第18話 デビューの夜
「いよいよ今夜なんですね。社交界デビュー」
マスネ子爵家に向かう馬車の中。
アルヴィンの対角線上に座ったエマが、緊張したようにつぶやいた。
その隣にはおすまし顔の、侍女に化けたシロが座っている。
「リュセット子爵令嬢のな。……なんでお前がそんなに緊張しているんだ?」
「それは、つい、わたくしの時のことを思い出してしまって……」
エマは眉間にぐっとしわを寄せた。
結局エマ自身の社交界デビューはガチガチに緊張した挙句、割れた鏡のことで頭がいっぱいになって何をしたかほとんど覚えていない。
後日伯母に聞いたところ、
「お顔が、とても怖かったわ……」
と遠い目をされてしまったため、つまりはそういうことだったのだろうと結論付けている。
「きっとリュセットさまもすごく緊張しているはずです。わたくしが支えてあげなければ」
「姫さま。志は立派なのですが、言えば言うほどお顔が怖くなってきておりますよ」
シロに囁かれ、エマは慌てて顔を叩いた。
すぐに深刻な方向へと持っていこうとする表情筋が恨めしい。
それを見ていたアルヴィンが、くくくと笑う。その振動で、肩に乗っているシマエナガたちもふるんふるんと揺れた。
『今日はうまくいくといいね!』
『アタシ応援してるぅ~!』
『でもやっぱりお顔が怖いの~ぷぷぷ~』
「さて、そろそろマスネ子爵家だ。今日の付き添いを俺たちがすると伝えてあるのだろう?」
アルヴィンが聞くと、エマはぱっと目を輝かせた。
「はい! リュセットさまは喜んでお受けしてくださいました。お義母さまたちにもお話しすると」
「なら、あとは夫人を言いくるめればいいわけだな。そのあたりは俺が担当するからエマは彼女を……ん? あれは家令のセバスチャンか?」
言いながら小窓を覗いたアルヴィンが、怪訝そうに眉をひそめる。
え? とエマが声をあげたところで、馬車がゆっくりと止まった。マスネ子爵家に着いたのだ。
「どうしたんだセバス。わざわざ出迎えてくれなくてもよかったのに。子爵夫人たちについていなくて大丈夫なのか?」
シロの手を借りて馬車から降りると、先に降りたアルヴィンがセバスチャンに尋ねているのが聞こえた。
見ると、セバスがこれ以上ないくらい沈痛な面持ちをしている。
「それが……アルヴィン殿下、エマ伯爵令嬢さま、とりあえずお嬢さまのお部屋に来て頂けますか?」
アルヴィンとエマは顔を見合わせた。
(リュセットさまに何かあったのだわ……)
目で訴えると、同じく察したらしいアルヴィンもうなずいた。
「行こう。彼女の元へ」
◆
頼りない燭台に灯された屋根裏部屋で、リュセットはベッドに突っ伏してすすり泣いていた。
ひっくひっくという声に合わせて、華奢な肩が小刻みに揺れている。
その隣には、先日彼女が嬉しそうに見せてくれた白いドレスが置かれていた。
しかしその状態はひどいもので、もはや洋服だと判別がつかなくなるぐらいずたずたになっている。
「ドレスが……!」
見るなり、エマが口を押さえた。後ろからアルヴィンの苦々しい声が聞こえる。
「ひどいな……。犯人は継母か?」
「ええ、そうです。もはや子爵夫人と呼ぶのも忌々しいあの女が……! リュセットお嬢さまが今夜を楽しみにしておられるのを知った上で、この愚行に……!」
怒りと悔しさをにじませてセバスが言った。
一方、衝撃から立ち直ったエマがすぐさまリュセットに駆け寄った。
「リュセットさま、大丈夫ですか」
そっと肩に触れて声をかける。
彼女はエマに気づくと、大きく鼻をすすってからゆっくりと顔を上げた。
その目は真っ赤に腫れ、頬には幾筋もの涙の跡がある。
つい先日まで穏やかに微笑んでいたはずの顔は、今は悲しみにべったりと覆われていた。
その悲痛な面持ちに、エマの心がぎゅっと締め付けられる。
リュセットはしゃくりあげながら、なんとか言葉を紡ぎ出した。
「お、お義母さまが……私に舞踏会など贅沢だとおっしゃって……」
言った途端、また彼女の目から涙があふれ出した。
悲しみがぶり返してきてしまったのだろう。恥じるようにさっと手で顔を隠す姿が痛々しかった。
(なんて、ひどいことを……!)
全身の血が、ふつふつと沸き立つ。寒気にも似た怒りが、静かに全身を駆け上っていくのを感じた。
(――許せない)
こんな感情は、初めてだ。
エマはすくっと立ちあがると、アルヴィンの方を振り向いた。
「エマ、お前……」
その表情を見たアルヴィンがぎょっとして言葉に詰まる。
――エマは、完全なる無の表情をしていた。怒りも悲しみも全て呑み込んだ、無。
驚くアルヴィンに構わず、エマは冷たく低い声で答える。
「……アルヴィンさま、わたくしに協力してくれませんか? どうしても許せそうにないのです。リュセットさまの継母とやらを」
エマのやろうとしていることを察したのだろう。彼の瞳がすぅと細められ、にやりと口の端が上がる。
「……お前の頼みならなんだって聞くさ。それで、俺のお姫さまは一体何をお望みなんだ?」
アルヴィンの言葉に、エマはふっと微笑んだ。
その瞬間、部屋の中がひやりと冷たくなる。
――エマは気づいていなかったが、その笑みは心臓が凍り付きそうなほど冷たく、そしてぞくりするほど妖艶な笑みだった。
アルヴィンが喉を鳴らして唾を飲み、後ろで見ていたシロが「ファスキナーティオさまだ……」とつぶやくほどに。
「わたくしの望みはひとつです。――マスネ子爵夫人に、とびきりの“お仕置き”を」




