第8話:罪と罰の遊戯 ―― 小さな嘘を守るために、ひとりを泣かせた。
十歳の春。
馬車の窓から見える王都は、思っていたよりも灰色だった。
どこも石造りで整いすぎていて、まるで感情という名の色が抜け落ちた世界のよう。
リリアンヌ・セレスティアは背筋を伸ばし、膝の上で指先を重ねた。
彼女の膝の上には、母から贈られた白い手袋が置かれている。
絹のように滑らかで、指を通すたびに「決して汚してはならない」と言われている気がした。
馬車が止まる。
見上げた先にそびえるのは、王都でも名門と謳われる寄宿学校――セイラ女学院。
高い尖塔、真鍮の門扉、花壇には色を揃えた薔薇が咲いていた。
美しい。けれど、なぜだろう。
リリアンヌにはその整いすぎた秩序が、どこか檻のように思えた。
「ここでは、誰もがあなたの敵になりうるの。」
見送りに立つ母クラリスの声が、背後から静かに届く。
「けれど――敵さえも微笑ませるのが、“本物の淑女”よ。」
リリアンヌはうなずき、深く一礼する。
母の視線の奥には、やさしさよりも鋭い光があった。
それは、彼女の中の“完璧”を量るような光。
「はい、お母さま。私は間違えません。」
少女の声は澄んでいて、少しだけ震えていた。
新しい制服を着る。
白いブラウスに深紅のリボン、裾の長い黒のスカート。
布の擦れる音が、まるで新しい皮膚をまとったように感じられる。
鏡の前に立ち、リリアンヌは息を吸った。
そこに映るのは“淑女”として完璧に仕上げられた少女。
だが、その笑顔の奥にある鼓動は、まだ幼く、まだ震えている。
「――これが、わたしの“第二の仮面”ね。」
小さく呟き、制服の襟を整えた。
春の光が、教室の窓から斜めに差し込んでいた。
王都の名門――セイラ女学院の午前の授業が終わり、生徒たちはそれぞれの机で昼食をとっていた。
笑い声と紅茶の香りが交じる中、ひときわ静かな席があった。
そこに座るのは、ミリア・フェルナー。
小さな子爵家の娘。明るい笑顔を絶やさないが、その靴の革はすり切れ、ペンの軸にはひびが入っている。
彼女の机の上には、丁寧に包まれた粗末なサンドイッチと、折り目の多いノート。
リリアンヌ・セレスティアは、遠くの席から彼女を見ていた。
“母の教え”が脳裏に浮かぶ。
「人と関わるときは、距離を美しく保ちなさい。
親しすぎるのも、冷たすぎるのも、どちらも“下品”ですのよ。」
だから、リリアンヌはいつも笑みだけを向けた。
言葉は交わさず、目を合わせるだけの――安全な距離。
だが、ある昼休みのこと。
廊下を歩いていたリリアンヌの足元に、白い布が落ちてきた。
刺繍の端がほつれ、少し汚れてはいたが、不思議なほど丁寧に縫われている。
拾い上げて顔を上げると、そこにミリアが立っていた。
慌てたように駆け寄り、リリアンヌの手を掴む。
「ご、ごめんなさい! それ……!」
ミリアの瞳が、いつもの明るさを失って揺れていた。
「このハンカチ……お母さまの形見なの。だから、絶対に誰にも見せないで。」
リリアンヌは一瞬だけ迷った。
“秘密”――その響きに、胸の奥がざわついた。
だが次の瞬間、彼女は静かに微笑む。
「ええ、約束いたしますわ。
淑女は、他人の心の鍵を覗かないものですもの。」
ミリアの顔に、ようやく安堵の色が浮かんだ。
「ありがとう、リリアンヌ様。……あなた、やさしいのね。」
午後の授業、窓の外では桜の花びらが舞っていた。
リリアンヌは教科書の文字を追いながらも、ミリアの笑顔が何度も脳裏に浮かんだ。
その笑顔は、どこか――母の作る笑顔とは違う温かさを持っていた。
“友達”って、こういうことを言うのかしら。
胸の奥が少しだけ熱くなり、リリアンヌは自分の頬が赤くなるのを感じた。
朝の鐘が三度鳴り響いたあと、教室の空気はいつもと違っていた。
ざわめきが波のように広がり、視線が一点――教壇の前に立つ教師と、その隣の少女に集まる。
机の上に置かれたのは、金貨袋。
銀糸の刺繍が入った、どこかの上級貴族の紋章が見える。
「……ミリア・フェルナー」
教師の声が冷たく響いた。
「この金貨袋が、あなたの机から見つかりました。説明できますか?」
ミリアは青ざめた顔で首を振った。
「ち、違うんです! わたし、そんなもの見たことも……!」
だが、クラスの空気はすでに“判決”を下していた。
囁き声が広がる。
「やっぱり……」「貧しい子爵家なんて」「同情して損したわ」
リリアンヌは席に座ったまま、静かに拳を握りしめた。
――これは間違いだ。
ミリアはそんなことをする子じゃない。
あの日、ハンカチを落としたときに見た泣き顔。
あれは、誰かを傷つける人間のものではなかった。
