第9話 鏡の中の令嬢 ―― 誰のために完璧であろうとしているのだろう。
王都の寄宿学校では、月ごとに礼法試験が行われる。
淑女としての姿勢、言葉遣い、表情、そして茶器の扱い――。
そのどれもが、子どもらしいあどけなさを削り取るための儀式のようだった。
十歳のリリアンヌは、その月の試験で首席となった。
教師たちは口を揃えて言った。
「まさに模範的な令嬢です」と。
それは、誉め言葉というよりも、称号のように響いた。
数日後、寮に小包が届いた。
母クラリスの筆跡の封書が添えられている。
銀糸の封蝋を割ると、滑らかな布に包まれた重みが手のひらに伝わった。
中から現れたのは、細工の施された銀縁の鏡だった。
“あなたの努力を、映してくれるものよ”
手紙には、そう一行だけ書かれていた。
リリアンヌは微笑んで、鏡を机の上にそっと置く。
寮の部屋は質素だが、磨き上げた鏡があるだけで、どこか王都の邸宅を思わせる。
彼女は鏡の前に座り、ランプの灯を少しだけ強くした。
柔らかな金色の光が、銀の縁を淡く照らす。
ふと、鏡の中の自分と視線が合った。
絹のように整えられた金髪、伏せた睫毛、冷静な微笑。
――完璧。
けれど、そのとき、奇妙な違和感が胸をかすめた。
“いま、私……笑っていたかしら?”
頬の筋肉を確かめる。
表情は、静かだ。
けれど、鏡の中のリリアンヌは、確かに笑っていた。
――穏やかに、慈しむように。
「……」
ランプの火が揺れる。
光の歪み、そう思おうとした。
だが、どこかで理解していた。
これは光ではなく、“意志”だと。
その笑顔は、まるで誰かに見せるためのもの。
母の前で浮かべるあの笑みと、まったく同じ形をしていた。
リリアンヌは、そっと鏡を布で覆った。
だが、部屋の隅で火がぱちりと弾けた瞬間――
布の下から、かすかに“笑う息づかい”が漏れたように思えた。
彼女は寝台に身を横たえ、目を閉じる。
その夜、夢の中で、鏡の中の自分がこう囁いた。
> 「大丈夫。あなたの代わりに、いつでも笑ってあげるわ――」
翌朝、講堂に整列した生徒たちの前で、礼法教師が金のリボンを掲げた。
「今月の模範的淑女――セレスティア・リリアンヌ」
名が呼ばれた瞬間、拍手が湧いた。
リリアンヌは一歩前に進み、完璧な礼を取る。
背筋を伸ばし、顎を少しだけ引き、笑みを添える。
それは、母が教えた“正しい笑顔”の角度。
――どんな照明の下でも、美しく見える角度。
拍手の音は、遠くで響く鐘のように空虚だった。
教師が満足げに頷き、言葉を添える。
「あなたの姿勢、言葉、振る舞い。どれもが手本となるべきものです」
“手本”。
その言葉が、胸の奥に小さな棘のように刺さった。
模範的。完璧。理想的。
それは本当に、自分が望んだ姿なのだろうか。
リリアンヌは自問した。
“模範的”とは、“母の模倣”と書くのではないか、と。
授業の合間、休み時間の中庭で、同級生の少女が近寄ってきた。
小鳥のように快活な声で、彼女は言う。
「リリアンヌ様は、いつも完璧ですね。
でも……たまには、本音で笑ってもいいのに」
リリアンヌは瞬きをした。
「本音で、笑う?」
少女は少し恥ずかしそうに頷いた。
「うん。今みたいに、作ってない顔で。
そのほうが、きっとかわいいですわ」
リリアンヌは微笑んだ。
それは、完璧に計算された笑顔だった。
「ありがとう。気をつけてみますわ」
そう返した瞬間――胸の奥で、何かがひび割れた気がした。
寮の部屋へ戻ると、机の上の鏡が朝の光を反射していた。
銀の縁が、まるで口角を上げるように、冷たく輝く。
リリアンヌは鏡の前に座り、そっと笑ってみた。
けれど、そこに映るのは“誰かの期待をなぞった顔”。
母が望む微笑。教師が誉める表情。友人が羨む仮面。
