから、王立学園の卒業の少し前に婚約を整えることが主流になっていた。これは、学園での成績も考慮することができるため、優秀な伴侶を求める家には望ましいことでもあった。
そういうわけで、超優良物件のサイラスであったが、ここで急に婚約が決まり、相手がよりにもよって変人の呼び声高いアデルだったので、女性陣の悲鳴は、男子生徒から見ても納得できるものであった。
「ほら、お前、もったいないだろ。この教室を見渡したって、サイラスなら、より取り見取りだろうに」
すると、一人がはっとして、顔を寄せた。
「ひょっとして、ベルトラン侯爵家は財政がやばいのか」
そこから先は、皆小声になった。
「それとも、何か弱みでも握られたか」
「相当良い条件を提示されたのか?」
「ユベール家がそれほど裕福とも聞いてないがな」
「事業は堅実で揺らがなそうではあるよな」
「でも、あの野暮ったいアデル嬢だろ?」
友人たちが投げかける様々な憶測を、面白そうに聞いていたサイラスだが、
「結婚まで一年ある。俺は先に卒業するから、その間自由にやるさ」
と、余裕そうに笑った。
「あ~、イヴリンちゃんね、男爵家の」
「結婚まで自由恋愛を謳歌するってことか。そして家庭には堅実な女を選ぶ、と。悪い男の典型だな」
「むしろ、賢い男じゃねえ?」
「イヴリンちゃん、可哀そう。俺がその後引き受けようか」
「ば~か、お前たち。俺はそんな薄情な男じゃないからな。イヴリンは結婚後も大事にするさ」
「え? 愛人にするのか」
「むしろこっちが本命だ。侯爵家だからな、男爵家のイヴリンじゃ親が納得しない」
「真実の愛ってか?」
「アデル嬢とは白い結婚ということか」
「いや、それはそれ、これはこれだろう? 親から賢い子供を期待されているんだ。アデルに跡継ぎを産んでもらう。イブリンは、俺の癒しだ」
「親公認の愛人がいて、夫人は賢いアデル嬢かあ、領地の仕事も任せられそうだな」
羨ましいと口々に言われ、サイラスは大いに気を良くした。
サイラスは、女性としてのアデルには興味はないかのように言ったが、実はアデルの素顔には興味を持っていた。
メガネだから目が小さく見えるし、野暮ったい髪型だって整えれば印象が変わるはずだ。だいいち姿勢が良い。スタイルだって悪くない。磨けば光ることは間違いない。サイラスは自分の見る目を信じていた。
家の仕事をしてもらい、子を産んでもらうだけとは言え、屋敷内でしょっちゅう顔を合わせるのだ、好みの容姿の方が良いに決まっている。
◇
一方のアデルだが、父親であるユベール子爵は、王立の研究所に勤めていて植物学が専門だ。領地は従弟を代官にして、経営をすべて任せている。ついでに爵位も譲ろうとしたが、従弟はずっと領地で暮らしたいから、煩わしい貴族の身分は御免こうむりたいと断ってきたので、仕方なく子爵のままでいる。欲のない一族である。
ユベール子爵家のタウンハウスは学園都市にあり、アデルもそこで生まれ育った。
学者肌の父親の教えを良く守り、貪欲に知識を求めた。
アデルの父の教えは、『知らないことを恥じるな、知らないことを知らないままにすることを恥じよ。なんでも納得するまで聞け。一を聞いて十を知る才はなくて良い。十を聞いて十一個目が閃けば重畳だ』から始まって、延々と何か条もある。
アデルの母親もまた、民間の研究所で働いていた。ユベール子爵領の産業が、綿糸と羊毛を原料とした織物製造なので、品質向上のために羊の品種改良に取り組んでいた。そのため、タウンハウスを留守にして領地に長期滞在することもよくあった。
それでも、子爵家の子供が女の子のアデル一人というわけにもいかず、アデルが十歳の時に、弟のレオンが生まれた。赤ん坊がいると、母親も領地と王都を行き来するのが難しくなり、レオンと母親は、ほとんど領地で生活することになった。
