書斎の影 ―― 父の言葉は正しさに満ちて、温かさを欠いていた
父の呼び出し
姉妹の肖像が完成して数日後の午後。
リリアンヌは侍女に呼ばれ、屋敷の最奥にある父の書斎へと向かっていた。
扉の前に立つだけで、胸の奥が硬くなる。
整然とした回廊、窓から差し込む光の直線――どれもが、父アルトリウスの性格をそのまま写しているようだった。
「入りなさい」
低く、抑揚のない声。
書斎の中は整いすぎていた。
壁一面を覆う本棚、寸分の乱れもない机上。
そしてほのかに香るのは、冷たい香水と古紙の匂い。
リリアンヌは裾をつまみ、深く一礼した。
「父上、お呼びでしょうか」
アルトリウスは顔を上げないまま、手元の書類に視線を落としたままだ。
「リリアンヌ、君の評判は上々だ。
王女殿下の侍女たちの間でも、『模範の娘』と聞く。」
「ありがとうございます」
彼女はそう答えた。けれど、父の声には称賛の響きがなかった。
やがてアルトリウスは書類を閉じ、静かに言葉を継ぐ。
「だが――まだ“王家に相応しい器”ではない。」
リリアンヌの胸に、冷たい針が刺さる。
「……はい」
「君にはまだ“深さ”が足りない。王家を支える者は、心ではなく理で動かねばならぬ。」
そう言って、机の引き出しから一枚の課題表を取り出した。
そこには、びっしりと追加の教育項目が並んでいる。
王政史の暗記、外交礼法、馬術、詩の暗唱――
彼の声は淡々と続いた。
「努力を怠る者に、神は微笑まぬ。」
それは彼の口癖。
リリアンヌが物心ついたころから、何度も聞かされてきた“正義の呪文”だった。
彼女は無言で受け取る。
用紙の端が、微かに震えた。
アルトリウスはようやく視線を上げ、娘を見つめた。
その瞳は鋼のように澄み切っているが、どこまでも冷たい。
「リリアンヌ。正しさを見失うな。
間違えれば、全てを失う。
それが――貴族の道だ。」
静寂が満ちた。
書斎の空気は重く、壁に掛けられた剣や王家の紋章が、“正しさ”という名の鉄の鎖のように輝いていた。
だが、その中には――
ほんのひとかけらの“温もり”すら、存在しなかった。
リリアンヌは深く頭を下げ、
「はい、父上」
とだけ言って、扉を閉める。
その瞬間、背後から聞こえたのは、
紙の擦れる音と、時計の規則的な音だけだった。
書斎の奥、ランプの光がゆらりと揺れる。
その光が照らす父アルトリウスの横顔は、彫像のように硬かった。
「リリアンヌ」
彼は机の上の羽ペンを置き、淡々と告げた。
「我々は、血によって義務を負う。」
リリアンヌは息を呑む。
父の声には怒りも優しさもない。
ただ、決して逆らえない“真理”のような響きがあった。
「幸福は――目的ではない。」
彼の瞳が静かに娘を射抜く。
「正しさの結果として、神が与える“副産物”にすぎぬのだ。」
その言葉は、静かにリリアンヌの胸に沈んでいった。
けれど、その意味は理解できなかった。
“幸福”は、感じてはいけないものなのだろうか。
“微笑むこと”は、母の教えではなかったのか。
彼女の中で、二つの教えが重なっていく。
――“笑顔は義務”。
――“正しさも義務”。
母が求めた“形の完璧”。
父が課す“理の完璧”。
その両方が、リリアンヌの胸を締めつけていく。
「……はい、父上」
かろうじて声を出すと、アルトリウスは立ち上がった。
彼の影が机の上に伸び、娘の前で止まる。
そして、ゆっくりと手を伸ばした。
白い指が、リリアンヌの頭に置かれる。
それは撫でるというより、印を刻むような仕草だった。
祝福ではなく、義務の宣告。
「間違えるな。」
低く、静かな声。
「間違えば、全てを失う。それが――貴族の道だ。」
リリアンヌの肩がわずかに震える。
だが彼女は笑顔を崩さなかった。
それが“娘”としての正しさだと、どこかで思い込んでいたから。
ランプの火が小さく揺れる。
その光の中で、彼女は二つの影に包まれているように感じた。
母の影――形の完璧を求める白い手。
父の影――理の完璧を語る冷たい声。
二つの影が交わる場所に、リリアンヌの心は閉じ込められていた。
それはまだ名もなき、“二重の檻”だった。
扉が重く閉じる音が、廊下に低く響いた。
リリアンヌは深く息を吐き、姿勢を正す。
父の言葉がまだ胸の中に残っている――硬く、鋭く、消えない棘のように。
そのとき、柱の影から小さな声がした。
「……お姉さま?」
振り向くと、妹セレナが廊下の角から顔を覗かせていた。
まだ幼いその瞳は、不安と好奇心が入り混じって揺れている。
「セレナ……どうしてここに?」