――“本音の笑顔”とは、どんな顔だったろう。
思い出そうとしても、もう思い出せない。
幼い頃、庭で王子と笑い合ったあの瞬間。
胸の奥が温かくなった、あの笑顔の形。
鏡の中の自分が、かすかに微笑を深める。
それはまるで、囁いているようだった。
> 「大丈夫よ、リリアンヌ。あなたは“私”になればいいの」
リリアンヌは息をのむ。
鏡の中の唇が、確かに動いた。
窓の外では、昼の鐘が鳴っていた。
その音が、彼女の胸の奥で響く。
――私は誰のために、完璧でいようとしているのだろう。
夜。
寄宿舎の廊下は静まり返り、遠くの時計が一定の間隔で時を刻んでいた。
リリアンヌは机に座り、課題帳を閉じる。
ランプの光が部屋の隅を柔らかく照らし、机の上の銀の鏡を照らした。
ふと、その表面に自分の顔が映る。
淡い金の髪、端正な瞳、整った微笑。
――完璧な、セレスティア家の娘。
だが、今夜は何かが違っていた。
リリアンヌが微笑むと、鏡の中の“彼女”は、少し遅れて微笑んだ。
ほんの一瞬の“ずれ”。
けれど、その違和感が、胸の奥で冷たい波紋のように広がる。
もう一度、首を傾げてみる。
今度は、鏡の中の少女が――動かない。
息が止まる。
ランプの灯が、ガラスの縁でわずかに揺れた。
“それ”は、まるでリリアンヌの動きを観察しているようだった。
喉が乾く。
彼女は思わず、声を出した。
「……あなたは、誰?」
返事はない。
けれど、鏡の中の少女の唇が、かすかに動いた。
“――わたしは、あなたの代わりに笑ってあげているの。”
その声は、音ではなく、思考のように頭の中へ響いた。
リリアンヌは椅子を蹴って立ち上がる。
心臓が、早鐘のように打つ。
「違う……そんなはず、ない」
ランプの火が不安定に明滅し、鏡の中の光が波打つ。
その中で、“もうひとりの自分”が静かに笑っていた。
完璧で、美しく、何より――人間味のない笑み。
「いや……」
リリアンヌは震える手で、鏡にかけていたレースの布を引き寄せ、勢いよく覆った。
銀の輝きが途切れ、部屋に闇が戻る。
だが、その瞬間――確かに、聞こえた。
布の下から、くぐもった笑い声。
“わたしはここにいるわ、リリアンヌ。”
“あなたが笑わなくても、わたしが笑ってあげる。”
リリアンヌは、胸の前で両手を強く握りしめた。
爪が手のひらに食い込む。
“これは幻。夢。疲れのせい。”
けれど、どうしてだろう。
布の向こうから響く微笑の気配は、静かに、確かに存在していた。
――まるで、自分の中の“空洞”が、声を持って笑い始めたように。
翌朝、空は薄く曇っていた。
寄宿学校の大広間――礼法試験の模擬審査。
十歳のリリアンヌは、磨かれた銀食器と陶磁の前に座っていた。
姿勢、完璧。
所作、正確。
言葉遣い、非の打ち所なし。
審査官たちの視線を浴びながら、彼女は母に教えられた通りの笑みを浮かべる。
“完璧であることは、呼吸のように自然でなければならない”――クラリスの言葉が、胸の奥で反響していた。
だが――その瞬間。
カラン。
手元のナイフが、指から滑り落ちた。
銀の刃が白いクロスの上で冷たく転がる音が、異様に響いた。
空気が、凍る。
周囲の令嬢たちが、一瞬だけ目を見開き、すぐに視線を逸らした。
その沈黙が、痛いほど重かった。
リリアンヌの喉がひくりと鳴る。
背筋に、氷のような汗が伝う。
――“震えてはいけません”
母の声が脳裏に響いた。
あの白い指、冷たい瞳。
その幻影が、審査官たちの顔と重なっていく。
震えを抑えようと、彼女は微笑もうとした。
だが――頬の筋肉が、動かない。
笑えない。
何度も唇を引き上げようとするのに、表情が固まったままだ。
胸の奥が軋み、呼吸が乱れる。
“どうして……? どうして笑えないの?”