そんなわけで、タウンハウス内のことは侍女長に任され、アデルは彼女に育てられた。
アデルは両親にはあまり構われなかったが、寂しいと思うことはなかった。
本を与えれば読み終えるまで没頭し、家庭講師が来れば一字一句聞き漏らすまいと集中した。授業内容であれ、日常の細かいことであれ、気になったことは何でも質問した。
食器の並べ方には意味があるのか、フォークの歯はなぜ4本なのか、3本のもあるのか、どう使い分けるのか、あるいは農場で干し草を掬い上げるフォークとどちらが先に作られたのかなど、急角度でやってくる質問の嵐に、教師も使用人も困惑した。
ただ、あまりに熱心に見つめてくるので、推測を述べると、アデルは静かに深く考え込んで、納得すれば次の事に興味を持ち、納得しなければノートに書きつけ、いずれ調べてみようとするのだった。
そんなアデルなので、同じ年ごろの友人はいなかった。母親が社交をしないため、茶会に参加したこともない。当然おしゃれなど気にしたこともなかった。髪は邪魔でなければ良い。学園に入ってからは制服があるので、着こなしを考える必要もなかった。
また、人の心の動きにも鈍感なところがあった。人と複雑な感情のやり取りをしたことがなく、父親とは子弟のようであり、侍女長はマナーと礼儀にうるさかったが、真っ直ぐな人であったので、アデルは反発心を抱いたことがなかった。数少ない使用人たちも、アデルの学問の邪魔をせず、好きにさせてくれたため、発言の裏を読むことを覚えなかった。
貴族令嬢としては致命的なようにも思われたが、相手の発言で納得がいかなければ、どこまでも穏やかな理詰めで迫ってくるので、いたずらに触ってはいけない人という共通認識が学園内でできあがっていた。そして、そうやって学園で遠巻きにされていることすら、アデルは気付いていなかった。
ひたすらに疑問を解決したいアデルは、授業中にクラスメイトが発言したことに興味を持ったり、納得がいかないことがあれば、遠慮なく近づいて、
「さっきの意見について、もう少し詳しくお話を聞かせていただいてよろしいですか」とか、
「大変興味深い考察かと思いますが、その考えに至った際に参考にした資料があれば教えていただけないでしょうか」
などなど、太い黒縁メガネの奥から相手の目をじいっと覗き込んで、礼儀正しくお願いした。
そのあまりの熱心さに、うっとうしいと撥ねつけることもできず、誰もがつい懇切丁寧に答えてしまうのだった。
こんな風に、アデルはアデルらしく充実した学園生活を送っていた。
◇
「アデル、お前の婚約者が決まったよ」
ある日、珍しく早く帰宅した父親が、夕食の途中で、今思い出したというように言った。
「お相手はどなたですか」
「ベルトラン侯爵家のサイラス君だ。アデルの一学年上だが知っているかい?」
「いいえ。ベルトラン侯爵家は存じておりますが、ご子息様とは面識がありません」
「そうか。同僚の話だと、学園でも一、二を争う男前だというんだが、学年が違うと会うこともないかな」
アデルは、ふと思い出したことがあった。
「あの、お父様、婚約はいつ話がまとまったのですか」
「うん? 一昨日? あれ、先週かな。ごめんごめん、忘れてたんだ。何かあったのかい」
「ええ、今日、知らない上級生に話しかけられて、こんど美術館に行こうと誘われました。もちろん断りましたけれど、あの方がサイラス様だったのでしょうか。失礼なことをしてしまいました」
「気にすることないよ。本人同士の正式な顔合わせもまだなんだから、サイラス君のフライングだよ。二人で出かけるのはそれからで良い」