「お父さまの声が聞こえたの。少し、こわくて……」
セレナは小さく身を縮めた。
「お父さまの部屋、冷たい風が吹いてた」
リリアンヌは一瞬、言葉を失った。
確かに――あの書斎には、どこか人の気配を拒む冷たさがあった。
けれど、それを“間違い”とは思ってはいけない。
そう教えられてきた。
彼女は無理に笑みを作る。
「それが……“正しい風”なのよ」
セレナが瞬きをする。
「正しい風……?」
「そう。貴族は、正しい風の中で育つの。
だから大丈夫、怖がらなくていいわ」
自分でも、その言葉が何を意味しているのか分からなかった。
“正しい風”とは何だろう。
あの冷たさを肯定することが、本当に正しいのだろうか。
胸の奥で、何かがきしむ音がした。
笑顔を浮かべながら、痛みが広がっていく。
セレナはおずおずと姉の手を握った。
その小さな温もりが、リリアンヌの凍った指先にじんわりと染みる。
――ああ、やっぱり。
冷たい風なんて、本当はどこにもいらなかったのに。
けれど彼女は、その想いを飲み込む。
笑顔のまま、妹の手をそっと離した。
「もう部屋に戻りましょう、セレナ。
外の風に、当たらないようにね」
そう言って歩き出した背中に、
妹の小さな声が震えながら届いた。
「……お姉さま、手が冷たいよ」
リリアンヌは返事をしなかった。
ただ、胸の奥で“正しさ”という名の鎖が、
少しずつ重くなっていくのを感じていた。
夜。屋敷は深い静寂に包まれていた。
壁の時計が刻む音だけが、かすかに響く。
リリアンヌは裸足のまま、冷たい床を踏みしめて歩く。
目指すのは――父の書斎。
昼間は重厚な扉の向こうに立つことすらためらわれる場所。
けれど今夜だけは、どうしても確かめたかった。
あの“正しい風”の源が、どこから吹いているのかを。
扉を押すと、静かに軋む音がした。
書斎の中にはランプがひとつ灯っている。
淡い橙色の光が机や本棚を照らし、
漂う香水と古紙の匂いが彼女を包んだ。
本棚の最上段に、父がいつも大切にしている革張りの本がある。
リリアンヌは椅子を引き寄せ、両手で慎重に取り下ろした。
開かれたページの中央――そこに、古い文字でこう記されていた。
「白薔薇の娘は、王冠を支える影となるべし。」
言葉を目で追ううちに、息が浅くなっていく。
――影。
それは、光を支えるために形を失う存在。
決して自ら輝くことのない、沈黙の証。
リリアンヌは膝の上で本を閉じた。
硬い表紙の感触が、心の奥に重く沈む。
「私は……“支える者”。
でも、“選ぶ者”ではないのね」
口に出した瞬間、胸の奥で小さな何かがひび割れた。
“正しい娘”であろうとするたびに、
自分という輪郭が、少しずつ削られていく気がした。
ふと、机の上のランプが揺れる。
光がわずかに乱れ、壁に影が伸びた。
その影は、机の前に立つ自分のもののはずだった。
けれど――なぜだろう。
そこに映る姿は、父の背と重なって見えた。
姿勢、首の角度、手の置き方まで、そっくりそのまま。
「……私の影、お父さまの影……どっちなの?」
声に出した瞬間、喉の奥が焼けつくように痛んだ。
彼女は立ち尽くしたまま、
ランプの光の中に揺れる“影”を見つめ続けた。
その影はやがて、ゆっくりと壁に溶けていく。
まるで“正しさ”という名の鎖に、
自分の心までも飲み込まれていくように――。
書斎の灯
重い扉の向こうから、足音が近づいてきた。
規則正しく、ためらいのない歩調――父のものだ。
リリアンヌは息を呑み、慌てて本を閉じる。
革表紙が鳴る音が、やけに大きく響いた。
心臓が跳ねる。
ランプの光が、まだ机の上を淡く照らしている。
彼女は震える指で火を吹き消した。
部屋が一瞬にして闇に沈む。
――なのに。
硝子の中、消えたはずの炎が、
細い糸のようにまだ燃えていた。
それは、彼女の中に残った“問い”の形に似ていた。
「正しさとは、誰のためのものなの?」
「なぜ、温かさを持つことはいけないの?」
小さな灯が、影をつくる。
影の形は、彼女自身――けれどもう、父とは少し違って見えた。
扉の外で、金属のノブが回る音。
リリアンヌは振り返りもせず、机の上のランプをそっと両手で包み込む。
炎が、掌の中でかすかに揺れる。
その温もりだけが、彼女にとっての“真実”だった。
そして、静かに呟く。
「……私はまだ、燃えている。」
扉が開き、書斎に冷たい空気が流れ込む。
けれどその中でも、灯は消えなかった。
――白薔薇の娘は、今日も“影”として咲き続ける。
だが、その影の奥では、確かにひとつの光が息づいていた。