周囲の視線が突き刺さる。
完璧の仮面が、音もなく崩れ落ちていく。
そのとき、頭の中に閃いた――
あの夜、鏡の中で笑っていた“もうひとりの自分”。
――“わたしは、あなたの代わりに笑ってあげているの。”
リリアンヌは悟る。
「私が完璧であろうとしたのは、母のためでも、父のためでもない……
“鏡の中の私”のためだったんだ……!」
試験が終わると同時に、彼女は会場を飛び出した。
視界が霞み、息が苦しい。
靴音が廊下に響くたび、胸の奥の何かが軋む。
寄宿舎に戻ると、真っ先に机の上の鏡を掴んだ。
銀の縁が、夜の光を反射している。
“笑う”自分が、そこにいた。
「もう……あなたはいらない!」
叫びと同時に、鏡を床へ叩きつけた。
――パリンッ。
鋭い音とともに、銀の世界が砕け散る。
破片が床に飛び散り、ランプの灯を何重にも映し返す。
そこに、無数の“笑顔”があった。
どの破片にも、リリアンヌそっくりの少女が笑っている。
冷たく、無垢で、完璧な――“鏡の中の彼女”たち。
リリアンヌは崩れ落ちた。
震える指で破片のひとつに触れる。
指先が切れ、赤い雫が笑顔の上に落ちた。
鏡の破片が、涙のように光る。
――「これが、わたし……?」
その声は、誰にも届かなかった。
翌朝。
窓の外では、春の陽がやわらかく差し込んでいた。
寄宿舎の一室――割れた鏡の破片が、床の上で静かに光を返している。
寮母が扉を開けたとき、リリアンヌは机の前に座っていた。
制服の襟はきちんと整えられ、髪も乱れていない。
まるで何事もなかったかのように、淡く微笑んでいる。
「……リリアンヌ様、これは……鏡を壊したの?」
寮母の声には驚きと少しの恐れが混じっていた。
割れた銀の破片が、陽光を跳ね返し、部屋の壁に細かな光を散らしている。
それはまるで、小さな星々が瞬いているようだった。
リリアンヌはしばらく答えなかった。
そして、窓辺のカーテン越しに朝の光を見つめたまま――
ゆっくりと、微笑んだ。
「ええ。……でも、私の中には、まだ映っているの」
寮母はその言葉の意味を問えなかった。
その笑みが、あまりにも静かで、どこか遠いものだったからだ。
リリアンヌの指先は、膝の上で静かに重ねられている。
白く、細く、傷の跡がうっすらと残っていた。
彼女は、自分の内側に“もうひとつの鏡”を感じていた。
砕けたガラスよりも深く、誰にも覗けない場所にある鏡。
そこには、泣きも笑いもしない“ほんとうの自分”が、静かに息づいている。
――完璧でも、欠けたままでも。
今の彼女を映すのは、もう銀の表面ではなかった。
カーテンの隙間から、風がそっと吹き込む。
床の破片がひとつ、光を反射して揺れた。
その小さな鏡のかけらの中で――
微笑んでいる少女が、確かに、わずかに動いたように見えた。
だが、リリアンヌはもうそれを見なかった。
朝の光の中で、彼女はゆっくりと目を閉じる。
鏡のない朝が、静かに始まった。