それから父と娘は、母から来た羊の品種改良の経過報告について語り合った。食事が終わる頃には、アデルは、サイラスのことなど、すっかり忘れていた。
◇
一方のサイラスは、昼間のことを延々と思い返していた。
昼間、学園のカフェテリアでアデルを美術館に誘ったら、『二人で、というのはご遠慮させていただきます』と、きっぱり断られてしまった。サイラスが名乗る暇もなく、踵を返して行ってしまった。驚きすぎて呼び止めることもできなかった。
「なあ、本当に彼女と婚約したのか?」
「向こうはサイラスを知らない風だったよな」
「俺、お前が振られるとこ初めて見たわ」
などと、友人たちから可哀そうな者を見る目で見られた。
『アデルのやつ、許さないぞ。俺に恥をかかせたこと、絶対後悔させてやる』
サイラスは心に誓った。
それからアデルとサイラスは正式な顔合わせを経て、お互いの家を訪問したり、外に出かけたりした。
サイラスは、初対面の屈辱を忘れておらず、アデルを自分に惚れさせてから、結婚後、意趣返しをしてやろうと考えていた。もちろん、婚約を取りやめるつもりは毛頭ないが、サイラスは常に自分が上でいたい質なので、何とかしてアデルの気を引きたかった。
そしてそれは簡単なことだと思っていた。これまでさんざん伊達男の名をほしいままにしてきたのだ。自分が間近に顔を寄せて微笑めば、男に免疫のないアデルのことだから、すぐに落ちると思っていた。
しかし、アデルはサイラスの顔にときめく風もなく淡々とお茶を飲み、サイラスが一緒に見た演劇の感想を聞けば、課題のレポートかと思うような冷静な考察を語りだした。
語るだけでなく、サイラスの意見も聞きたがった。サイラスは、アデルの深い洞察の後に、陳腐な感想を言うのも悔しくて、なんとか言葉をひねり出した。すかさず質問が繰り出され、まるで教師から口頭試問を受けているようだった。
サイラスは冷汗を流しながら、友人が喋っていた高尚そうな感想を思い出して、さも自分が考えたかのように語った。
そんな時、アデルは、
「鋭い着眼点ですね。私はそこを見落としていたようです。さすがサイラス様です」
などと賞賛してくれることもあり、サイラスはそれを言った友人に密かに嫉妬した。
ある日の茶会で、サイラスは、アデルに聞かれた。
「そういえば父から聞いておりませんでしたが、なぜサイラス様と私が婚約することになったのでしょう。事業提携するような話もありませんし、侯爵様が私の両親の研究にご興味があるとは聞いておりません。サイラス様と私も、学園では面識もありませんでした。どなたかからの紹介でしょうか」
サイラスは言葉に詰まった。親からは、爵位が釣り合って、賢い者を選べと言われていた。サイラスが男爵家のイヴリンと付き合っているのを知ってのことだ。体裁さえ整えれば、愛人くらいは大目に見ようということでもあった。
だから、多少のことに文句を言わなそうで、ほかに強力なライバルもいそうになく、賢さは折り紙付きのアデルに目を付けたのだ。伯爵令嬢の中からは、そう都合の良い相手は見つけられず、子爵令嬢で手を打った形だ。両親からも、ユベール家が堅実な領地経営をしており、夫妻共に真面目な研究者だということで、アデルを婚約者とすることを認めてもらえた。
こうした事情でアデルを選んだのだが、さすがにそれを正直に言うのは憚られた。
サイラスは、仕方がなく、
「俺が、アデル嬢がいいなと思ったんだ」
と、色々端折ってそれだけ言った。
「そうでしたか」
と、アデルは納得したのか、しないのか判然としない顔で、
「そういうこともあるのでしょうね」
と、締めくくった。特に喜んでいる風もなかった。
それがまた、サイラスの癪に障った。
読んでいただき、ありがとうございました。