けれど、今、教師の視線が彼女の方に向けられる。
「セレスティア嬢。あなたは、何か知っていませんか?」
教室中が一瞬で静まり返る。
皆の期待と疑念が、一斉にリリアンヌの肩にのしかかった。
その瞬間、母クラリスの声が脳裏に蘇る。
「感情で動く者は、必ず敗者になるのよ。」
「正しさとは、沈黙の中にあるものです。」
リリアンヌの胸の奥で、**“秘密”**が疼いた。
――ミリアの形見のハンカチ。
それを守ると、誓った。
けれど今、それを話さなければミリアは罪人になる。
もし話せば、“母の教え”を裏切る。
息が苦しい。
まるで胸の奥に、冷たい鎖が巻きついていくようだった。
教師が、もう一度問いかける。
「セレスティア嬢。あなたは、何か見ましたか?」
リリアンヌは、ゆっくりと唇を開いた。
「……いいえ。私は、何も見ていません。」
沈黙。
その言葉が落ちた瞬間、ミリアの瞳が揺れる。
――信じていた人に、背を向けられた目だった。
リリアンヌは視線を逸らした。
机の上の紅茶の香りが、なぜか血の味に変わっていく。
“正しさ”を選んだ。
けれど、“やさしさ”を殺した。
胸の奥で、何かが静かにひび割れる音がした。
夜の寄宿舎は、深い静寂に包まれていた。
外では小雨が降り、屋根を叩く音が子守唄のように響いている。
けれど――その静けさの奥で、かすかなすすり泣きが混じっていた。
リリアンヌは寝台の上で目を開けた。
声のする方へ、ゆっくりと身体を起こす。
それは廊下の向こう、ミリアの部屋からだった。
扉の前まで歩くと、薄暗い明かりが足元を照らす。
彼女は手を伸ばしかけて――止まった。
「……どうして、信じてくれなかったの?」
震える声が、木の扉越しに漏れてくる。
ミリアの声。
昼間、あの教室で泣きそうにしていた子の声。
リリアンヌの喉がきゅっと締まる。
言葉が出ない。
開けたら、きっと謝ってしまう。
でも、謝れば――母の教えを裏切る。
「感情で動く者は、必ず敗者になるのよ。」
母の言葉が、また胸の奥で冷たく響いた。
それでも耳を塞げない。
ミリアの泣き声は、まるで胸の内側を叩くように続く。
「私……何もしてないのに……」
「リリアンヌさままで……」
その名を呼ばれた瞬間、息が止まった。
心のどこかで、“彼女には気づかれていない”と信じていた。
けれど、ミリアは分かっていたのだ。
リリアンヌが何かを見て見ぬふりをしたことを。
リリアンヌは扉に額を押し当てた。
冷たい木の感触が肌に伝わる。
涙は出なかった。
けれど、胸の奥が静かに軋む――まるで、内側から亀裂が入るように。
やがて、泣き声は弱まり、静寂が戻る。
リリアンヌはそっと自室へ戻り、鏡の前に立った。
ランプの光が、鏡の中の少女を照らす。
完璧な微笑み。整った髪。まるで母の写し鏡。
――けれど今夜だけは、その笑顔が違って見えた。
それは“誰かを救えなかった顔”。
そして、“誰かを傷つけた証”。
リリアンヌは指先で頬をなぞる。
笑っているはずなのに、冷たい。
「……こんな顔で、どうして“正しい”なんて言えるのかしら。」
鏡の中の少女は答えない。
ただ、紅茶色の瞳がわずかに揺れ、光を失っていった。
翌朝の食堂は、いつもより静かだった。
長いテーブルに並ぶ銀のカップが、朝の光を受けて淡く光っている。
焼きたてのパンの香り。
軽やかな笑い声。
――だというのに、ひとつだけ空いた席があった。
ミリアの席。
教師は淡々と告げた。
「ミリア嬢は、家庭の事情で本日付けで退学となります」
その言葉に、数人の生徒が顔を見合わせた。
でも、誰も何も言わなかった。
“無関係”という仮面が、朝の空気を覆っていく。
リリアンヌは姿勢を崩さず、静かに紅茶を口に運んだ。
カップの中の琥珀色が、今日はやけに暗く見える。
ひと口――苦い。
昨日と同じ茶葉なのに、喉を通るたびに胸が焼ける。
「私は間違えなかった。……でも、正しくもなかった。」
唇から、ほとんど音にならない声が漏れる。
けれど、誰も気づかない。
誰も、彼女のカップの中を覗き込もうとしない。
紅茶の表面に、ゆらりと揺れる自分の顔が映っていた。
微笑んでいる。
けれど、その微笑は、どこか壊れかけている。
まるで、表面の薄い膜がひとつ裂けたように。
彼女はそっとカップを置いた。
金の縁がかすかに震える。
その音が、罪の余韻のように響く。
窓の外では、春の光が庭を照らしていた。
花々が風に揺れ、柔らかく微笑んでいる。
――けれど、その光は届かない。
カップの底に沈んだ黒い影のように、
リリアンヌの心には、もう戻れない何かが沈んでいた。




